毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
58日ぶり
松井秀喜が58日ぶりに試合に復帰した。その試合のTV中継があるとは知らなかった私は、録画予約もしてなかったが、朝起きてTVのチャンネルを色々変えていたら、ヤンキースのユニフォームを見付けて驚いた、「試合やってるじゃん・・」。1回の裏でヤンキースが1-0とリードしていた。「松井の打席は終わったのかな、結果は?」などと打順を知らなかった私は少し焦ったが、すぐにDHで7番バッターだというのが分かった。打順をとやかく言う場合ではないことくらい分かるが、それくらいの働きしか出来ないだろうとチームから思われているのか、と少々寂しくなった。
松井の第1打席は2回表1アウトランナーなし。松井の顔が画面に映った時は、「おお、久しぶり!」と嬉しくなったが、すぐに全身が映し出されてがっかりした。なんだか体つきが全体的に締りがないように見えたのだ。NHKの秦解説者も「少し太めだ」と体が絞れていないのを指摘していたが、私も同意見だった。「これじゃあ打てないだろうな・・」と、いやな予感がした。左ひざの故障でランニングが制限され、全身を使ったトレーニングが十分に出来なかったのだろう、58日のブランクがこの体に現れているようで気分が暗くなってしまった。
相手チームの本拠地なので、3年前に左手首の骨折から復帰した試合のようなスタジアム全体のスタンデイングオベーションなどなく、静かな復帰第1打席だった。以前のようにアンパイヤーとキャッチャーに軽く挨拶しながら打席に入った松井の姿を見ても、力強さが感じられないのは私の先入観のせいなのか。なんとなく松井秀喜らしさが伝わってこない気がして、寂しい。
相手投手は右投げの豪球投手バーネット、松井の対戦成績はいい投手だが、「あの速球を復帰したばかりでいきなり打ち返すのは難しいだろうな」と、思った。1球目は内角高めをのけぞってよける。これがきいたのか、2球目のやや甘めのボールに完全に押されて詰まったレフトフライ・・。予想通りの結果になってしまった・・。
この打席を見終わったら家を出る時間になってしまったので、その後の打席は見られなかったが、2打席目はセカンドフライ、3打席目は三振、結局3打数0ヒットという結果に終わったのを後で知った。いつもならこの結果を見たら悔しくて仕方ないのに、その時はただ「やっぱり・・」と思っただけで、心が波立つこともなかった。どうにも気持ちが高まらない。
数日前から松井の復帰のニュースが流れ始めたが、それを聞いても心が高揚してくるのが感じられず、どうしたのかな、と思っていた。それでも松井がバッターボックスに立つのを見れば胸が熱くなるかもしれない、と期待はしていた。だが、それも覇気の感じられない太目の松井を見た瞬間に心が萎えてしまったようだ。松井自身は3打席を振り返って、「スイング自体は悪くない。目が慣れれば何とかなるんじゃないかと思う」と述べているようだが、チームはそんな呑気なことを言える状況ではない。松井がDHで復帰したためにセンターを守ったデイモンの致命的なミスによってこの試合に負けてしまった結果、首位レイズとの差は11ゲームに開き、2位レッドソックスとも6.5ゲーム差となってしまい、プレーオフ進出は極めて厳しくなっている。チームがシーズン終盤での大逆転を果たすための最後の起爆剤となるのが、松井の復帰に求められているものであろう。そのためには復帰第一戦からチームを勝利に導く働きをしなければならなかったはずだ。それなのに・・。
もともとチームとしては痛めたひざを手術するよう求めていたのを、松井が拒否して今シーズン中の復帰を果たした経緯があるだけに、すぐに結果が求められるのは当然であり、DHで出場する選手が打てないのでは何も意味がない。さすがにすぐにはブーイングを浴びることはないかもしれないが、何試合かこんな状態が続いたら、厳しい見方をするヤンキースファンも多くなるだろう。
「こんなことなら大人しく手術して来季に捲土重来をかければよかったのに」などと今さら私は言いたくないし、松井の頑張りを最後まで期待したいとは思っている。が、それでもやっぱりこんな結果しか残せない試合が続いたら、「もう今シーズンは諦めて手術しろ」と言ってしまうかもしれない・・、いや間違いなく言うだろうな。
松井よ、つらい道を選んでしまったなあ・・・。でも、頑張れよ・・。
松井の第1打席は2回表1アウトランナーなし。松井の顔が画面に映った時は、「おお、久しぶり!」と嬉しくなったが、すぐに全身が映し出されてがっかりした。なんだか体つきが全体的に締りがないように見えたのだ。NHKの秦解説者も「少し太めだ」と体が絞れていないのを指摘していたが、私も同意見だった。「これじゃあ打てないだろうな・・」と、いやな予感がした。左ひざの故障でランニングが制限され、全身を使ったトレーニングが十分に出来なかったのだろう、58日のブランクがこの体に現れているようで気分が暗くなってしまった。
相手チームの本拠地なので、3年前に左手首の骨折から復帰した試合のようなスタジアム全体のスタンデイングオベーションなどなく、静かな復帰第1打席だった。以前のようにアンパイヤーとキャッチャーに軽く挨拶しながら打席に入った松井の姿を見ても、力強さが感じられないのは私の先入観のせいなのか。なんとなく松井秀喜らしさが伝わってこない気がして、寂しい。
相手投手は右投げの豪球投手バーネット、松井の対戦成績はいい投手だが、「あの速球を復帰したばかりでいきなり打ち返すのは難しいだろうな」と、思った。1球目は内角高めをのけぞってよける。これがきいたのか、2球目のやや甘めのボールに完全に押されて詰まったレフトフライ・・。予想通りの結果になってしまった・・。
この打席を見終わったら家を出る時間になってしまったので、その後の打席は見られなかったが、2打席目はセカンドフライ、3打席目は三振、結局3打数0ヒットという結果に終わったのを後で知った。いつもならこの結果を見たら悔しくて仕方ないのに、その時はただ「やっぱり・・」と思っただけで、心が波立つこともなかった。どうにも気持ちが高まらない。
数日前から松井の復帰のニュースが流れ始めたが、それを聞いても心が高揚してくるのが感じられず、どうしたのかな、と思っていた。それでも松井がバッターボックスに立つのを見れば胸が熱くなるかもしれない、と期待はしていた。だが、それも覇気の感じられない太目の松井を見た瞬間に心が萎えてしまったようだ。松井自身は3打席を振り返って、「スイング自体は悪くない。目が慣れれば何とかなるんじゃないかと思う」と述べているようだが、チームはそんな呑気なことを言える状況ではない。松井がDHで復帰したためにセンターを守ったデイモンの致命的なミスによってこの試合に負けてしまった結果、首位レイズとの差は11ゲームに開き、2位レッドソックスとも6.5ゲーム差となってしまい、プレーオフ進出は極めて厳しくなっている。チームがシーズン終盤での大逆転を果たすための最後の起爆剤となるのが、松井の復帰に求められているものであろう。そのためには復帰第一戦からチームを勝利に導く働きをしなければならなかったはずだ。それなのに・・。
もともとチームとしては痛めたひざを手術するよう求めていたのを、松井が拒否して今シーズン中の復帰を果たした経緯があるだけに、すぐに結果が求められるのは当然であり、DHで出場する選手が打てないのでは何も意味がない。さすがにすぐにはブーイングを浴びることはないかもしれないが、何試合かこんな状態が続いたら、厳しい見方をするヤンキースファンも多くなるだろう。
「こんなことなら大人しく手術して来季に捲土重来をかければよかったのに」などと今さら私は言いたくないし、松井の頑張りを最後まで期待したいとは思っている。が、それでもやっぱりこんな結果しか残せない試合が続いたら、「もう今シーズンは諦めて手術しろ」と言ってしまうかもしれない・・、いや間違いなく言うだろうな。
松井よ、つらい道を選んでしまったなあ・・・。でも、頑張れよ・・。
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京都点描
京都に滞在中撮った写真は150枚を超えていた。不出来な写真ばかりだが、これをこのまま埋もれさせるのは少し忍びない。私にとって印象的な何枚かをここに貼って、この夏の小旅行の思い出を締めくくろうと思う。
私が歩いたコースは川原町三条から鴨川をしばらく北上して二条辺りから東大路に出て、京大構内をうろちょろして百万遍から出町柳へというものだったが、さほど暑くもなく、手に持ったペットボトルで時々口を潤せば疲れを感じることもない、妙に楽しい時間だった。
鴨川沿いに並んでいる川床を、朝日の中、川岸から見上げても何も楽しくないが、3年前に川床で食事をしたのを思い出した。あの時は車で京都まで来たので、運転に疲れたのか、ビールの酔いがあっという間に回って、食事の途中で眠りこけてしまった。家族からはひどくブーイングを浴びたが、まあ、今回も似たようなものだった・・。
岡崎公園近くの疎水。疎水というのは琵琶湖の水を引いてきたものだが、その工事がどれだけ困難を極めたものだったかは小学生の社会の教科書で初めて知った。今こうやって橋の上から見る穏やかな水面は、そうした歴史のことなど何も語ってはくれない。眺めていたらゆったりした気持ちになれた。
京大病院の敷地の片隅にあった「全快地蔵」。日本でも有数の病院であるはずの京大病院でも神仏の力を借りねばならないのだろうか。何だかブラックジョークのようでもあり、思わず目を疑ったが、いくら最新鋭の医療をもってしても治せぬ病気はいくらでもあるのだろうから、神頼みによってでも健康になりたいと願う患者たちの切なる思いがこうした形で現れているのかもしれない・・。
百万遍の交差点から大文字を仰ぎ見た。せっかくの送り火を見忘れた私にはこれでも十分だ。カメラの望遠がうまく働かないからどうしてもこんな写真になってしまうが、実際にこの位置に立てばはっきりと「大」の字が見えた。また送り火を見るチャンスがあったら、その時はぜひともここから見ることにしよう。
出発して1時間ちょっとで加茂川と高野川の合流地点、通称「鴨川デルタ」に着いた。ここで北西から流れてくる加茂川と北東から流れてくる高野川が合流して鴨川になる。三角デルタはちょっとした公園のようになっていて、その時は女子大生と思しきグループが鐘と太鼓を叩きながら、グルグル回っていた。東南アジア系の音のように聞こえたが、いったいどういうグループなんだろう。しばらく聞き入ってしまった。
この後、妻と娘と合流して鱧を食べに行ったのだが、たまには一人でぶらつくのもいいものだ。
私が歩いたコースは川原町三条から鴨川をしばらく北上して二条辺りから東大路に出て、京大構内をうろちょろして百万遍から出町柳へというものだったが、さほど暑くもなく、手に持ったペットボトルで時々口を潤せば疲れを感じることもない、妙に楽しい時間だった。
鴨川沿いに並んでいる川床を、朝日の中、川岸から見上げても何も楽しくないが、3年前に川床で食事をしたのを思い出した。あの時は車で京都まで来たので、運転に疲れたのか、ビールの酔いがあっという間に回って、食事の途中で眠りこけてしまった。家族からはひどくブーイングを浴びたが、まあ、今回も似たようなものだった・・。
岡崎公園近くの疎水。疎水というのは琵琶湖の水を引いてきたものだが、その工事がどれだけ困難を極めたものだったかは小学生の社会の教科書で初めて知った。今こうやって橋の上から見る穏やかな水面は、そうした歴史のことなど何も語ってはくれない。眺めていたらゆったりした気持ちになれた。
京大病院の敷地の片隅にあった「全快地蔵」。日本でも有数の病院であるはずの京大病院でも神仏の力を借りねばならないのだろうか。何だかブラックジョークのようでもあり、思わず目を疑ったが、いくら最新鋭の医療をもってしても治せぬ病気はいくらでもあるのだろうから、神頼みによってでも健康になりたいと願う患者たちの切なる思いがこうした形で現れているのかもしれない・・。
百万遍の交差点から大文字を仰ぎ見た。せっかくの送り火を見忘れた私にはこれでも十分だ。カメラの望遠がうまく働かないからどうしてもこんな写真になってしまうが、実際にこの位置に立てばはっきりと「大」の字が見えた。また送り火を見るチャンスがあったら、その時はぜひともここから見ることにしよう。
出発して1時間ちょっとで加茂川と高野川の合流地点、通称「鴨川デルタ」に着いた。ここで北西から流れてくる加茂川と北東から流れてくる高野川が合流して鴨川になる。三角デルタはちょっとした公園のようになっていて、その時は女子大生と思しきグループが鐘と太鼓を叩きながら、グルグル回っていた。東南アジア系の音のように聞こえたが、いったいどういうグループなんだろう。しばらく聞き入ってしまった。
この後、妻と娘と合流して鱧を食べに行ったのだが、たまには一人でぶらつくのもいいものだ。
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大学探訪
日曜日、一泊したホテルから娘の部屋に行くまで少し寄り道をして、大学を探訪してみた。4年前に娘が入学したばかりの頃に、私の父や妻の母を伴って学内を少し回ったことがあるが、その時は余りの変容ぶりに驚いてしまい、全く知らない大学のような気がして少々寂しかった。今回は自分ひとりで自由が利くから少しゆっくり回ってみようかと思った。
まずは正門から時計台を眺める。前に立つクスノキが立派だが、私が学生の頃にはこんなに立派な木ではなかったように思う。まあ、30年も前の記憶だから怪しいものだが、あの頃と比べればクスノキもかなり成長したのだろう。それにしても正門から入るときれいに整備されていて、ごみ一つ落ちてない。気持ちがいいと言えば言えるが、どことなく余所行きの顔をしているような気がするのは、ノスタルジーに耽ろうとする親父の妄想なのかもしれない。
構内を少し歩いて驚いたのは、夏休み中の日曜日だというのに、学生が乗ってきたと思われる自転車の多さだ。講義もないのにいったい何のために大学に来るのだろう?、と授業をサボってばかりいた私としては全く理解できないことだ。だが、娘も毎日研究室に通っているらしいから、私の方が考え間違いをしているのは確かなのだが、それでもやっぱり不思議だ。
しかし、本当に立派な建物ばかりだ。写真中央の図書館など、恐れ多くて仰ぎ見ることしかできなかった。法学部の新しい校舎がいくつも並んで威容を誇っている。それにしても、文学部はどこにあるのだろう。私が通っていた頃の建物は見当たらない。昼でも薄暗い教室がいくつも並んでいたあの古い建物はとっくに壊されてしまったのだろうが、この辺りにあったはずなんだけど・・、と建物を見ても経済学部と書いてある・・。おかしいなあ・・。やっぱりかつての不良学生じゃ学部の建物さえも見つけられないのか、などと諦めかけたら、見つかった。
後で娘にこの写真を見せたら、「これは新館でしょう」と言われてしまった。本館は別棟らしいが、まあ、一枚だけでも写真を撮れたからいいとしておこう。
もう大学構内はこれで十分だと思って、学生時代の大半を過ごした西部講堂横のかつて「野草を食べる会」のあったクラブボックスが今どうなっているかを見に行った。
この西部の一角だけはまるで時が過ぎていない気がした。30年なんて経っていないかのように何もかもが昔のままだ。ふっとボックスの中から20歳くらいの自分が出てきそうな気がしたほどだ。この時の流れを全く無視した異次元の空間は何だろう。昨日会った諸先輩とマージャンばかりしていた頃のままだ・・。
このクラブボックスは新しく体育館横に新築される予定で、今工事が行われている。それで一層雑然とした雰囲気が漂っていたため、西部講堂もその全景を写真に収めることができず、何だかはっきりしない写真しか撮れなかったのは残念だ。
ボックスが今もなお形をとどめているのだから、できれば同窓会はボックスの前で集合すればよかったのに、と一人残念に思った・・。
まずは正門から時計台を眺める。前に立つクスノキが立派だが、私が学生の頃にはこんなに立派な木ではなかったように思う。まあ、30年も前の記憶だから怪しいものだが、あの頃と比べればクスノキもかなり成長したのだろう。それにしても正門から入るときれいに整備されていて、ごみ一つ落ちてない。気持ちがいいと言えば言えるが、どことなく余所行きの顔をしているような気がするのは、ノスタルジーに耽ろうとする親父の妄想なのかもしれない。
構内を少し歩いて驚いたのは、夏休み中の日曜日だというのに、学生が乗ってきたと思われる自転車の多さだ。講義もないのにいったい何のために大学に来るのだろう?、と授業をサボってばかりいた私としては全く理解できないことだ。だが、娘も毎日研究室に通っているらしいから、私の方が考え間違いをしているのは確かなのだが、それでもやっぱり不思議だ。
しかし、本当に立派な建物ばかりだ。写真中央の図書館など、恐れ多くて仰ぎ見ることしかできなかった。法学部の新しい校舎がいくつも並んで威容を誇っている。それにしても、文学部はどこにあるのだろう。私が通っていた頃の建物は見当たらない。昼でも薄暗い教室がいくつも並んでいたあの古い建物はとっくに壊されてしまったのだろうが、この辺りにあったはずなんだけど・・、と建物を見ても経済学部と書いてある・・。おかしいなあ・・。やっぱりかつての不良学生じゃ学部の建物さえも見つけられないのか、などと諦めかけたら、見つかった。
後で娘にこの写真を見せたら、「これは新館でしょう」と言われてしまった。本館は別棟らしいが、まあ、一枚だけでも写真を撮れたからいいとしておこう。
もう大学構内はこれで十分だと思って、学生時代の大半を過ごした西部講堂横のかつて「野草を食べる会」のあったクラブボックスが今どうなっているかを見に行った。
この西部の一角だけはまるで時が過ぎていない気がした。30年なんて経っていないかのように何もかもが昔のままだ。ふっとボックスの中から20歳くらいの自分が出てきそうな気がしたほどだ。この時の流れを全く無視した異次元の空間は何だろう。昨日会った諸先輩とマージャンばかりしていた頃のままだ・・。
このクラブボックスは新しく体育館横に新築される予定で、今工事が行われている。それで一層雑然とした雰囲気が漂っていたため、西部講堂もその全景を写真に収めることができず、何だかはっきりしない写真しか撮れなかったのは残念だ。
ボックスが今もなお形をとどめているのだから、できれば同窓会はボックスの前で集合すればよかったのに、と一人残念に思った・・。
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鱧!!
「久しぶりに京都に来たのだから、京都らしいものを食べたいなあ」、などと同窓会で何も食べずにひたすらビールばかり飲んでいた私は、空腹のために目覚めた朝、ぼんやり考えた。いくら京都に住んでいたことがあるとは言え、もうはるか昔のことであり、それらしい店を知っているはずもない。元々京都2日目の昼食は娘と食べる約束になっていたから、どこで食べるかは娘と妻の裁量に任せて、私はホテルから娘の部屋までゆっくり散策していった。すると11時近くなって妻から電話がかかってきた。
「四条大宮で鱧を食べることにしたから」
「おお、それはいいね」
「鱧しゃぶ・・」
「すごいね・・。もうすぐそちらに着く」
久しぶりに会った娘はやたら背が高い。私の背中が曲がったのかもしれないが、ヒールを履いて175cm近くあるような気がした。こんなにでかくて、やたら小難しいことを話すからきっと手に負えない女なんだろうな、と思いはするが、やっぱり我が娘は可愛い。大学院に進んでから忙しい毎日を過ごしているようで、妻から近況は漏れ聞いているが、まあ、自分の好きなようにやっているだろうから、それはそれで楽しい毎日を過ごしているんじゃないかと、親の欲目で思ったりした。
鱧は今までにも食べたことはあるが、しゃぶしゃぶで食べるのは初めてだ。夏場にしか食べられない鱧を堪能できたらいいな、という思いで入った店は「かめや」本店。そこでの鱧しゃぶは絶品だった。
「京都でなぜ鱧を食べる文化が発達したかっていうのは、鱧が京都まで生きたまま輸送できるほど生命力が強かったからだって、読んだことがある」
と妻が、鱧をしゃぶしゃぶしながら、薀蓄を披露してくれた。
「骨がないよね。これはすごい」
とも言ったように、長くて硬い小骨が非常に多いのが鱧の特徴であり、食べるには「骨切り」という下処理が必要となるのは有名な話だが、骨のことなど全く意識しないで食べられた。見事な「骨切り」がしてあるんだなと、みんなで感心した。鱧自体はあまり味がしない魚であり、娘によれば「京都の人は鱧なんて好きじゃない」そうだが、それでもこうやって贅沢に食べられたのはうれしかった。
雑炊がことのほか美味しかったようで、妻と娘の二人ですべて平らげてしまったのは驚いた。デザートが出てきて、
「うわあ、もう食べられない」
とか言ったはずの妻が、あっという間に食べてしまったのにも驚いたが、「甘いものは別腹」という黄金律は永遠に不滅なのかもしれない・・。
できればもう一度行ってみたいと思うほど美味しかった。
「四条大宮で鱧を食べることにしたから」
「おお、それはいいね」
「鱧しゃぶ・・」
「すごいね・・。もうすぐそちらに着く」
久しぶりに会った娘はやたら背が高い。私の背中が曲がったのかもしれないが、ヒールを履いて175cm近くあるような気がした。こんなにでかくて、やたら小難しいことを話すからきっと手に負えない女なんだろうな、と思いはするが、やっぱり我が娘は可愛い。大学院に進んでから忙しい毎日を過ごしているようで、妻から近況は漏れ聞いているが、まあ、自分の好きなようにやっているだろうから、それはそれで楽しい毎日を過ごしているんじゃないかと、親の欲目で思ったりした。
鱧は今までにも食べたことはあるが、しゃぶしゃぶで食べるのは初めてだ。夏場にしか食べられない鱧を堪能できたらいいな、という思いで入った店は「かめや」本店。そこでの鱧しゃぶは絶品だった。
「京都でなぜ鱧を食べる文化が発達したかっていうのは、鱧が京都まで生きたまま輸送できるほど生命力が強かったからだって、読んだことがある」
と妻が、鱧をしゃぶしゃぶしながら、薀蓄を披露してくれた。
「骨がないよね。これはすごい」
とも言ったように、長くて硬い小骨が非常に多いのが鱧の特徴であり、食べるには「骨切り」という下処理が必要となるのは有名な話だが、骨のことなど全く意識しないで食べられた。見事な「骨切り」がしてあるんだなと、みんなで感心した。鱧自体はあまり味がしない魚であり、娘によれば「京都の人は鱧なんて好きじゃない」そうだが、それでもこうやって贅沢に食べられたのはうれしかった。
雑炊がことのほか美味しかったようで、妻と娘の二人ですべて平らげてしまったのは驚いた。デザートが出てきて、
「うわあ、もう食べられない」
とか言ったはずの妻が、あっという間に食べてしまったのにも驚いたが、「甘いものは別腹」という黄金律は永遠に不滅なのかもしれない・・。
できればもう一度行ってみたいと思うほど美味しかった。
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大文字?
京都へ大学時代のサークル「野草を食べる会」の同窓会に行ってきた。偶然、大文字の送り火の日と重なったため、一度も見たことのない送り火を見られるのも嬉しいなと思っていた・・。
名古屋から京都なんてのぞみに乗ればわずか37分、ビール一本飲み干す前に着いてしまう。世はスピード時代とは言っても、いくらなんでも早いだろうと思ってしまう。単なる点と点の移動のようであまりに味気無いが、忙しい人間ばかりだから仕方のないことなのかもしれない。
などとごちゃごちゃ考えている間に着いたのは、Holiday Inn 京都。学生の頃は下宿に近いこともあってよく立ち寄ったこともあり、言わば自分の縄張りのような所だったが、30年近くも昔の話ではどうにもならない。フロントにたどり着くのさえ時間がかかり、会場に着いたのは開始時刻をかなり過ぎていた。一番学年が下の私(でも50才!!)としては諸先輩を待たせたことになり、平身低頭しながら席についた。が、思いのほか出席者が少ない。お盆休みの最終日、それぞれ都合があって欠席をやむなくされた方々が多いとのことだったが、3年ぶりの会だけに些かの寂しさは否めない。だが、それも束の間、ビールを飲んでしまえば私のペース、徐々に先輩の存在など「out of 眼中」、ひとりで蛮声を張り上げ醜態を晒すのみ、今となっては途切れ途切れの記憶をたどっては、ただただ恐縮するのみ・・。
すみませんでした。
一次会が終わり二次会は恒例(高齢?)のカラオケ、もう古い歌の「オンパレード」(古!!)・・。唯一私がお気に入りの Perfume の「チョコレートディスコ」をおぼろげながらも歌いきったのが唯一21世紀の匂いをかもし出したのみ・・。同級生で9月生まれの友人一人が40代(と言ってもあと一ヶ月で50なんだけど)で、中にはもうお孫さんもおられるという先輩と一緒では「歌声喫茶」のようになるのもいたしかないだろう。
先輩諸氏は大企業の管理職、私のみが自営業。年齢不相応な風体をして、白髪を長く伸ばしていれば、どうしたって浮いてしまう。企業に就職しなかったことを何も後悔していないし、やりたいようにやってきた今までを誇りにさえ思うが、企業の名前を後ろ盾にできる人々をうらやましく思わないといったら嘘になる。もちろんどんな仕事でもそれぞれに苦労や悩みがあることくらいはこの年になれば分かる。参加した先輩たちがどことなく疲れた様子をしているのも感じられたが、疲れているのは私でも同じだ。フラフラになりながも毎日頑張るしかない世代の辛さが身にしみたりしたが、それでも若い頃に戻れた喜びのほうが何倍も大きかった。3年ごとに開かれるこの会に毎回出席しているのは私を含めて7、8人しかいない。忙しい毎日を過ごしている人ばかりだからそれは仕方ないことだろうが、それでもやはりこうした機会を生かしてできる限り多くの人に集まってもらいたい、幹事でもない末端の私が偉そうに言えたものではないが、そんな気がした。
カラオケが終わって三々五々になり始めたのを潮に、娘の部屋にいる妻に電話して遅い夕食を食べることにした。だが、もうかなり酔いが回っていた私では、妻と落ち合うのが精一杯で、その後何をどうしたのか記憶が判然としない。木屋町辺りの店に入ったのは覚えているが、そこにいる間に大文字の送り火は終了してしまったようだ。何だかすごくもったいない気もしたが、どうせこんなものだろう。大文字の送り火なんて、来年のお盆になればまた見られるから、楽しみを先送りしただけだ、そんな風に思い直した。
名古屋から京都なんてのぞみに乗ればわずか37分、ビール一本飲み干す前に着いてしまう。世はスピード時代とは言っても、いくらなんでも早いだろうと思ってしまう。単なる点と点の移動のようであまりに味気無いが、忙しい人間ばかりだから仕方のないことなのかもしれない。
などとごちゃごちゃ考えている間に着いたのは、Holiday Inn 京都。学生の頃は下宿に近いこともあってよく立ち寄ったこともあり、言わば自分の縄張りのような所だったが、30年近くも昔の話ではどうにもならない。フロントにたどり着くのさえ時間がかかり、会場に着いたのは開始時刻をかなり過ぎていた。一番学年が下の私(でも50才!!)としては諸先輩を待たせたことになり、平身低頭しながら席についた。が、思いのほか出席者が少ない。お盆休みの最終日、それぞれ都合があって欠席をやむなくされた方々が多いとのことだったが、3年ぶりの会だけに些かの寂しさは否めない。だが、それも束の間、ビールを飲んでしまえば私のペース、徐々に先輩の存在など「out of 眼中」、ひとりで蛮声を張り上げ醜態を晒すのみ、今となっては途切れ途切れの記憶をたどっては、ただただ恐縮するのみ・・。
すみませんでした。
一次会が終わり二次会は恒例(高齢?)のカラオケ、もう古い歌の「オンパレード」(古!!)・・。唯一私がお気に入りの Perfume の「チョコレートディスコ」をおぼろげながらも歌いきったのが唯一21世紀の匂いをかもし出したのみ・・。同級生で9月生まれの友人一人が40代(と言ってもあと一ヶ月で50なんだけど)で、中にはもうお孫さんもおられるという先輩と一緒では「歌声喫茶」のようになるのもいたしかないだろう。
先輩諸氏は大企業の管理職、私のみが自営業。年齢不相応な風体をして、白髪を長く伸ばしていれば、どうしたって浮いてしまう。企業に就職しなかったことを何も後悔していないし、やりたいようにやってきた今までを誇りにさえ思うが、企業の名前を後ろ盾にできる人々をうらやましく思わないといったら嘘になる。もちろんどんな仕事でもそれぞれに苦労や悩みがあることくらいはこの年になれば分かる。参加した先輩たちがどことなく疲れた様子をしているのも感じられたが、疲れているのは私でも同じだ。フラフラになりながも毎日頑張るしかない世代の辛さが身にしみたりしたが、それでも若い頃に戻れた喜びのほうが何倍も大きかった。3年ごとに開かれるこの会に毎回出席しているのは私を含めて7、8人しかいない。忙しい毎日を過ごしている人ばかりだからそれは仕方ないことだろうが、それでもやはりこうした機会を生かしてできる限り多くの人に集まってもらいたい、幹事でもない末端の私が偉そうに言えたものではないが、そんな気がした。
カラオケが終わって三々五々になり始めたのを潮に、娘の部屋にいる妻に電話して遅い夕食を食べることにした。だが、もうかなり酔いが回っていた私では、妻と落ち合うのが精一杯で、その後何をどうしたのか記憶が判然としない。木屋町辺りの店に入ったのは覚えているが、そこにいる間に大文字の送り火は終了してしまったようだ。何だかすごくもったいない気もしたが、どうせこんなものだろう。大文字の送り火なんて、来年のお盆になればまた見られるから、楽しみを先送りしただけだ、そんな風に思い直した。
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ダルビッシュ
北京オリンピックで金メダルを目指す日本野球チームのエース、ダルビッシュ投手は初戦のキューバ戦で本来の投球ができず、4回途中でKOされてしまった。予選リーグのため1敗くらいはどうってことはないだろうが、現在の日本のプロ野球界で最高の投手と目されているダルビッシュが打ち込まれたことは、私にはかなりの衝撃だった。WBCの時は松坂大輔がエースとして日本を優勝へと導いたが、今はレッドソックスの投手としてオリンピックに参加できないため、ダルビッシュが軸となって大切な試合で勝ってもらわねばと思っていただけに、この一敗で日本の金メダル獲得に暗雲が垂れ込めたと私は思っていた。
それでも第2戦の台湾戦は、苦しみながらも9回表の猛攻で、抑えの上原にプレッシャーをかけることなく勝つことができた。勝ちみの遅い点に不満は残るものの、湧井の好投は初戦のダルビッシュの不調を補って余りあるものだった。
迎えた金曜日の第3戦、オランダとの試合は初回に先制した日本をTVで見て、実力差は歴然としているなと安心して柔道の実況にチャンネルを合わせた。塚田真希の残り8秒での無念の逆転負けに悔し涙し、男子100kg超級で優勝した石井慧のなんとも言えぬおバカなインタビューに大笑いした後で、もう一度野球にチャンネルを合わせたところ、田中マー君が8回を抑えた場面を見ることができた。思いの外点差は開いていなかったが、とりあえず2勝目をあげることでチームが乗ってくるんじゃないかと思った。
その後PCでオリンピック関係のニュースを調べていたところ、
「ダルビッシュ、決意の?丸刈り 星野ジャパン球場入り」
という驚くべき記事が写真つきで載っていた。
「北京五輪の野球日本代表で星野ジャパンのエース、ダルビッシュ有投手(21)が15日、丸刈りで球場入りした。ダルビッシュ投手といえば、球場やテレビCMなどでおなじみの長髪がトレードマーク。それだけに突然の丸刈り姿に周囲から驚嘆の声が上がった。ダルビッシュ投手は五輪初戦となるキューバ戦に先発。被安打7、四死球4で4失点と大荒れで、五回途中で降板と実力を発揮できなかった。違和感漂う球場入りに、報道陣からは「気合いですか?」の質問が飛んだが、ダルビッシュ投手は無言を貫き練習に入った」
チャラチャラした選手の多い今のプロ野球界で、ダルビッシュ投手はその代表格だとばかり思っていた私はこのニュースを読んで仰天した。余りに驚いたため、今この記事を書いているのだが、ダルビッシュ自身が己の不甲斐ないピッチングに「喝!」を入れるために丸刈りにしたのだと思ってもいいのだろう。帽子からはみ出た茶色に染めた長髪が今のプロ野球選手の流行なのかもしれないが、どうにも違和感を感じざるを得ない私には、ダルビッシュの決意が清々しく思え、外の選手も皆丸刈りにして気合を見せればいいのに、とまで思ってしまう。もちろんこれはダルビッシュ投手個人の決意の表れであって、何も他の選手が追随する必要は全くないが、この先気合を込めるために、丸刈りにする選手が現れてくるかもしれない。
高校野球でも丸坊主を強制されることのない現在であるから、プロ野球選手がどんな髪型をしていようと部外者がとやかく言う筋合いのものではないが、長髪の選手が多い現在あえて丸刈りにする選手がいると、その試合にかける気合がにじみ出てくるようで、その選手を応援する私たちにも気合が入る。それだけに、覚悟を決めたと思えるダルビッシュ投手の次の登板が楽しみで仕方ないし、必ずや大きな仕事をしてくれるものと期待している。
松井秀喜も左ひざを手術せずに今月中の復帰を目指しているというならば、ファンや周りのスタッフに己の決意の固さを見せるために、丸坊主にしてくれたならば、彼の復帰を待ちわびる人も多くなるかもしれないが・・。
それでも第2戦の台湾戦は、苦しみながらも9回表の猛攻で、抑えの上原にプレッシャーをかけることなく勝つことができた。勝ちみの遅い点に不満は残るものの、湧井の好投は初戦のダルビッシュの不調を補って余りあるものだった。
迎えた金曜日の第3戦、オランダとの試合は初回に先制した日本をTVで見て、実力差は歴然としているなと安心して柔道の実況にチャンネルを合わせた。塚田真希の残り8秒での無念の逆転負けに悔し涙し、男子100kg超級で優勝した石井慧のなんとも言えぬおバカなインタビューに大笑いした後で、もう一度野球にチャンネルを合わせたところ、田中マー君が8回を抑えた場面を見ることができた。思いの外点差は開いていなかったが、とりあえず2勝目をあげることでチームが乗ってくるんじゃないかと思った。
その後PCでオリンピック関係のニュースを調べていたところ、
「ダルビッシュ、決意の?丸刈り 星野ジャパン球場入り」
という驚くべき記事が写真つきで載っていた。
「北京五輪の野球日本代表で星野ジャパンのエース、ダルビッシュ有投手(21)が15日、丸刈りで球場入りした。ダルビッシュ投手といえば、球場やテレビCMなどでおなじみの長髪がトレードマーク。それだけに突然の丸刈り姿に周囲から驚嘆の声が上がった。ダルビッシュ投手は五輪初戦となるキューバ戦に先発。被安打7、四死球4で4失点と大荒れで、五回途中で降板と実力を発揮できなかった。違和感漂う球場入りに、報道陣からは「気合いですか?」の質問が飛んだが、ダルビッシュ投手は無言を貫き練習に入った」
チャラチャラした選手の多い今のプロ野球界で、ダルビッシュ投手はその代表格だとばかり思っていた私はこのニュースを読んで仰天した。余りに驚いたため、今この記事を書いているのだが、ダルビッシュ自身が己の不甲斐ないピッチングに「喝!」を入れるために丸刈りにしたのだと思ってもいいのだろう。帽子からはみ出た茶色に染めた長髪が今のプロ野球選手の流行なのかもしれないが、どうにも違和感を感じざるを得ない私には、ダルビッシュの決意が清々しく思え、外の選手も皆丸刈りにして気合を見せればいいのに、とまで思ってしまう。もちろんこれはダルビッシュ投手個人の決意の表れであって、何も他の選手が追随する必要は全くないが、この先気合を込めるために、丸刈りにする選手が現れてくるかもしれない。
高校野球でも丸坊主を強制されることのない現在であるから、プロ野球選手がどんな髪型をしていようと部外者がとやかく言う筋合いのものではないが、長髪の選手が多い現在あえて丸刈りにする選手がいると、その試合にかける気合がにじみ出てくるようで、その選手を応援する私たちにも気合が入る。それだけに、覚悟を決めたと思えるダルビッシュ投手の次の登板が楽しみで仕方ないし、必ずや大きな仕事をしてくれるものと期待している。
松井秀喜も左ひざを手術せずに今月中の復帰を目指しているというならば、ファンや周りのスタッフに己の決意の固さを見せるために、丸坊主にしてくれたならば、彼の復帰を待ちわびる人も多くなるかもしれないが・・。
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危険の感覚
大江健三郎が1963年に書いた「危険の感覚」という短い文章がある。(大江健三郎同時代論集1)「作家にとっていちばん大切な、そして最も基本的な態度とは、どういう態度でしょう?」というインタヴィュアーの質問を読んだ大江が、あれこれ考えた結果、次のような返答を書いている。
「ぼくという作家にとっていちばん大切な、そして最も基本的な態度とは、それは危険の感覚をもちつづけることです」
この「危険の感覚」というのは、オーデンという詩人の詩、
危険の感覚は失せてはならない
道はたしかに短かい、また険しい
ここから見るとだらだら坂みたいだが。
に書かれた言葉だが、大江はこれを読んだ学生時代に「この詩を自分の行動法にしようと思った」と記している。彼は、この文章の中で「危険の感覚」の中身、どんな状況に対する危険の感覚をもち続ける必要があるのかについては明記していないが、当時はそれをあえて書く必要もないほど多くの人々に共通の感覚であったのだろう。思えば、戦禍の記憶もまだ新しい63年当時は、冷戦という閉塞状況の中、東西陣営の一触即発の危険に満ちていた。そんな時代に大江は、
「小説における観察力ということについて、ぼくは観察力の信者だが、その観察力に二種類あると思っている。危険の感覚にみちた人間の観察力と、大船に乗った気もちで悠ゆうとした観察者の観察力と。ぼく自身は危険におびえている観察者のひとりでいたい」
と書いた。その後の彼の行動・発言を見れば、彼がこうした信念を貫き通してきたことは衆目の一致するところであり、胡乱な私には時として過敏ではないかと感じることさえあった、彼の時代の危うさに対する発言は、すべてこの信念から出たものだったことが分かる。そして、その信念の核となった原体験が1945年8月15日であったことは、彼の著作のいくつかを読めば明らかである。
私は若い頃から、自分は核となるべき体験を持っていない人間だと思ってきた。戦争は言うまでもなく、学生運動も終焉を迎えた頃に大学生となったため、「遅れてきた」世代の人間だと思ってきた。また、核を持たないことが己の甘さの根源であると、何か後ろめたささえも感じていた。核となるような激甚な体験をしなかったのは、ある意味幸せなことかもしれないが、己の存在を完成させるピースが、最後の1片か2片欠けているような不満を常に感じていた。それが私個人の不完全さなのか、同じ世代に共通する思いなのかは、よく分からないが、そんな私もいつしか50を超えてしまった、中途半端なままに・・。
昨今の社会状況を鑑みて、大江健三郎をはじめとした、私の父親世代の「老人たち」が、己の「危険の感覚」にしたがって、私たちに警鐘を鳴らし続けている。そうした発言を読むたびに、私は己の不甲斐なさがたまらなく恥ずかしくなる。本来なら、積極的に発言すべきなのは、もう私たちの世代の役割なのだろうが、日々の生活に汲々とするうちに「危険の感覚」など鈍ってしまった私たちには、とてもそんな余力は残っていないように思える。ならば、老人たちの声を若い世代へつなぐ橋渡し役にでも徹すればいいのだろうが、そんなことさえも億劫になってしまい、耳をふさぎ、目を瞑り、口を閉じてしまっているような気がしてならない。
かく言う私がその最たる者であるのだが、そんな私でも「このままじゃ、ちょっとまずいぞ」と思うことが現代社会には多すぎる。世の中を変えようなどと大そうな考えは持ちあわせていないし、ボランティア精神とはかけ離れたところで生きている私であるから、大したことができるわけではない。でも、いくらなんでもこのままじゃ・・。
で、どうする?
「ぼくという作家にとっていちばん大切な、そして最も基本的な態度とは、それは危険の感覚をもちつづけることです」
この「危険の感覚」というのは、オーデンという詩人の詩、
危険の感覚は失せてはならない
道はたしかに短かい、また険しい
ここから見るとだらだら坂みたいだが。
に書かれた言葉だが、大江はこれを読んだ学生時代に「この詩を自分の行動法にしようと思った」と記している。彼は、この文章の中で「危険の感覚」の中身、どんな状況に対する危険の感覚をもち続ける必要があるのかについては明記していないが、当時はそれをあえて書く必要もないほど多くの人々に共通の感覚であったのだろう。思えば、戦禍の記憶もまだ新しい63年当時は、冷戦という閉塞状況の中、東西陣営の一触即発の危険に満ちていた。そんな時代に大江は、
「小説における観察力ということについて、ぼくは観察力の信者だが、その観察力に二種類あると思っている。危険の感覚にみちた人間の観察力と、大船に乗った気もちで悠ゆうとした観察者の観察力と。ぼく自身は危険におびえている観察者のひとりでいたい」
と書いた。その後の彼の行動・発言を見れば、彼がこうした信念を貫き通してきたことは衆目の一致するところであり、胡乱な私には時として過敏ではないかと感じることさえあった、彼の時代の危うさに対する発言は、すべてこの信念から出たものだったことが分かる。そして、その信念の核となった原体験が1945年8月15日であったことは、彼の著作のいくつかを読めば明らかである。
私は若い頃から、自分は核となるべき体験を持っていない人間だと思ってきた。戦争は言うまでもなく、学生運動も終焉を迎えた頃に大学生となったため、「遅れてきた」世代の人間だと思ってきた。また、核を持たないことが己の甘さの根源であると、何か後ろめたささえも感じていた。核となるような激甚な体験をしなかったのは、ある意味幸せなことかもしれないが、己の存在を完成させるピースが、最後の1片か2片欠けているような不満を常に感じていた。それが私個人の不完全さなのか、同じ世代に共通する思いなのかは、よく分からないが、そんな私もいつしか50を超えてしまった、中途半端なままに・・。
昨今の社会状況を鑑みて、大江健三郎をはじめとした、私の父親世代の「老人たち」が、己の「危険の感覚」にしたがって、私たちに警鐘を鳴らし続けている。そうした発言を読むたびに、私は己の不甲斐なさがたまらなく恥ずかしくなる。本来なら、積極的に発言すべきなのは、もう私たちの世代の役割なのだろうが、日々の生活に汲々とするうちに「危険の感覚」など鈍ってしまった私たちには、とてもそんな余力は残っていないように思える。ならば、老人たちの声を若い世代へつなぐ橋渡し役にでも徹すればいいのだろうが、そんなことさえも億劫になってしまい、耳をふさぎ、目を瞑り、口を閉じてしまっているような気がしてならない。
かく言う私がその最たる者であるのだが、そんな私でも「このままじゃ、ちょっとまずいぞ」と思うことが現代社会には多すぎる。世の中を変えようなどと大そうな考えは持ちあわせていないし、ボランティア精神とはかけ離れたところで生きている私であるから、大したことができるわけではない。でも、いくらなんでもこのままじゃ・・。
で、どうする?
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丸出だめ夫
夏休みに入って、なかなか勉強の成果が出てこない小6生男子がいる。来春の受験に向けてこの夏休みに少しでも実力を蓄えねばならないことは本人も十分自覚しているようであるが、今までのところ意欲が空回りしているようで、練習問題をやらせてもなかなか得点が上がってこない。先日も算数のテストの答え合わせをしながら、余りにお粗末な点しか取れなかったものだから、思わず、私が
「ダメじゃん、これじゃあ。マルデダメオじゃん!!」
と叫んでしまった。スランプなのか、実力不足なのか、多分そのどちらでもあるのだろうが、とにかく最近の不振振りにはついつい私の語気が荒くなってしまう。かと言って、一方的に怒鳴ったところで子供を萎縮させるだけなので、時々冗談めかしたことを挟みながら、何とかいい方向に持っていこうとしている。だが、それも時と場合による。その時は私のちっぽけなギャグがまったく通じなかったようで、言われた小学生はきょとんとしている。
「ああ、そうか。君らは『マルデダメオ』なんてマンガ知らないよな・・。俺が小さい頃雑誌に連載されていた漫画なんだけど」
と言って、黒板に「丸出だめ夫」という名前を書いてみた。
「ひどい名前だよなあ、『マルデダメオ』なんて・・。今だったら出版社に文句の電話がバンバンかかってくるだろうな」
などと言いながら、私が覚えている「だめ夫」の絵を黒板に描いてみた。
「こんな丸メガネをかけていて、頭がよさそうに見えるけど、テストは0点ばかりだし、ドジなことばかりしている子供・・、のび太みたいな奴だな。そうそう、TVで流れていたテーマソングも歌えるぞ」
と言って、最初の部分を歌ってみた。
「だめ だめ だめ だめ だめ
だーめ だーめ だーめ だめ・・」
しかし、歌はまだしも、私が描いた絵は余りにお粗末で、何が何やら分からない。仕方なしに携帯で Google 検索してみたら、いくつか画像が出てきたので子供たちに見せてやった。
「だめ夫」のしょぼさを見た子供たちは、ついつい笑ってしまう子が多かったが、私は久しぶりに会った「丸出だめ夫」くんに懐かしさで胸がいっぱいになってしまった。そこで、少し調べてみたら、「1964年から67年まで週刊少年マガジンで連載されたマンガがテレビドラマ化され、66年から67年まで全52話が放送された。主人公のだめ夫役は、穂積ぺぺが演じていた」ことが分かった。なるほど、私が見たものは確かに実写版だった。その後、1990年代にアニメ版も放送されたようだが私はまったく記憶がない。だが、実写版には記憶がある。
ストーリーは「勉強も運動も何をやってもだめな小学3年生、丸出だめ夫と科学者で父親のはげ照が発明したポンコツロボットのボロットが繰り広げるドタバタコメディ」だと Wiki に出ていたが、今でもテーマソングを歌えるくらいだから、当時の私(8歳か9歳)は毎週欠かさず見ていたのだと思う。さらに、「だめ夫とボロットの関係は、後ののび太とドラえもんの関係にかなり近い」という指摘もあるくらいだから、やはりこうした自分をサポートしてくれる存在が身近にいてくれるのは、小さな子供たちにとっては憧れなのかもしれない。
テーマソング(「子供はつらいよ」・・・なんて題名!!)を聞けるサイトも見つけたから、もっと練習をつんで子供たちに最後まで聞かせてやろうと思っている。
(歌詞はこちら)
穂積ぺぺは私と同じ世代の人だが、今はどこでどうしているのだろう?
「ダメじゃん、これじゃあ。マルデダメオじゃん!!」
と叫んでしまった。スランプなのか、実力不足なのか、多分そのどちらでもあるのだろうが、とにかく最近の不振振りにはついつい私の語気が荒くなってしまう。かと言って、一方的に怒鳴ったところで子供を萎縮させるだけなので、時々冗談めかしたことを挟みながら、何とかいい方向に持っていこうとしている。だが、それも時と場合による。その時は私のちっぽけなギャグがまったく通じなかったようで、言われた小学生はきょとんとしている。
「ああ、そうか。君らは『マルデダメオ』なんてマンガ知らないよな・・。俺が小さい頃雑誌に連載されていた漫画なんだけど」
と言って、黒板に「丸出だめ夫」という名前を書いてみた。
「ひどい名前だよなあ、『マルデダメオ』なんて・・。今だったら出版社に文句の電話がバンバンかかってくるだろうな」
などと言いながら、私が覚えている「だめ夫」の絵を黒板に描いてみた。
「こんな丸メガネをかけていて、頭がよさそうに見えるけど、テストは0点ばかりだし、ドジなことばかりしている子供・・、のび太みたいな奴だな。そうそう、TVで流れていたテーマソングも歌えるぞ」
と言って、最初の部分を歌ってみた。
「だめ だめ だめ だめ だめ
だーめ だーめ だーめ だめ・・」
しかし、歌はまだしも、私が描いた絵は余りにお粗末で、何が何やら分からない。仕方なしに携帯で Google 検索してみたら、いくつか画像が出てきたので子供たちに見せてやった。
「だめ夫」のしょぼさを見た子供たちは、ついつい笑ってしまう子が多かったが、私は久しぶりに会った「丸出だめ夫」くんに懐かしさで胸がいっぱいになってしまった。そこで、少し調べてみたら、「1964年から67年まで週刊少年マガジンで連載されたマンガがテレビドラマ化され、66年から67年まで全52話が放送された。主人公のだめ夫役は、穂積ぺぺが演じていた」ことが分かった。なるほど、私が見たものは確かに実写版だった。その後、1990年代にアニメ版も放送されたようだが私はまったく記憶がない。だが、実写版には記憶がある。
ストーリーは「勉強も運動も何をやってもだめな小学3年生、丸出だめ夫と科学者で父親のはげ照が発明したポンコツロボットのボロットが繰り広げるドタバタコメディ」だと Wiki に出ていたが、今でもテーマソングを歌えるくらいだから、当時の私(8歳か9歳)は毎週欠かさず見ていたのだと思う。さらに、「だめ夫とボロットの関係は、後ののび太とドラえもんの関係にかなり近い」という指摘もあるくらいだから、やはりこうした自分をサポートしてくれる存在が身近にいてくれるのは、小さな子供たちにとっては憧れなのかもしれない。
テーマソング(「子供はつらいよ」・・・なんて題名!!)を聞けるサイトも見つけたから、もっと練習をつんで子供たちに最後まで聞かせてやろうと思っている。
(歌詞はこちら)
穂積ぺぺは私と同じ世代の人だが、今はどこでどうしているのだろう?
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冷し茶づけ
北京オリンピックの熱戦に声援を送る毎日であるが、名古屋近辺の暑さは相変わらず激しく、時々は頭が朦朧としてしまうほどだ。そんな毎日では食欲もわかず、麺類が主食なっている私では、ご飯を食べる機会が余りない。朝起きて菓子パンを一個、昼と夜は麺類だけ、そんな食生活が主流になってしまっている。たまにご飯を食べるときもお茶漬けにしてサラサラと口にかき込むことが多い。そんな時に大いに役立つものを最近見つけた。サントリーのウーロン茶のおまけとしてついていた、「冷やし烏龍茶づけ」、まさしく北京オリンピックとコラボしたような企画ではあるが、これが私には思いもかけぬ「ビンゴ!」だったのだ。
おまけには3種類あった。
「海老 ピリ辛海鮮スープ仕立て」「貝柱 海鮮スープ仕立て」「蒸し鶏 あっさり胡麻仕立て」
この中から「海老」を最初に試してみた。
玄米のご飯に振りかけてみたところ、玄米の色と茶漬けの具の色の識別がしにくく、余り美味しそうに見えなかった。ところが、冷たく冷やした烏龍茶をたっぷりかけて一口食べてみたところ、驚いた。ピリ辛海鮮スープが烏龍茶とマッチして実に美味しい。サントリーの烏龍茶はその独特の風味が好きで毎日飲んでいるが、少々苦さを感じることもある。だが、こうやってお茶漬けのお茶にしてみたら、スープや海老の味を引き立てると同時に、烏龍茶自体ずいぶん口当たりがよくなっている。まったく不思議だが、お互いがお互いの美味しさを引き出しているように思った。たかがおまけなどと侮ってはならない、まったく脱帽してしまった。冷たくて美味しくて、あっという間に食べてしまった。
それじゃあ、と少し日をおいて「貝柱」を同じように烏龍茶をかけて食べてみた。
だが、がっかりした。美味しくない・・。具の貝柱の味もよく分からなかったし、何よりも海鮮スープにアクセントが感じられない。烏龍茶の味に負けてしまっている。ダメだ、こりゃ・・。やはりピリ辛スープくらいじゃないと烏龍茶と互角の戦いができないのかもしれない。ならば、残りの「蒸し鶏」はどうだろう、きっと「あっさり胡麻
仕立て」のスープでは荷が重過ぎるだろう、と予想はついたものの、如何せん「鶏」では私の口の中に入れるわけには行かない。せっかくここまで味の追求をしてきたなら最後まで試したかったが、中断せざるをえなかった、無念だ・・。
実はこのおまけは永谷園かられっきとした商品として売られている。もし、この記事を読まれた方がその商品を見つけられたなら、ぜひ「蒸し鶏」を購入されて、味についてのご意見をお聞かせ願いたいと思っている。
おまけには3種類あった。
「海老 ピリ辛海鮮スープ仕立て」「貝柱 海鮮スープ仕立て」「蒸し鶏 あっさり胡麻仕立て」
この中から「海老」を最初に試してみた。
玄米のご飯に振りかけてみたところ、玄米の色と茶漬けの具の色の識別がしにくく、余り美味しそうに見えなかった。ところが、冷たく冷やした烏龍茶をたっぷりかけて一口食べてみたところ、驚いた。ピリ辛海鮮スープが烏龍茶とマッチして実に美味しい。サントリーの烏龍茶はその独特の風味が好きで毎日飲んでいるが、少々苦さを感じることもある。だが、こうやってお茶漬けのお茶にしてみたら、スープや海老の味を引き立てると同時に、烏龍茶自体ずいぶん口当たりがよくなっている。まったく不思議だが、お互いがお互いの美味しさを引き出しているように思った。たかがおまけなどと侮ってはならない、まったく脱帽してしまった。冷たくて美味しくて、あっという間に食べてしまった。
それじゃあ、と少し日をおいて「貝柱」を同じように烏龍茶をかけて食べてみた。
だが、がっかりした。美味しくない・・。具の貝柱の味もよく分からなかったし、何よりも海鮮スープにアクセントが感じられない。烏龍茶の味に負けてしまっている。ダメだ、こりゃ・・。やはりピリ辛スープくらいじゃないと烏龍茶と互角の戦いができないのかもしれない。ならば、残りの「蒸し鶏」はどうだろう、きっと「あっさり胡麻
仕立て」のスープでは荷が重過ぎるだろう、と予想はついたものの、如何せん「鶏」では私の口の中に入れるわけには行かない。せっかくここまで味の追求をしてきたなら最後まで試したかったが、中断せざるをえなかった、無念だ・・。
実はこのおまけは永谷園かられっきとした商品として売られている。もし、この記事を読まれた方がその商品を見つけられたなら、ぜひ「蒸し鶏」を購入されて、味についてのご意見をお聞かせ願いたいと思っている。
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コンパウンド
2008年08月12日 / 車
日曜日の午前中、バス2台の給油をした。私と妻が1台ずつ運転してスタンドまで行ったところ、どちらのバスも窓ガラスが汚れているのに気付いた。ここ最近はセルフスタンドばかり利用しているから、窓拭きなどのサービスが受けられず、汚れたままになっているのに気付かなかった。バスはどちらも普段私以外の者が運転しているので、給油の時くらいしかチェックができない。全ての車の状態を把握しておくのが私の務めなのに、このていたらくでは職務怠慢だと指弾されても仕方ない。家に戻って早速洗車することにした。
とは言え、さすがに暑い。いくら冷たい水道水を使っての洗車でも、照りつける日差しをまともに受けていれば、あっという間に汗だくになってしまう。半分も終わらぬうちにへばってしまった。それでも何とか1台洗車し終えて、残りのもう1台は昼ご飯を食べてからにしよう、と決めて「やな」まで出掛けていった。
家に戻ってきても暑さは相変わらずだったが、決めたことは果たさねばならない。「やるぞ!」と己を鼓舞して洗車し始めたところ、バスの横手に大きな擦り痕が残っているのに気づいた。少し前に、ある運転手が車庫入れに失敗して、「バスの横を柱で擦っちゃいました」との報告は聞いていたものの、何も処置せぬままに来てしまっていた。改めてじっと見ると、思っていたより擦った痕が大きいので、さすがにこのままにしておくわけにはいかない、できるだけのことはやってみようと、コンパウンドでボディーを磨くことにした。
コンパウンドというのは、「主につや出しなどに使われる粉末状の研磨材」のことであり、車体の表面についた擦り痕くらいなら落とす効果を持っている。だが、当然のことながら、塗装が削り落ちてしまった所や凹んだ箇所を元に戻したりはできない。今まで何度か世話になっているため、その効果は実証済みだが、最近は使っていなかった。ふたを開けたら、コンパウンドが乾燥してひび割れてしまっていた。果たして使えるかな、と心配しながらも、雑巾にこすり付けてバスのボディーをゴシゴシ磨いていった。すると、コンパウンドの質は落ちていなかったようだ、擦り痕が少しずつなくなってくる。もちろん凹みは解消できないが、腕がだるくなるまで根気よく続けていったら、表面についていた擦り痕はかなりきれいに取れてしまった。
⇒⇒⇒⇒⇒
このバスは、塾バス3台のうちで一番新しいものだけになるべく傷を付けてほしくないが、「車にはいくらキズがついても構わないから、とにかく安全運転をするように」と常々運転する者たちに言い聞かせてあるので、これくらいのキズなど気にしてなどいられない。
もちろん私の手に負えないような大きな傷痕は付けないよう細心の注意はしてもらわなければならないが・・。
とは言え、さすがに暑い。いくら冷たい水道水を使っての洗車でも、照りつける日差しをまともに受けていれば、あっという間に汗だくになってしまう。半分も終わらぬうちにへばってしまった。それでも何とか1台洗車し終えて、残りのもう1台は昼ご飯を食べてからにしよう、と決めて「やな」まで出掛けていった。
家に戻ってきても暑さは相変わらずだったが、決めたことは果たさねばならない。「やるぞ!」と己を鼓舞して洗車し始めたところ、バスの横手に大きな擦り痕が残っているのに気づいた。少し前に、ある運転手が車庫入れに失敗して、「バスの横を柱で擦っちゃいました」との報告は聞いていたものの、何も処置せぬままに来てしまっていた。改めてじっと見ると、思っていたより擦った痕が大きいので、さすがにこのままにしておくわけにはいかない、できるだけのことはやってみようと、コンパウンドでボディーを磨くことにした。
コンパウンドというのは、「主につや出しなどに使われる粉末状の研磨材」のことであり、車体の表面についた擦り痕くらいなら落とす効果を持っている。だが、当然のことながら、塗装が削り落ちてしまった所や凹んだ箇所を元に戻したりはできない。今まで何度か世話になっているため、その効果は実証済みだが、最近は使っていなかった。ふたを開けたら、コンパウンドが乾燥してひび割れてしまっていた。果たして使えるかな、と心配しながらも、雑巾にこすり付けてバスのボディーをゴシゴシ磨いていった。すると、コンパウンドの質は落ちていなかったようだ、擦り痕が少しずつなくなってくる。もちろん凹みは解消できないが、腕がだるくなるまで根気よく続けていったら、表面についていた擦り痕はかなりきれいに取れてしまった。
このバスは、塾バス3台のうちで一番新しいものだけになるべく傷を付けてほしくないが、「車にはいくらキズがついても構わないから、とにかく安全運転をするように」と常々運転する者たちに言い聞かせてあるので、これくらいのキズなど気にしてなどいられない。
もちろん私の手に負えないような大きな傷痕は付けないよう細心の注意はしてもらわなければならないが・・。
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