日本人はかつて世界の人々を驚嘆させる気高い精神を持っていました。長い歴史の中で先人が営々と積み重 ねてきた世界一の精神文明の国が日本でした。 私利私欲、自分たちの利害より何よりも公を優先し、国や社会のために尽くすーこれが日本人の心でした。 先人たちは大和心を燃えたぎらせ、過去の幾多の苦難を凛としてはね返してきました。
大東亜戦争では、欧米の国々に虐げられていたアジアの人々を救うために多くの日本人が戦いました。日本軍が、オランダ領東インドと呼ばれ、オランダの植民地だったインドネシアのジャワ島に上陸したのは、1942年の初めでした。日本軍は現地の人々に自分たちはあなたたちをオランダのひどい統治から救うために来たのだとの意思を伝えるために、独立インドネシアの国旗、「メラ・プチ (インドネシアの紅白)」の旗をいたるところに掲げ、 独立インドネシアの国歌「インドネシア・ラヤ」をラジオで流し、宣言しました。「日本軍は征服者オランダを追い出し、インドネシアの独立を助けるために来た」と。三百五十年もの間、オランダのなすがまま、差別され苦しめられていたジャワの人々は喜び、日本軍に協力しました。その結果、日本軍はたったの九日間でオランダ軍を追い出します。 このとき、日本軍の今村均司令官は現地の人々に向けて、「日本人とインドネシア人は同じ根もとから発生した同族で、日本軍はインドネシアとの共存共栄をはかる。同一家族主義、同胞主義にのっとって軍政を実施する」と発表しました。これは支配するか支配されるかで三世紀もの間虐げられてきた、現地の人々にとっては天地がひっくりかえるほどの驚きでした。日本軍の柳川宗成中尉がオランダ軍の司令部があった バンドンにひとりで潜入し、オランダ軍の指揮をとるテルボールテン中将に降伏をうながすという密命を受けたときのことです。柳川中尉はオランダ軍の目をごまかすために現地人に変装して、ふたりの通訳とともに、見つからないよう夜中に道なき道を進みながらバンドンを目指しました。 柳川中尉がバンドンに着いたのは、日本人が上陸して から七日目の夜。中尉はオランダ司令部に乗り込み、寝ていたテルボールテンを叩き起こして迫りました。 「日本軍は既にバンドンを三方から取り囲んでいる。 あなたの部下や兵を傷つけないためにも、一刻も早く降伏願いたい」 九日目にはオランダ軍は降伏しました。 インドネシアの人々はオランダの植民地下であった三百五十年の間に何度も抵抗して、独立を勝ち取ろうと しました。しかし、そのたびに敗北を喫し、深い無力感を味わっていました。自分たちと同じ有人種の日本 軍があの強い白人のオランダ軍を九日間で敗った。これは現地の人たちの大きな自信になりました。
インドネシアを解放した日本軍は、次に独立をうながすため、青年たちの教育と訓練に取りかかります。 柳川中尉以下、土屋競中尉、六川正美中尉らが教官をつとめました。柳川中尉は教え子たちを常にこう励ましていました。 「独立は自らの力で勝ち取るものであり、与えられるものではない。諸君にその力が備わったとき、自ずと独立は成る。要は諸君の努力次第だ。私たちも教育に全力を尽くす。私らに負けるようでは独立はできないぞ」 五十人の青年たちは「サンパイ・マティ(死ぬまでやろう)」を合い言葉にがんばり、半年後には、彼らがリーダーとなって、祖国防衛義勇軍(PETA)が結成されます。PETAはやがて三万八千人の将兵を養成し、独立軍の主力となり、インドネシア国軍の母体となりました。 戦う力がついただけでは独立はできません。国を運営する人や産業を盛んにできる能力を育てる必要があります。オランダは、インドネシアを植民地にしていた 三百五十年の間、現地の人々にはほとんど教育を行なってきませんでした。 教育を受けたのは、三百五十年でたったの数千人です。インドネシアにはいろいろな民族が地域に住んでいて、言葉も異なります。しかし、共通の言葉もつくろうとしませんでした。 なぜ、教育をしなかったのか。現地の人たちが知恵をつけて、自分たちに刃向かってくることを恐れたからです。共通語をつくらなかったのも、団結して抵抗されることを恐れたからでした。 つまりオランダは、現地の人々を奴隷以下の労働力とみなし、文盲対策をとり、搾り取るだけ搾りとったのでした。 このため、根本からさまざまな人材を育成する必要がありました。日本は小中学校をはじめ、官吏学校、医科大学、農家大学、水産学校など各種専門学校をつくり、十万人の人々を育てました。 そして、日本政府は1945年9月7日をめどに、インドネシアの独立を約束しました。しかしインドネシアの 独立は叶いませんでした。その前に日本が戦争に負けたからです。日本軍が去った後、インドネシアは再びオランダに占拠されてしまいました。 インドネシアの独立を願っていた現地の日本人は嘆き悲しみました。そして多くの人が日本政府の帰国命令を無視して、現地に残り、インドネシアの独立のために現地の人と共に戦おうと決意します。軍人は部隊から脱走してまで・・・ 「われわれはインドネシアの人々に独立を約束し、励ましてきた。敗戦・降伏したからといって、アジアの人々の解放をいまだ成し遂げられないのに、おめおめと祖国・日本に帰られようか。日本軍人として動けば、国家に迷惑をかける。日本国籍から脱してでも戦う」 これが日本兵たちの心情でした。 インドネシア国軍に合流した日本兵士の数、スマトラ 島五百人、ジャワ島三百人。民間人の勇士を加えると、その数二千人近くにのぼるといわれています。うち四百人が独立戦争で戦死しました。 生き残った日本人の中には、インドネシア独立後も、 彼の地にとどまり帰化して、現地の人々と独立国の礎を共に築いた人も少なくありません。こうした日本人は現地では「ジャビンドウ」と呼ばれ、たいそう尊敬を集めています。 インドネシアの独立広場には独立記念塔が建っていま す。この中に収められている独立宣言書の日付は西暦ではなく、「皇紀」といって、戦前、日本が使っていた暦の日付が記されています。本国の命令を破ってまで、自分たちと共に戦った日本の兵士たちへの敬意を込めて、独立したインドネシアのアフマド・スカルノ初代大統領は独立宣言書の日付を皇紀で記したのです。 1957年、来日したインドネシアのブン・トモ情報・ 宣伝相は、日本政府の要人に感謝を込めていいました。 「そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。それなのに日本だけに任せ、少ししかお手伝いできず、まことに申し訳なかった」
どんなに相手が強くても、まちがっていることはまちがっている。やめさせようとして、たとえ命がなく なってもアジアを解放するためには戦わなくてはなら ないというのが日本人の心意気でした。このように凛とした精神に貫かれていたのです。
インドネシアは親日国というのは存じていましたが、 その背景に先人たちのインドネシアへの貢献があった からなのですね。この日本の武士道精神をこれからも引き継いでいき、日本人としての誇りを忘れずに持ち続けていきたいと思いました。(横)
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製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業
大東亜戦争では、欧米の国々に虐げられていたアジアの人々を救うために多くの日本人が戦いました。日本軍が、オランダ領東インドと呼ばれ、オランダの植民地だったインドネシアのジャワ島に上陸したのは、1942年の初めでした。日本軍は現地の人々に自分たちはあなたたちをオランダのひどい統治から救うために来たのだとの意思を伝えるために、独立インドネシアの国旗、「メラ・プチ (インドネシアの紅白)」の旗をいたるところに掲げ、 独立インドネシアの国歌「インドネシア・ラヤ」をラジオで流し、宣言しました。「日本軍は征服者オランダを追い出し、インドネシアの独立を助けるために来た」と。三百五十年もの間、オランダのなすがまま、差別され苦しめられていたジャワの人々は喜び、日本軍に協力しました。その結果、日本軍はたったの九日間でオランダ軍を追い出します。 このとき、日本軍の今村均司令官は現地の人々に向けて、「日本人とインドネシア人は同じ根もとから発生した同族で、日本軍はインドネシアとの共存共栄をはかる。同一家族主義、同胞主義にのっとって軍政を実施する」と発表しました。これは支配するか支配されるかで三世紀もの間虐げられてきた、現地の人々にとっては天地がひっくりかえるほどの驚きでした。日本軍の柳川宗成中尉がオランダ軍の司令部があった バンドンにひとりで潜入し、オランダ軍の指揮をとるテルボールテン中将に降伏をうながすという密命を受けたときのことです。柳川中尉はオランダ軍の目をごまかすために現地人に変装して、ふたりの通訳とともに、見つからないよう夜中に道なき道を進みながらバンドンを目指しました。 柳川中尉がバンドンに着いたのは、日本人が上陸して から七日目の夜。中尉はオランダ司令部に乗り込み、寝ていたテルボールテンを叩き起こして迫りました。 「日本軍は既にバンドンを三方から取り囲んでいる。 あなたの部下や兵を傷つけないためにも、一刻も早く降伏願いたい」 九日目にはオランダ軍は降伏しました。 インドネシアの人々はオランダの植民地下であった三百五十年の間に何度も抵抗して、独立を勝ち取ろうと しました。しかし、そのたびに敗北を喫し、深い無力感を味わっていました。自分たちと同じ有人種の日本 軍があの強い白人のオランダ軍を九日間で敗った。これは現地の人たちの大きな自信になりました。
インドネシアを解放した日本軍は、次に独立をうながすため、青年たちの教育と訓練に取りかかります。 柳川中尉以下、土屋競中尉、六川正美中尉らが教官をつとめました。柳川中尉は教え子たちを常にこう励ましていました。 「独立は自らの力で勝ち取るものであり、与えられるものではない。諸君にその力が備わったとき、自ずと独立は成る。要は諸君の努力次第だ。私たちも教育に全力を尽くす。私らに負けるようでは独立はできないぞ」 五十人の青年たちは「サンパイ・マティ(死ぬまでやろう)」を合い言葉にがんばり、半年後には、彼らがリーダーとなって、祖国防衛義勇軍(PETA)が結成されます。PETAはやがて三万八千人の将兵を養成し、独立軍の主力となり、インドネシア国軍の母体となりました。 戦う力がついただけでは独立はできません。国を運営する人や産業を盛んにできる能力を育てる必要があります。オランダは、インドネシアを植民地にしていた 三百五十年の間、現地の人々にはほとんど教育を行なってきませんでした。 教育を受けたのは、三百五十年でたったの数千人です。インドネシアにはいろいろな民族が地域に住んでいて、言葉も異なります。しかし、共通の言葉もつくろうとしませんでした。 なぜ、教育をしなかったのか。現地の人たちが知恵をつけて、自分たちに刃向かってくることを恐れたからです。共通語をつくらなかったのも、団結して抵抗されることを恐れたからでした。 つまりオランダは、現地の人々を奴隷以下の労働力とみなし、文盲対策をとり、搾り取るだけ搾りとったのでした。 このため、根本からさまざまな人材を育成する必要がありました。日本は小中学校をはじめ、官吏学校、医科大学、農家大学、水産学校など各種専門学校をつくり、十万人の人々を育てました。 そして、日本政府は1945年9月7日をめどに、インドネシアの独立を約束しました。しかしインドネシアの 独立は叶いませんでした。その前に日本が戦争に負けたからです。日本軍が去った後、インドネシアは再びオランダに占拠されてしまいました。 インドネシアの独立を願っていた現地の日本人は嘆き悲しみました。そして多くの人が日本政府の帰国命令を無視して、現地に残り、インドネシアの独立のために現地の人と共に戦おうと決意します。軍人は部隊から脱走してまで・・・ 「われわれはインドネシアの人々に独立を約束し、励ましてきた。敗戦・降伏したからといって、アジアの人々の解放をいまだ成し遂げられないのに、おめおめと祖国・日本に帰られようか。日本軍人として動けば、国家に迷惑をかける。日本国籍から脱してでも戦う」 これが日本兵たちの心情でした。 インドネシア国軍に合流した日本兵士の数、スマトラ 島五百人、ジャワ島三百人。民間人の勇士を加えると、その数二千人近くにのぼるといわれています。うち四百人が独立戦争で戦死しました。 生き残った日本人の中には、インドネシア独立後も、 彼の地にとどまり帰化して、現地の人々と独立国の礎を共に築いた人も少なくありません。こうした日本人は現地では「ジャビンドウ」と呼ばれ、たいそう尊敬を集めています。 インドネシアの独立広場には独立記念塔が建っていま す。この中に収められている独立宣言書の日付は西暦ではなく、「皇紀」といって、戦前、日本が使っていた暦の日付が記されています。本国の命令を破ってまで、自分たちと共に戦った日本の兵士たちへの敬意を込めて、独立したインドネシアのアフマド・スカルノ初代大統領は独立宣言書の日付を皇紀で記したのです。 1957年、来日したインドネシアのブン・トモ情報・ 宣伝相は、日本政府の要人に感謝を込めていいました。 「そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。それなのに日本だけに任せ、少ししかお手伝いできず、まことに申し訳なかった」
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インドネシアは親日国というのは存じていましたが、 その背景に先人たちのインドネシアへの貢献があった からなのですね。この日本の武士道精神をこれからも引き継いでいき、日本人としての誇りを忘れずに持ち続けていきたいと思いました。(横)
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