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「決壊(下)」

 平野啓一郎「決壊」を読み終えた今、何とも言いがたい思いでいっぱいになっている。物語としての結末はきれいについている。登場人物の思いも丹念に描かれていてキャラは十分立っている。起承転結、なんら違和感はない。完璧な組み立てだとさえ思う。だが、一抹の物足りなさ、800ページにも及ぶ長編小説を読み終えた読後感としては希薄なものしか残っていない。何故だろう?
 物語はスケールが大きく、悲劇的な展開は推理小説めいて、先が読めないまま息もつかせぬ迫力で私をぐいぐい引き込んでいった。事件の大きさが劇画的でもあり、話を大きく構えすぎて、最後にきちんと収拾が付くのか、些か心配になったが、それを見事に纏め上げた手腕は素晴らしい。初めて平野啓一郎を読んだが、その流麗な文体(きらびやかな語彙がふんだんに使われているが決して読みにくくはない)とともに、ストーリーテラーとしての力量も見事で、日本文学の歴史に確固たる地位を築く人物だと思った。凄惨な場面が連続する物語も、現代に生きる私たち誰もが直面する可能性のある危機(どれも迂闊に看過できないものばかり)を表現しており、読む者に己と己を取り巻く社会環境を深く省みさせずにはいられない重厚なものとなっている。
 だが、読んでいる途中に感じた「これはすごい小説だ」という思いが、最後の1ページを読み終わったときに薄れてしまったのは何故だろう?話の終わり方に不満があるわけではない。こういう結末になるより仕方なかった、という思いは強い。でも、やっぱりもっと違った終わり方を私は期待していたように思う。かと言って、どんな終わり方をすればよかったのか、と自問しても何も浮かんでこないのだから無責任な感想でしかないのだが・・。
 だから、この文を書いていても、何をどう書いていけばよく分からない。画龍点睛を欠くなどという次元の話でもない。ただただ、何かもう少し展望の開ける終わり方ができなかったか・・。「このままじゃ、やりきれないよな・・」、確か読み終わった直後にちらっとそう思った。現代社会が持つ病巣をいくつも描き出して、それをこのまま放置しておいたら(放置するしかないのかもしれないが)、私たちの想像をはるかに超えた悲惨なことが近い将来起こってしまい、多くの人が巻き込まれ、数え尽せぬ悲劇が起こってしまう・・・、そうした警鐘を鳴らそうとするための終わり方なら、かなりの成功を収めていると思う、この小説が読む者に与える衝撃は計り知れないものだから・・。しかし、そんなことを平野は意図していたのだろうか?果たして小説家は人心を擾乱させる檄文の如き小説を書いて満足するものだろうか・・。
 決してそんなことはないと思う。「悪魔」が支配する世界の来迎を避けねば!!などと叫んで人々を惑わす宗教家のような役割など果たそうと思ってはいないだろう。ならば、この小説世界を読者に提示することで、平野は何を伝えたいのだろう、私は読み終えてからずっと考えている。「死」・「喪失」・「赦し」・「愛」・「時間」・「自我」・・・、そんな言葉がぐるぐる頭を駆け巡りはするが、それがうまく体を成してくれない。混沌として、広漠として、どうにも考えがまとまらない。
 だが、それでいいのかもしれない。この小説は始めから最後まで、明晰な言葉で表現されているが、その明晰さをもってしても、表現しきれないものを表現しようとしているため、読む者の受ける印象がまとまりの付かない抽象的なものになっているのではないだろうか、次第にそう思うようになってきた。それはもちろん、私の理解力の拙さにすべてが起因しているのかもしれない。読み進めるうちに、平野啓一郎って頭がいいんだなあ・・、と感心すること頻りであったから、私の生半可な能力では、彼の言わんとすることを十全に捉えることはできないのかもしれない。(実を言えば、平野自身もきちんとした答えを持っていないのではないだろうか、とさえ私は勘繰っているのだが・・)
 
 とにもかくにもこの作品を読んで、「恐るべし平野啓一郎!」という感想だけははっきり持った。私が感じた戸惑いも、あまりに素晴らしい小説を前にしての躊躇なのかもしれない。
 機会があれば他の作品も読んでいこうと思っている。
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