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立ち枯れ・その後

 昨年8月21日の記事に、立ち枯れた大木のことを書いた。その際、

>ほぼ毎日通る山間の県道脇に一本の立派な木が立っているが、無残にもすべての葉が茶色くなってしまって、今にも裸になってしまいそうだ。幹の直径が1m近くあるこの大木がこのまま立ち枯れてしまったら危険だろう、いつ倒れて来るのか分からない。

と書いたが、半年近く経った今のその木の様子はこんな感じだ。

 

 間違っていた、葉は落ちていない。茶色くなった葉は萎んだようには見えるものの、そのまま枝に付いている。遠くから見ると箒のように見えたが、近くでじっと見ていたら、死ぬに死ねない苦しみで木全体が呻いているように思えた。無残だ・・。
 思うに、落葉というのは、新しい葉に場所を譲るようなものだ。ある一定の時間を過ごした葉は、後進に道を譲るために枝を離れる。そうした代謝を繰り返すことによって一本の木として連綿と命を繋いで行くのだろう。かつてダイジェスト版を和訳した「葉っぱのフレディー」の趣旨もそんな内容だったように思う。
 だが、立ち枯れたこの大木には、落葉するだけのエネルギーが残っていない。新しい命の息吹などまるで感じられない。忙しく立ち働いていた者が、何の準備もないまま、突然の死に襲われ、屍だけをいつまでも晒さねばならない、そんな過酷さをこの大木から感じてしまう・・。

 各種報道で立ち枯れた木々の話題を見聞きするが、人手が足りず、何の手だても講じることもなく、放置されたままのケースが多いと言う。ボランティアで立ち枯れた木を伐採している所もあるそうだが、それも限られた地域でしかないようだ。我が市でもなにか対策は立てているのかもしれないが、なかなか伝わってこない。
 
 私としては、立ち枯れた木々を伐採して、なんとか成仏させてやりたいと思っているのだが・・・。
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