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お祭り

 今日(9日) と明日(10日)、わが市はお祭りだ。町の中心部では、ずらっと並んだテントの出店で陶器の廉売市が開かれる。また、市内の窯元が集まる陶器の里でも展示即売会が開かれ、多くの買い物客でにぎわう。夜には花火大会が開かれ、行く夏を惜しむかのように夜空に大輪の花が咲き誇る。決して華々しいものではなく、単発的にしか上がらないが、それでもこの花火を見ると「もう秋なんだな」と感慨がひとしおになる。ぽ~んと打ち上がった花火がパーッと開くのを横目で見ながら、電灯の明かりで照らされた屋台を冷やかしながら歩くのはなかなか風情があるものだ。
 などと書いてはみたが、もうここ10年近く祭り会場に出向いたことはない。祭りの日に授業をやっても出席する生徒はほとんどいないので、どうしても休むわけにはいかに私立中学受験生のクラスを除いては、全ての授業を休みにする。時間はあるのだから、祭りに行けばいいのだが、なかなかそんな気が起こらない。15分も歩けば廉売市にたどり着けるのだから、行こうと思えば簡単なことだ。ただ、生まれてからずっとこの町に暮らしていると、陶器など何も珍しいものでもなく親戚のところに行けばいくつでももらってこれるものだから、あえてお金を出してまで欲しいと思ったことはない。身近にありすぎるとその価値が分からないのかもしれないし、陶器のことなど何も知らないから、その魅力が私には理解できないのかもしれない。今まで陶器のことをこのブログで記事にしようと思ったことは何度もあるが、基礎知識さえも全く持ち合わせていない私では、先日の招き猫のように写真を貼ってお茶を濁すしかない。
 と、思っていたら、小学校の卒業文集に陶器のことについて書いていたのを、突然思い出した。ぼろぼろになったその文集が見つかったので、36年ほど前の私がまとめた陶器についてのレポートをそのまま載せてみる。

    「陶器について」
  13世紀のはじめごろ、尾張の国の加藤四郎左衛門景正が、磁器を焼いて
 みたいと自分で窯を作り、いろいろ研究していた。だが、どんなに苦心して
 も、磁器はもちろん陶器さえも焼けなかった。そこで四郎左衛門は中国へ行
 って焼物の研究をしようと決心した。道元という僧が中国へわたることにな
 っていたのでそれに同行した。
  四郎左衛門は中国で焼物のさかんな福建省へ行き、そこで研究を続け、焼
 物の技術を覚えた。しかし、四郎左衛門の覚えたのは、磁器ではなく陶器だ
 った。
  四郎左衛門はよろこんで帰国したが、日本では上等のねん土が見当たらな
 かったので中国のような焼物は作れなかった。そこでいっしょうけんめい探
 したがねん土は見つからなかった。疲れきって故郷の尾張へ帰ってくると、
 ひとりの老婆に会った。老婆は宝物でもかかえるように、一つの焼物をもっ
 ていた。四郎左衛門はその焼物を見せてもらい、それはすばらしいねん土で
 焼いたものであることに気がついた。四郎左衛門はそのねん土の取れる土地
 の名を聞き、そこへ行ってかまどを作って焼いてみた。すると、福建省地方
 の焼物にも負けない、すばらしい陶器ができた。そこは瀬戸という名の土地
 だった。
  瀬戸ではその後、四郎左衛門の焼物の技術を習い覚えた人達がさかんに陶
 器を焼くようになった。だから陶器のことを今でも瀬戸物と呼ぶことがある。
  

うまくまとまっているので、多分何かの資料を丸写ししたものだろう。しかし、今日と明日で祭られるのは、磁器(陶器より高火度で焼かれ、たたくと金属的な音がする。中国で創製され、日本では江戸初期の有田焼に始まる)を当地に伝えた加藤民吉であって、小学生の私がとり上げた加藤四郎左衛門は毎年4月に「藤四郎祭り」としてその偉業がたたえられている。祭りとしては、はるかに規模が小さなものであるが、瀬戸焼の基礎を作った人物として今なお伝えられている。

 妻はSMAPのコンサートで東京に行ってしまったが、土着民の一人として私は密やかに祭りを楽しむことにする。


                  卒業文集に載っていた自画像 
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