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「決壊(上)」

 平野啓一郎「決壊(上)」(新潮社)を読んだ。上下二巻とも読み終えてから、読後感を記すのが筋だとは思うが、上巻のまとめも兼ねて少しばかり感じたことを書き留めておこうと思う。
 平野啓一郎の名は「日蝕」で芥川賞を受賞して以来気にはなっていた。大学の後輩(と言っても、彼は法学部で私は文学部)ということもあり、「日蝕」を読もうとしたこともあったが、漢語をちりばめた擬古文がどうにも粉飾めいて鼻につき、それ以上読む気が起こってこなかった。その後も何作か小説を発表してきたようだが、一作も読んだことはなかった。それなのに何故この「決壊」を読もうと思い立ったのか自分でも判然としないが、たまたま書店で手にとって少し読んでみたところ、文体がさほど苦にならず、すっと心に入ってくるようだったので、これなら読み通せるかな、と思って少しずつ読んでいくことにした。だが、読み始めたら、案に反してかなりの勢いで読み進めることができたのには驚いた。

 沢野崇は国会図書館に勤めるエリート。独身で複数の女性と同時に関係をもつ、謂わば、しなやかに現代を生きる男・・。だが、その内奥には他人には窺い知れない深甚な懊悩が潜んでいる。所々に読み取れる彼の独白は、ドストエフスキーの登場人物のように彼の心の中の混沌を垣間見せてくれるが、それが果たしてどれだけこの物語に影を落としているのかは、上巻を読んだだけで軽々に判ずることは避けねばならない。もしかしたら彼が・・、とかなり強く思ってしまうし、そう思わせるような筆致ではあるが、そう単純に物語が終わるとは思えない・・。
 崇の弟・良介は妻と幼い息子を持つ会社員。一見平和な家庭を営んでいるようだが、彼もまた心に苦悶を隠し持つ。仕事と家庭から少しずつ積み重なってくる塵芥をネット上に開設したHPで吐き出しながら、心の平衡を保とうとしているが、偶然それを見つけてしまった妻が、夫との心の乖離に苦しみ始める・・。
 崇の父は退職後、次第に心を閉ざし始め、鬱病と診断されるまでになってしまう。病院に通い始め、少し回復の兆しは見せたものの、妻との葛藤からまた袋小路に追い込まれていく・・。
 こうした登場人物の心の模様が丹念に描かれていくのだが、それを読むと彼らの誰一人として安穏に暮らしていないのが明らかになる。それが現代を生きる私たちの宿命である、と作者が私たちに語りかけているようにも思えるが、私にはそれこそが生きるということではないかと、という気がする。日々生きていく間には、大小さまざまな障害が至る所に転がっている。それに一つずつ躓いていたら、前に進むことはできない。あえて前に進まなくてもいいが、後ずさりはしたくないから、そんな障害は、もし乗り越えられないほどのものだったら、素知らぬ顔をしてやり過ごせばいいのではないか、そのうちに道は開ける・・、などとかなり能天気なことを常に思いながら暮らしている私には、彼らの悩みは実感できそうにもない。それを想像力の欠如と呼ばれるなら仕方がない、分らないものは分からない。
 だが、一つの悩みが解消されずに心の中に澱んでいき、さらにはそこから派生した新たな悩みが次々と重なっていくと、ついにはその重みに耐えかねた心が、少しの刺激によっても爆発してしまうことは確かにあるように思う。そうした臨界点に達した瞬間を「決壊」と呼ぶのなら、まさしく本書の題名は、一人の悩める人間が心の中の奔流に堰を切られてしまい、破滅的な衝動に駆られていく過程を表現していると言えるかもしれない
 しかし、この題名にはもう一つ別の暗示が含まれているように思う。それは個人の決壊した想念が、他の人の鬱屈した想念をも「決壊」させ、いくつもの支流が集まって大きなうねりを作り出すがごとく、「決壊」した想念が一つになって、この世を席巻してしまう・・・。その様を描き出すのが下巻であると今の私は予想しているが、果たしてどうだろう。ただ、一つの殺人が引き金となって、同時多発的に殺意が世界中に広がっていく、という「悪魔」の思惑は、どこか近未来を予測しているようで薄気味悪い。確かに意味不明は殺人は毎日と言っていいほど起こっているが、それをつなぐ目に見えぬ連環は辛うじてまだ存在していないようだ。ただ、いつ何時ある意志に導かれて次々とドミノ式に起こらないとも限らない。
 そんな危うさを意識せざるを得ない現代に生きる私たちに、「決壊(下)」はどんなメッセージを送ってくるだろう・・。怖くもあり、楽しみでもある。

 さあ、足を踏み入れよう。
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