毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
映画「肉体の悪魔」
NHK・BSで放送された映画「肉体の悪魔」を見た。1947年の作品と言うからもう60年も前の映画だ。そう考えると古色蒼然たる雰囲気の映画のように思えるが、なんと言ってもラディゲの「肉体の悪魔」だ、決して古びてなどいない。16歳の学生と人妻との熱くも儚い恋愛物語は、いくら枯れ始めた私でも心をときめかさずにはいられなかった。
私はちょうど3年前に小説「肉体の悪魔」についての記事を書いている。読み返してみたが、確かにこのラディゲの小説は10代の私を震撼させた。その後フランス文学へ傾倒していったきっかけを作ってくれた小説であるのだが、そんなことより何より、同じ年頃の人間がこれほどの小説を書き残したことに驚嘆し、その中に描かれたラディゲの考えや感じ方に自分と近しいものをいくつも見つけ、奇妙な符号に戦いたくらいだ。ラディゲは20歳で死んでしまったが、私は50歳になるまで生き続けてきた。だが、どういうわけだか、ラディゲに心を奪われた頃とあまり自分は変わっていないように思う。それは情けないことなのだろうが、もうここまで来ると自分らしくていいや、と開き直るしかない・・。
だが、映画を見ていて、原作とは違う点がいくつも見られたのは残念だった。原作を忠実に映画化されているのを期待して見始めただけに、正直がっかりした。まず最初に驚いたのは、主人公(小説ではナレーター)の名がフランソワだということだ。私は何回もこの小説を読み返しているが、女性の名がマルトだというのは鮮やかに覚えているが、男の方の名は記憶になかった。私が迂闊だったのかな、と思って本をざっと調べてみたが、「僕」という一人称をもって語られるばかりで、またマルトからは「あなた」「あんた」などという呼びかけられるのみで、名前を呼ばれることはない。何も事情を知らぬマルトの夫が、「僕」と同じ名をつけた息子を心配しながら死んでいったと信じて「妻はあの子の名を呼びながら死んで行きました」と語る場面ですら、具体的に「僕」の名前を挙げられることはない。隅々まで読み返したわけではないので、私が見落としたのかもしれないが、映画を見始めて「フランソワ」という名に違和感を感じたのは、意味のないことではなかったようだ。
さらには、マルトが死を迎える遠因となった寒い雨の夜、ホテルを探してさ迷い歩いた場面などまったく割愛されて、ただマルトの気分が悪くなりそのまま死んでしまったかのような描き方だったのにはがっかりした。身重のマルトの体をいたわることなく、絶望的な闇の中を徘徊する二人の姿こそが、明日のない二人の恋の行方を象徴しているのに、それがまったく描かれていないのだから、何のために映画化したのかまったく分からなかった。もしラディゲが生きていてこんな結末を見たなら、怒っただろう。これだけで、「マルト役のミシュリーヌ・プレールが可愛くていいなあ」などと思って見ていた印象が無残なものに変わってしまった・・。
映画化するにあたっては、脚本家がどう原作を解釈したかが如実に反映されるものであろうが、原作の根幹を成すものまでを変えてはならないと思う。そんな換骨奪胎したものを見せられると、原作に惹かれて見る者たちをがっかりさせることになる。そんなことを思わせる映画だった。がっかり・・。
私はちょうど3年前に小説「肉体の悪魔」についての記事を書いている。読み返してみたが、確かにこのラディゲの小説は10代の私を震撼させた。その後フランス文学へ傾倒していったきっかけを作ってくれた小説であるのだが、そんなことより何より、同じ年頃の人間がこれほどの小説を書き残したことに驚嘆し、その中に描かれたラディゲの考えや感じ方に自分と近しいものをいくつも見つけ、奇妙な符号に戦いたくらいだ。ラディゲは20歳で死んでしまったが、私は50歳になるまで生き続けてきた。だが、どういうわけだか、ラディゲに心を奪われた頃とあまり自分は変わっていないように思う。それは情けないことなのだろうが、もうここまで来ると自分らしくていいや、と開き直るしかない・・。
だが、映画を見ていて、原作とは違う点がいくつも見られたのは残念だった。原作を忠実に映画化されているのを期待して見始めただけに、正直がっかりした。まず最初に驚いたのは、主人公(小説ではナレーター)の名がフランソワだということだ。私は何回もこの小説を読み返しているが、女性の名がマルトだというのは鮮やかに覚えているが、男の方の名は記憶になかった。私が迂闊だったのかな、と思って本をざっと調べてみたが、「僕」という一人称をもって語られるばかりで、またマルトからは「あなた」「あんた」などという呼びかけられるのみで、名前を呼ばれることはない。何も事情を知らぬマルトの夫が、「僕」と同じ名をつけた息子を心配しながら死んでいったと信じて「妻はあの子の名を呼びながら死んで行きました」と語る場面ですら、具体的に「僕」の名前を挙げられることはない。隅々まで読み返したわけではないので、私が見落としたのかもしれないが、映画を見始めて「フランソワ」という名に違和感を感じたのは、意味のないことではなかったようだ。
さらには、マルトが死を迎える遠因となった寒い雨の夜、ホテルを探してさ迷い歩いた場面などまったく割愛されて、ただマルトの気分が悪くなりそのまま死んでしまったかのような描き方だったのにはがっかりした。身重のマルトの体をいたわることなく、絶望的な闇の中を徘徊する二人の姿こそが、明日のない二人の恋の行方を象徴しているのに、それがまったく描かれていないのだから、何のために映画化したのかまったく分からなかった。もしラディゲが生きていてこんな結末を見たなら、怒っただろう。これだけで、「マルト役のミシュリーヌ・プレールが可愛くていいなあ」などと思って見ていた印象が無残なものに変わってしまった・・。
映画化するにあたっては、脚本家がどう原作を解釈したかが如実に反映されるものであろうが、原作の根幹を成すものまでを変えてはならないと思う。そんな換骨奪胎したものを見せられると、原作に惹かれて見る者たちをがっかりさせることになる。そんなことを思わせる映画だった。がっかり・・。
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