毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「もういちど読む 日本史」
「もう一度読む 山川 日本史」をゆっくりと読んでいる。「社会人のための高校教科書」と帯に書いてあるが、確かに私が高校生の頃の日本史の教科書は山川の「詳説 日本史」だった。高校時代の私の記憶力は、今思えば、神がかり的なほどで、「詳説 日本史」はほとんど一冊丸ごと覚えていた。同時に「詳説 世界史」も・・。あの頃の記憶力を100としたら、いったい今はいくつくらいなのだろう・・。25くらいかなあ・・。先日「二人の友」を和訳する時に、あんなに苦労して調べたフランス語の単語も、もうほとんど覚えていない。10代だったら、すぐに覚えられたのに・・。
まあ、そんな愚痴はこれくらいにしておいて、何故またこの教科書のことを取り上げたのかと言えば、P.289に「軟弱外交」という文言を見つけたからだ。尖閣列島沖での中国船衝突事件を巡って、野党からの「弱腰外交」と揶揄された仙石官房長官が「いや、柳腰外交だ」と反論したことが問題になったが、いつの世にも同じような批判があるものだなあ、と思った。この言葉は、憲政会の若槻礼次郎内閣(幣原外相)の対中国不干渉政策に対して浴びせられた批判であるのだが、当時の状況を少しばかり引用すると、
『1920年代をつうじて、世界的にも国内的にも国際協調の気運が高まった。日本は国際連盟の有力国として国際協調につとめ、1924(大正13年)年加藤高明内閣の外務大臣に就任した幣原喜重郎を中心に、とくにアメリカとの協調関係の維持に力をそそいだ(幣原外交)。また、1925年(大正14年)には日ソ基本条約をむすび、革命以来はじめてソ連との国交を樹立した。中国に対しては、武力的干渉をさけ、外交交渉によって条約で日本に認められた権益をまもっていこうとする政策をとった。
日本国内では、海軍の軍備縮小につづいて陸軍の軍縮も実行に移されたので、軍事費が大はばに減り、財政の緊縮に役だった』(P.281)
ところが、
『1924年に孫文が国共合作の方針を打ちだし、そのあとをついだ中国国民党の蒋介石が、広東(現,広州)を勢力基盤に1926年から全国統一をめざし、国民革命軍をひきいて北伐を開始した。翌1927年、その勢力は長江流域におよんだ。
そのころから日本では、軍部の急進派、野党の立憲政友会、国家主義団体、中国に利権をもつ実業家の間から、憲政会の若槻内閣(幣原外相)の対中国不干渉政策は、日本の中国における権益をまもれない”軟弱外交”であるとして非難する声が高まった』(P.289)
まさに大正デモクラシーから軍部が台頭し始める時代へと移っていく頃のことであり、日本が泥沼にはまり込んでいく頃のことである。
だが、妙に昨今の状況と似ているように思えるのは私だけだろうか。
閉塞した時代状況を打破するためには、力に頼りたくなるものだ。特に相手が頑なで、こちらの言うことをちっとも聞こうとしない場合なら尚更だ。しかし、そんなことをしたところで状況は悪化しこそすれ、改善されるようなことなどない、それよりも粘り強く交渉し続けることこそが、外交の肝要である、と仙石官房長官は言いたいのかもしれない。思うに、それこそが戦力を持たない日本ができる唯一の外交政策であろう。しかし、ただ闇雲に相手が譲歩してくるを待つだけでは埒があかない。それよりも正々堂々と言うべきことは言い、聞くべきことは聞く、という確固たる姿勢を終始一貫持ち続けなければならないと思う。その意味において、中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突してきた状況を克明に記録した動画をどうして最初から公開しなったのか、不思議でたまらない。
外交カードの切り方がまったく下手で、それに業を煮やした何者かが YouTube に動画を流したのかもしれない。あの動画がもっと早く流されていたら、いかな中国も一方的に日本を非難することはできなかったのではないだろうか。(「今は技術が進んでいるので、あの映像はでっち上げじゃないか」とコメントしていた若い中国人女性もいたのには少々驚いた。そんな人には3D化して迫力ある動画にしたものを見せたほうがいいのかもしれない・・)
社会の流れが強硬一辺倒になってしまうと、国があらぬ方向に行ってしまうのは、この教科書を一読すればよく分かる。「毅然たる姿勢」と「強硬姿勢」は違うははずだ。その辺りを誤らぬようにせねば・・。
まあ、そんな愚痴はこれくらいにしておいて、何故またこの教科書のことを取り上げたのかと言えば、P.289に「軟弱外交」という文言を見つけたからだ。尖閣列島沖での中国船衝突事件を巡って、野党からの「弱腰外交」と揶揄された仙石官房長官が「いや、柳腰外交だ」と反論したことが問題になったが、いつの世にも同じような批判があるものだなあ、と思った。この言葉は、憲政会の若槻礼次郎内閣(幣原外相)の対中国不干渉政策に対して浴びせられた批判であるのだが、当時の状況を少しばかり引用すると、
『1920年代をつうじて、世界的にも国内的にも国際協調の気運が高まった。日本は国際連盟の有力国として国際協調につとめ、1924(大正13年)年加藤高明内閣の外務大臣に就任した幣原喜重郎を中心に、とくにアメリカとの協調関係の維持に力をそそいだ(幣原外交)。また、1925年(大正14年)には日ソ基本条約をむすび、革命以来はじめてソ連との国交を樹立した。中国に対しては、武力的干渉をさけ、外交交渉によって条約で日本に認められた権益をまもっていこうとする政策をとった。
日本国内では、海軍の軍備縮小につづいて陸軍の軍縮も実行に移されたので、軍事費が大はばに減り、財政の緊縮に役だった』(P.281)
ところが、
『1924年に孫文が国共合作の方針を打ちだし、そのあとをついだ中国国民党の蒋介石が、広東(現,広州)を勢力基盤に1926年から全国統一をめざし、国民革命軍をひきいて北伐を開始した。翌1927年、その勢力は長江流域におよんだ。
そのころから日本では、軍部の急進派、野党の立憲政友会、国家主義団体、中国に利権をもつ実業家の間から、憲政会の若槻内閣(幣原外相)の対中国不干渉政策は、日本の中国における権益をまもれない”軟弱外交”であるとして非難する声が高まった』(P.289)
まさに大正デモクラシーから軍部が台頭し始める時代へと移っていく頃のことであり、日本が泥沼にはまり込んでいく頃のことである。
だが、妙に昨今の状況と似ているように思えるのは私だけだろうか。
閉塞した時代状況を打破するためには、力に頼りたくなるものだ。特に相手が頑なで、こちらの言うことをちっとも聞こうとしない場合なら尚更だ。しかし、そんなことをしたところで状況は悪化しこそすれ、改善されるようなことなどない、それよりも粘り強く交渉し続けることこそが、外交の肝要である、と仙石官房長官は言いたいのかもしれない。思うに、それこそが戦力を持たない日本ができる唯一の外交政策であろう。しかし、ただ闇雲に相手が譲歩してくるを待つだけでは埒があかない。それよりも正々堂々と言うべきことは言い、聞くべきことは聞く、という確固たる姿勢を終始一貫持ち続けなければならないと思う。その意味において、中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突してきた状況を克明に記録した動画をどうして最初から公開しなったのか、不思議でたまらない。
外交カードの切り方がまったく下手で、それに業を煮やした何者かが YouTube に動画を流したのかもしれない。あの動画がもっと早く流されていたら、いかな中国も一方的に日本を非難することはできなかったのではないだろうか。(「今は技術が進んでいるので、あの映像はでっち上げじゃないか」とコメントしていた若い中国人女性もいたのには少々驚いた。そんな人には3D化して迫力ある動画にしたものを見せたほうがいいのかもしれない・・)
社会の流れが強硬一辺倒になってしまうと、国があらぬ方向に行ってしまうのは、この教科書を一読すればよく分かる。「毅然たる姿勢」と「強硬姿勢」は違うははずだ。その辺りを誤らぬようにせねば・・。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )