先日、新宿にて、著名人である、望月俊孝さん、サニー久永さん、飯島敬一さん、クリス岡崎さんによる、カンボジア「夢の学校」チャリティイベント報告会に参加させて頂きました。
4名の方はカンボジアに建てた学校へ視察に行かれました。
たった30数年ほど前にカンボジアではクーデターを恐れて、自国の知識人すべてを殺戮し、学校も本も焼かれ、国の平均年令14才にまで低下し、この国にはほとんど老人がいないそうです。
そのような大変な状況ではありますが、子どもたちは、笑顔で出迎えてくれたそうです。
カンボジアへ行かれた皆さまを見て、素晴らしいと思ったことは、ただ、お金を寄附するということではなく、教育を施す仕組みを作る等、子どもたちの将来を見据えながら活動されている点です。視野の大きさを感じました。
今回は、サニー久永さんについて、ふれさせて頂きたいと思います。久永さんとお話させて頂き、非常に嬉しく思います。
久永さんは柔道整復師、カイロプラクティック、整体等のサロン、治療院を複数開業されていて、本を数十冊も書かれています。また、日本オリンピック委員会強化スタッフトレーナーもされています。
久永さんの人生を変えたのは、学生の頃、難病で寝たきりになっていた叔母を救った、ある一人の医師との出会いでした。
叔母は何度ものさまざまな病院の門を叩き、頼み込んで診てもらっても、いっこうに改善しないままでした。
そんなとき知人から、血液専門の医師であり、また東洋医学や療術にも詳しい一人の医師を紹介してもらいました。その先生は看板ひとつ掲げないまま、口コミだけで大評判を得ている人でした。叔母は、カイロプラティックや鍼、整体、気功などを総合したその先生の治療を、10日に一度の割合で受け続けました。半年ほどすると、治療を終えて帰るときには目の輝きも増し、誰かに支えられなくても歩けるようになっていました。そして一年半ぐらいで、健常者とほぼ同様の生活ができるようになるまで回復しました。
「この先生のような生き方がしたい」
と強く思い、叔母の回復に心が震えるほどの感動を体験しました。自分も手に職をつけ、困っている人や悩んでいる人を助けてあげたい、そして喜んで頂きたいと思い、癒しの業界、手技療法の業界に入ることを決意しました。
学校が終わると、先生のお話を聞きたい一心で、毎日のようにその診療所へ通い続けました。入れ替わり立ち替わり、先生のもとには患者が訪れ、涙を流して回復を喜ぶ人もいれば、「会社は倒産して、身体もボロボロになって・・・」と涙ながらに訴える人もいました。先生は患者の身体の治療とともに、心の治療も行っていたのです。
「いいことにも悪いことにも、すべてに感謝しなさい」
先生は、いつもこうおっしゃっていました。
そして、地元鹿児島の高校を卒業し、親の仕送りを受けず、自らの力で学費を稼ぎながら東京の指圧専門学校に通うため、日経新聞の新聞奨学生の制度を利用することに決めました。作り付けのベッドと作り付けのベッドと畳一畳分の部屋が用意され、朝食と夕食付きで、入学金と学費、それに毎月8万円の給与を稼ぐことができたからです。
深夜2時頃、ようやくウトウトしかけたと思うと、朝刊を運んできたトラックが荷物を降ろす「ドーン、ドーン」という音で目が覚めます。新聞に広告を折り込む作業があるため午後3時には起きる必要があった為、日中は睡眠不足でフラフラで、地に足が着かないような状態でとても苦しい毎日を送りました。
しかし、入学金を奨学金制度で支払ってもらっている為、途中で逃げ出せば借金だけが残ってしまいます。そんななか、同じく新聞を配りながら学校に通っている寮の先輩方の体験談や苦労話を聞いて、「他人にできることなのだから、自分にもできるだろう」と思い直し、奮起しました。
最初は、先輩の後ろを自転車でついていきながら、一人で配るときに順路を忘れても困らないように、新聞の専売所から支給された順路帳に一軒一軒、配達先の名前を書いては順路をメモしていきました。
上京したのが3月10日。4月の専門学校の入学式までは時間がありましたから、朝刊を配り終えてから夕刊の配達までの間、さらには夕刊を配った後も、道を覚えるために、順路帳を片手に自転車で回ることを繰り返しました。
そんな努力の成果が実って、最初は3時間ぐらいかかっていたのが、専門学校の始業式を迎える頃には2時間ぐらいで配り終えることができるようになり、新聞配達をすること自体が楽しくなっていきました。
新聞配達の仕事で「どんなに大変なことでも、続けていけば苦痛の先には喜びがある」という「継続の法則」が身につきました。
当初は、指圧の専門学校を2年間で卒業したら地元に帰って、難病の叔母を救ってくれた恩師のもとに弟子入りしたいと考えていました。
しかし、卒業を間近に控えたある日、先生は電話で「開業するなら、田舎で単価の低い治療をするよりも、東京でやりなさい」と教えてくれました。つまり、東京で開業しなさいということです。開業するにはどれくらいのお金が必要なのだろう?といろいろ調べていくと、店舗を借りるための保証金、内装費、治療のためのベッド代などで、1000万円はかかるということがわかりました。
新聞配達をしながら学費を稼いで学校に通っていた為、お金を極力使わない生活には慣れていました。その延長線上でお金を貯め続けていけばいいわけで、一千万円と言っても、とくに大変なこととは思いませんでした。
施術の技法を習得するため、午前中は池袋にある日本指圧専門学校に通い、午後は五反田の治療院で働き、それが終わるとさらに夜9時から蒲田の出張マッサージ店で働くという形で、かけ持ちでお金を稼いでいました。
五反田の治療院は、一日に50人もの患者さんが来るほど人気があり、ひと月あたり40~50万円を稼ぐことができました。さらに、治療院の定休日である日曜日にはそのスペースを借りて一人で自費治療をさせてもらうなど、ほとんど休みなしに働きました。そんな生活を2年続けた頃、貯金の額はいつの間にか700万円に達していました。
わずか2年間で700万円もの貯金ができたのは、「開業したい」という明確な目標があったからこそでした。お酒を飲んだり遊びに行ったりということは、ほとんどありませんでした。でもそれは、「楽しいことをやらない」というより、「やりたいことを実現するにはどうすればいいのか」ということを、常に問いかけてセルフコーチングし、一年後二年後の自分自身の姿をイメージしながら前に進んでいった結果なのです。
そして、わすか10ヶ月後には2店舗目をオープンすることができ、6年間で15店舗をオープンすることができました。
私は久永さんのお話を聞いて、堅実に努力することの大切さを学ばせて頂きました。ネット上では明るく、愛溢れた投稿をされていますが、その背景に努力と忍耐が隠れていることを思い知らされました。
久永さんは
「他人が喜ぶ姿を見ることは自分にとってもうれしく、たいへん気持ちのよいことです。他人に喜ばれることを提供することによって、その喜ぶ姿を味わえるということでは、つまり「感謝される」ということです。相手にとって必要なものを与えたり、困っていることを解決することで喜んでもらった結果として、自分もよい影響やよい気を受け、喜びや情報、そしてお金を受け取ることができるのです。」と語られています。
その言葉を聞いて、心が癒され、洗われる感覚がしました。私も久永さんのように、真心を込めて、人と接していきたいと改めて決意させて頂きました。久永さんとの出会いに心から感謝します。(横)
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今回は、サニー久永さんについて、ふれさせて頂きたいと思います。久永さんとお話させて頂き、非常に嬉しく思います。
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久永さんの人生を変えたのは、学生の頃、難病で寝たきりになっていた叔母を救った、ある一人の医師との出会いでした。
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そんなとき知人から、血液専門の医師であり、また東洋医学や療術にも詳しい一人の医師を紹介してもらいました。その先生は看板ひとつ掲げないまま、口コミだけで大評判を得ている人でした。叔母は、カイロプラティックや鍼、整体、気功などを総合したその先生の治療を、10日に一度の割合で受け続けました。半年ほどすると、治療を終えて帰るときには目の輝きも増し、誰かに支えられなくても歩けるようになっていました。そして一年半ぐらいで、健常者とほぼ同様の生活ができるようになるまで回復しました。
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学校が終わると、先生のお話を聞きたい一心で、毎日のようにその診療所へ通い続けました。入れ替わり立ち替わり、先生のもとには患者が訪れ、涙を流して回復を喜ぶ人もいれば、「会社は倒産して、身体もボロボロになって・・・」と涙ながらに訴える人もいました。先生は患者の身体の治療とともに、心の治療も行っていたのです。
「いいことにも悪いことにも、すべてに感謝しなさい」
先生は、いつもこうおっしゃっていました。
そして、地元鹿児島の高校を卒業し、親の仕送りを受けず、自らの力で学費を稼ぎながら東京の指圧専門学校に通うため、日経新聞の新聞奨学生の制度を利用することに決めました。作り付けのベッドと作り付けのベッドと畳一畳分の部屋が用意され、朝食と夕食付きで、入学金と学費、それに毎月8万円の給与を稼ぐことができたからです。
深夜2時頃、ようやくウトウトしかけたと思うと、朝刊を運んできたトラックが荷物を降ろす「ドーン、ドーン」という音で目が覚めます。新聞に広告を折り込む作業があるため午後3時には起きる必要があった為、日中は睡眠不足でフラフラで、地に足が着かないような状態でとても苦しい毎日を送りました。
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