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落合博満

 テリー伊藤著「なぜ日本人は落合博満が嫌いか?」(角川ONEテーマ21)を読んだ。
 書店でこの本を見つけた時、「落合はともかくテリーは好きじゃないなあ・・」と買うのを躊躇ってしまった。時々司会をしている朝のワイドショーで見る彼は、いかにも業界の代表といった軽佻浮薄な言動が目立ち、好きではない。しかし、週一で毎日新聞夕刊に連載しているコラムには「なるほど」と頷けることもあるので、ダメもとで読んでみるか、という気になった。
 読んでみると、確かにお説ごもっとも、と思える個所はいくつかあった。

「(落合の)言葉は往々にして、ぶっきらぼうだったり、毒気があって刺激が強すぎたり、そもそも説明が少ないから、わかりにくい。
 だから、誤解もされるし、嫌われる。ふだんは寡黙なのに、いったん口を開くと、その言葉は、かならずだれかを刺激する」(P.78)
「きっと落合本人も、そんな構図はとっくにわかっているはずだ。それでも黙るのはなぜか。
 それは、落合は嫌われることを恐れないからだ。これは、日本人にとって、もっとも難しいことである」(P.34)
「自分が正しいと思ったことは、どんな軋轢が生まれようとも主張する人間。
 周囲との折り合いや刺激なんか気にせず、信念を貫く人間。
 常に有言実行、保険もかけず、退路も断って、勝利を目指す人間。
 そういう人間がいないことが日本の活力を低下させているのだ。そういう人間が、この国には必要だ。
 つまり、いま、日本にいちばん必要なのは「落合力」なのである」(P.111)

 もうここまで来ると、テリーは落合教の信者になったかのようである・・。確かにそうした「落合力」が必要な場面は、たとえ野球でなくともあるのかもしれない。周りの思惑を一切気にせず、己の信じた道を突き進む、そういうエネルギーが必要なことはあるのかもしれない。しかし、そうした人間ばかりになったら、さぞや殺伐たる世の中になるような気がする。肩肘張って己が道のみを突き進んだとしたら、どこにたどり着けるのだろう。後ろを振り返れば自分のパワーに吹き飛ばされた者たちの死屍累々たる荒野、前を見ても誰一人己と道を同じくする者を見つけられない寂寞たる地平・・・。とても私には受け入れられない。
 思うに、「落合力」なるものは、勝負事の世界では必須のものかもしれないし、この世を戦場だと見做すのなら、私たち一人一人が持つべき力なのかもしれない。しかし、私たちが暮らしているのは多種多様な人間の寄り集う複雑怪奇な世界。そんな世界で「落合力」を発揮したりすれば、落合の愛息・フクシくんのようになるのがオチダろう・・。
 しかし、これはあくまでもテリーの勝手な思い入れであり、落合本人の考えを代弁したものではない。本書も途中から、いくらなんでもそれは牽強付会というものだろう、という記述が目立ち、独断過ぎてだんだん読みたくなくなってしまった。それでも我慢して読んでみたのだが、結局は己の思い込みをさも大発見のように書きたてる筆致は変わらず、ざっと読み終えた時は清々としたほどだった・・。
 こんなテリーの作文よりも、実際のインタビューを読んだ方がずっと落合という人物が分かるような気がする。たまたま、セ・リーグ最優秀監督賞の受賞に関するコメントが、19日付の中日スポーツに載っていたので、以下に引用してみる。

「長いと言えば長いような、短いと言えば短いような・・。でも毎年誰か1人はこの賞をもらうワケですから、4年ぶりにもらえて、人に渡すことないなって、思いました。いいものと悪いものがあり、最終的にいい年で終われば良かったんでしょうけど、負けることで全部吹っ飛ぶ、ということをあらためて思い知らされた1年になったなと思います。
 オマエにはまだ完全優勝は早い、もうちょっとがんばりなさい、ということなんでしょう。性格的に全部勝ってしまうと、もう辞めてもいいや、ってなってしまう。もうちょっと野球をやりなさい、っていうことだと思います。選手、応援してくれたドラゴンズファンには申し訳ないですが、負けてよかったのかな、と、また一からがんばりたい、と思います」

 落合監督らしいコメントだ。このコメントを読む人を煙に巻いて喜んでいるようにも思えるが、真情を吐露したものであろう。テリーに言われるまでもなく、落合博満という男は奥が深い。
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