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一期一会

 高校の卒業アルバムに、生徒の一言メッセージを載せる箇所があった。私は「早く所帯を持って落ち着きたい。でも、それで落ち着けるのだろうか。何もわからない」などと、今思えば意味不明のコメントを書いてしまったのだが、何を書いたらいいのか分からない友人から代筆を頼まれた。まあ、他人のことだから適当に書いておけばいいやと、その朝新聞で目に留まった「一期一会」と言う言葉を使って、正確な意味も分からぬまま、「一期一会を大切に」と書いてやったら、その友人は大喜びで、「ありがとう」などと言ってくれたのだが、内心は穏やかならぬものがあった。一生の記念に残る卒業アルバムに、いい加減な思いつきで文言を書いていいのかと後悔もした。
 
 「一期一会」・・・茶の湯で、茶会は毎回、一生に一度だという思いをこめて、主客とも誠心誠意、真剣に行うべきことを説いた語。転じて、一生に一度しかない出会い。一生に一度かぎりであること。(「大辞泉」より)

 しかし、ある程度の意味は理解していたからさほど無礼なことをしたわけではないかもしれない。「一生に一度しかない出会い」というのは出会いを大切にしろという意味なのだろうが、その出会いを一生一度のものにするか、永続的なものにするかは出会った者同士がどう接するかによって決まってくるように思う。出会いはどこにでもある。しかし、それが長く続くことは稀であり、多くは一度きりの出会いで終わってしまう。それを縁がなかったと片付けるのは容易だが、果たしてそうだろうか。縁があるかどうか、それは結果論でしかない。うまく関係が続けられれば縁があった、うまくいかなかったら縁がなかったで済ましてしまったら、人の出会いとはすべて偶然の産物によるものとなってしまうだろう。
 しかし、それでは余りに寂しい。すべてを偶然に委ねてしまったら、人智の介入する余地などなくなってしまう。人がある人に出会う、それは確かに偶然かもしれない。しかし、出会ったときにその相手が自分の存在にとって大切な人であるかどうかは本能的に見分けることができると思う。それができなければ人間という動物はここまで生き延びてこられなかったはずだから。しかし、そうした本能に導かれた後は人智を働かせねばならない。大切だと思った人と永続的な関係を築き上げるためにはそれなりの努力が必要だ。そのためには、己を相手に知ってもらうこと、ありのままの自分を相手に知ってもらうことが必要だと思うし、己がどれだけの人間であるか、それをどれだけ相手にさらすことができるかによってその関係の深さが決まる、そう思えて仕方がない。

 9月11日は、アメリカに航空機を使った同時テロが仕掛けられた日だ。あれから5年たって、アメリカの専横さばかりが目立って、アメリカのイラク戦争に踏み出した「テロとの戦い」というキャッチフレーズも色あせて見えるが、それにしてもあの事件は衝撃的であった。あれから5年もたつのかと時の流れの速さを憂いても仕方ないのだが、私にとっての9月11日は昨年から同時テロとは別の、特別な日になった。それはこの日がゴジ健さんの誕生日だからだ。
 
 ゴジ健さんとは、ヤフーの掲示板・松井トピで知り合いになったのだが、ひょんなことから私のこのブログにも訪ねてくださるようになり親交が深まった。その後お互いに胸襟を開いて語り合うようになって、彼から色々なアドバイスを頂いたり、教えていただくこともしばしばだった。私が迷惑をおかけすることばかりで、申し訳なく思っている。同じ昭和33年生まれながら、私のほうがはるかに精神的に劣っていることを痛感させられることばかりであったが、ゴジ健さんは愛想もつかされずここまで付き合ってくださった。感謝の気持ちは言葉で言い表しようもないほどだ。
 私が一方的に一期一会を悪用しただけの関係のような気もするが、それもすべて包み込むようなおおらかさがゴジ健さんにはある。ネットの功罪はいくつもあるだろうが、私はゴジ健さんと知り合えたことだけでも、ネットはすばらしい世界を私たちに与えてくれるものだと思っている。この出会いは一生の宝としてこれからも大切にしていかねばならない。

  Happy Birthday Mr.Godziken!!!  
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