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「一週間」

 井上ひさし著「一週間」を読んだ。
 夏休みが終わり、これでゆっくり本を読む時間が戻ってくると思ったものの、新学期の始まりはなにかと忙しく、まとまって本を読める時間がなかなかとれなかった。それでも、この「一週間」は亡くなった井上ひさしの最後の長編小説であるから、是非読まなくてはと9月の初めに書店に注文しておいた。案外すぐに配達してくれたが、やはり手に取ることができず、読み始めたのは下旬になってからだった。
 帯に「昭和二十一年春、満州の黒河で極東赤軍の捕虜となった小松修吉は、ハバロフスクの捕虜収容所に移送される。脱走に失敗した元軍医・入江一郎の手記をまとめるよう命じられた小松は、若き日のレーニンの手紙を入江から密かに手に入れる。それは、レーニンの裏切りと革命の堕落を明らかにする、爆弾のような手紙だった」とある。
 しかし、私はこのリードを今初めて読んだ。この本が家に着いたときには書店が紙のカバーをしてきてくれたため、表紙をまったく見たことがなかった。今改めてまじまじと見たのだが、山下勇三と言う人の手になる表紙のイラストはシベリアの捕虜施設での過酷な生活の一端を切り取ったものであり、もっと早くからこのイラストを見ていたら、捕虜として抑留されていた人々の辛く悲しい生活がより心に迫ったであろうにと、本屋の親切を少し怨んだ・・。


 しかし、主人公の小松修吉という男の経歴は過酷だ。戦争中は共産党の運動員として特高警察に捕まり、拷問で爪を剥がされたこともある。出所後は党からの指令で満州に渡り、そこでもまた逮捕され辛酸を嘗めつくす。その後、組織を壊滅させた首謀者を見つけるために満州一帯を歩き回るも、日本の敗戦とともにソ連軍の捕虜となり、苦役や食糧難、さらには捕虜収容所のなかでも旧態依然と残る理不尽な軍隊の上下関係によって命の危険に晒される・・。まさに極限状況の中で命をすり減らしてきたような男である。だが、そこが井上ひさしの筆致のすごさだと思うが、その凄惨な生きざまがどことなくユーモアが感じられるように語られて行き、ついつい物語の中に引き込まれてしまう。私も最初は久しぶりに読む長編小説であったため、ペースをつかむのに時間がかかってしまったが、一旦小説世界に没入してしまってからは、あっという間に読み終えることができるほど、極上の小説であったと思う。
 だが、読み易さの裏に流れるテーマの重さには常に留意していなければならないだろう。戦争を引き起こした者たちの愚かさ、一つの理想がいつの間にか宗教にまで高められてしまうことの恐ろしさ、心に自由を持つことを忘れてしまった者たちの頑迷さ、私利私欲に走り傍若無人の振るまいをしても些かも恥じることのない者たちの傲岸さ、そうしたものへの憤りがページを繰るごとに伝わってきた。それはきっと井上ひさしが忌み嫌うものであり、人間の心から消え去ってほしいと願ったものであろう。そんなメッセージを私はこの小説から受け取ったように思う。
 私が井上ひさしという作家に抱いていたイメージは「人間喜劇」という言葉に集約される。「可笑しくもやがて悲しきこの世かな・・」、そんな暮らしの中で毎日を一生懸命生きている者たちを温かい眼差しで見つめている作家、それが私の知っている井上ひさしだった。この小説を読んで久しぶりにそんな井上ひさしと語りあったような気がした。そして同時に、もうこれで彼と小説を通じて語り合うことはできないんだな、と実感した。
 そう思ったら、最後まで読み終わるのが寂しくなってしまったが、小説の面白さにつられて止まることなく最後まで読んでしまった、・・。何冊もその作品を読んだ作家の遺作を読むということは、こういう寂しさを伴うものなんだな、と初めて知った。

 こんな素晴らしい小説を残してくれた井上ひさし氏のご冥福を改めてお祈りいたします。


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