goo

酩酊

 「中川昭一財務相兼金融担当相は17日夕、首相官邸を訪れ、先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後に、もうろうとした状態で記者会見した問題で、麻生太郎首相に辞表を提出し、受理された」

 などというバカみたいな出来事は、今の日本の置かれた状況をまるで分かっていない人々によって政治が行われている象徴であろう。どこの誰が酔っ払って仕事をするものか、などと言いたくはなるが、この前の日曜日ほとんど記憶がなくなるくらいに酔い潰れたばかりの私では、中川大臣の一件はいささか自戒の念を惹起させるに足る不祥事でもあった。
 日曜日、塾が終わって(ここが大臣と違うところであり、仕事が終わった後の出来事であるのは強調しておかねばならない!)、さあこれからは一週間のご褒美の時間だ、と久しぶりに妻と買い物がてらの散歩に出かけた。1kmほど離れた薬局までたらたらと歩いていって、妻が日用品を買う間に私は近くのスーパーで缶ビールを買った。「ほい」と妻の分のビールを渡すと、「はい、これ」と言って小瓶を差し出した。「これを飲むと二日酔いにならないらしいよ」と薬局の人に勧められたそうで、その言葉を信じて一気に飲み干した。これで安心と、すぐに缶ビールのふたを開けてちびちび飲みながら、帰り道をたらたらと歩いて行ったら、伯母の家の前に出た。「久しぶりに寄っていこう」と、妻と二人なだれ込んでいって、しばらく他愛もない話をしていた。すると伯母が「これまだ見れるかな?」と20年近く前のビデオを出してきた。それは市会議員をやっていた伯父の選挙戦の様子を撮ったもので、親戚やら近所の人ばかりが写っていた。もう懐かしさで胸がいっぱいになり、思わずじっと見入ってしまった。こうなったら止まらなくなるのが私のよくないところで、スーパーで買った缶ビールを3本空けてしまった後は、伯母が出してきてくれたビールを何本も立て続けに飲んでしまった。
 7時近くなって、かなり暗くなってきた頃、一通りビデオを見終わった私たちは伯母の家を出たのだが、どういうわけだか足元がふらついてうまく歩けない。こんなになるまで飲んだつもりはなかったので、どうしたんだろう?と不思議だったが、隣を歩く妻もなんだかふらふらしている。「おかしいなあ・・」と笑いながらも何とか家にたどり着いた私ではあったが、もうその辺りからその夜のことは覚えていない。その後、伯母が従姉妹の運転する車で夕食を食べに行こうと誘いに来たことや、私がビールとラーメンを食べたこと、家にどうやって戻ったのか、などはほとんど覚えていない。ああ・・なんてことだ。
 そのまま居間で寝入ってしまったようで、ふと目が覚めたのが、夜中の3時前・・。少し驚きながら愛犬弁慶に餌をやりに行き、風呂に入ってすぐにまた寝たら、次に目覚めたのは8時半過ぎ。実に12時間近くも寝てしまった。まだビールの酔いは残っているような気がして、どれだけ痛飲したのか昨夜のことを思い出そうとしても記憶がまったく不鮮明で困ってしまった。妻に事情を聞いてみても、「私もよく覚えてないんだよね・・」と二人して途方にくれてしまった・・、情けない。
 いったいどうしてあんなにひどく酔っ払ってしまったのだろう?妻と二人で考えてみた。確かに伯母の家を出るときは、私の前に何本もビールの空き缶があったのは覚えているから、かなりうのペースで飲んだのだろう。だが、それくらいは大して珍しくもない。それなのにどうして歩くことがままならないほどベロベロになってしまったのか?・・・と、そのとき妻が手渡してくれた薬のことを思いだした。二日酔いにならないために飲む薬・・、確か妻はそう言った。それなら飲んだ後にアルコールを分解しやすくさせる効果があるはずだ。それを飲む前に飲んだら、体内に入ってくるアルコールをどんどん分解させ、酔いが早く回る働きをするのではないだろうか。だからこそ、近来稀に見るほど激しい酔い方をしてしまったのではないだろうか・・。同じ薬を妻も飲んで、同じようにへべれけになってしまったのが何よりの証拠のような気がする。

 まあ、そんなものはあくまでも素人の、しかも見苦しいほど泥酔してしまった者の言い訳に過ぎないからまったく当てにはならないけど、やはりアルコールと薬との相乗効果にはちょっと恐ろしいものがある。その点だけは中川大臣の弁明を信じてもいいかなと思っている。(同病相憐れむかな・・)
 

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チョコ

 毎年恒例のバレンタインチョコの自慢記事、今年はちょっとばかり寂しい・・。人気者を自負するほどバカじゃないし、もらったバレンタインチョコの数が人気のバロメーターだとも思っていないが、やっぱりいつもより少ないと気になる。何か悪いことをしたのだろうか?などとわが身を振り返ってみたりしたが、取り立てて人の気持ちを害するようなことはした覚えがない。こうなったら、「皆が私に渡すのをちょっと忘れただけさ」と慰めにもならない言葉で気を紛らすしかない。
 でも、わずかながらも私にチョコをくれた子もいるのだから、お礼の心も込めていつものように写真に撮ってここに載せておく。

 
 

 上の2つは手作り。左は中学生の女の子、右は高校生の女の子がくれた。なかなか上手にできている。私のなど誰かのために作った余り物だろうが、それでももらえればうれしい。下はモロゾフのチョコ。まだ食べていないが、見るからにおいしそう・・。
 だが、今年一番うけたのは、このチョコレート。

 

 ワニを象ったチョコ。背中のデコボコ感や、鋭い歯の見える口など実にリアルだ。チョコだから食べられるのだろうが、食べずにこのまま飾っておきたくなる。(でも、夏になったら溶けてドロドロになるか・・)ワニ以外にもゴリラやカエルの形をしたチョコも売られていたらしいが、これをくれた女子高生にとってはこのワニが一番だったらしい。私のどこかがワニに似ているから、これにしたわけではなさそうなのでちょっとほっとした・・。

 以上4個。確かに毎年と比べれば数は少ない。だが、バレンタインでもらうチョコの数で男の器量が測られる訳でもないから、4つももらえたことを感謝しよう。やっぱり人間、謙虚に生きなきゃね。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「肉体の悪魔」

 NHK・BSで放送された映画「肉体の悪魔」を見た。1947年の作品と言うからもう60年も前の映画だ。そう考えると古色蒼然たる雰囲気の映画のように思えるが、なんと言ってもラディゲの「肉体の悪魔」だ、決して古びてなどいない。16歳の学生と人妻との熱くも儚い恋愛物語は、いくら枯れ始めた私でも心をときめかさずにはいられなかった。
 私はちょうど3年前に小説「肉体の悪魔」についての記事を書いている。読み返してみたが、確かにこのラディゲの小説は10代の私を震撼させた。その後フランス文学へ傾倒していったきっかけを作ってくれた小説であるのだが、そんなことより何より、同じ年頃の人間がこれほどの小説を書き残したことに驚嘆し、その中に描かれたラディゲの考えや感じ方に自分と近しいものをいくつも見つけ、奇妙な符号に戦いたくらいだ。ラディゲは20歳で死んでしまったが、私は50歳になるまで生き続けてきた。だが、どういうわけだか、ラディゲに心を奪われた頃とあまり自分は変わっていないように思う。それは情けないことなのだろうが、もうここまで来ると自分らしくていいや、と開き直るしかない・・。


 だが、映画を見ていて、原作とは違う点がいくつも見られたのは残念だった。原作を忠実に映画化されているのを期待して見始めただけに、正直がっかりした。まず最初に驚いたのは、主人公(小説ではナレーター)の名がフランソワだということだ。私は何回もこの小説を読み返しているが、女性の名がマルトだというのは鮮やかに覚えているが、男の方の名は記憶になかった。私が迂闊だったのかな、と思って本をざっと調べてみたが、「僕」という一人称をもって語られるばかりで、またマルトからは「あなた」「あんた」などという呼びかけられるのみで、名前を呼ばれることはない。何も事情を知らぬマルトの夫が、「僕」と同じ名をつけた息子を心配しながら死んでいったと信じて「妻はあの子の名を呼びながら死んで行きました」と語る場面ですら、具体的に「僕」の名前を挙げられることはない。隅々まで読み返したわけではないので、私が見落としたのかもしれないが、映画を見始めて「フランソワ」という名に違和感を感じたのは、意味のないことではなかったようだ。
 さらには、マルトが死を迎える遠因となった寒い雨の夜、ホテルを探してさ迷い歩いた場面などまったく割愛されて、ただマルトの気分が悪くなりそのまま死んでしまったかのような描き方だったのにはがっかりした。身重のマルトの体をいたわることなく、絶望的な闇の中を徘徊する二人の姿こそが、明日のない二人の恋の行方を象徴しているのに、それがまったく描かれていないのだから、何のために映画化したのかまったく分からなかった。もしラディゲが生きていてこんな結末を見たなら、怒っただろう。これだけで、「マルト役のミシュリーヌ・プレールが可愛くていいなあ」などと思って見ていた印象が無残なものに変わってしまった・・。
 映画化するにあたっては、脚本家がどう原作を解釈したかが如実に反映されるものであろうが、原作の根幹を成すものまでを変えてはならないと思う。そんな換骨奪胎したものを見せられると、原作に惹かれて見る者たちをがっかりさせることになる。そんなことを思わせる映画だった。がっかり・・。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イコン

 映画館でポスターを買った。そんなことは生まれて初めてだ。ちょっと恥ずかしかったが、店員さんに「これ下さい」と言いながらお金を渡したら、簡単に買えた。当たり前のことだが、何せ初めてだからちょっと嬉しかった。


 4種類ある中で背景が真っ赤なのを選んだ。これが一番ふさわしい、と思ったからだ。やはり額に入れたいなと思った。Kaunet のカタログで探してみたところ、横61.cm、縦91.5cm のこのポスターを収めるには、728×1030mmの一番大きなフレームのものを買わなければならない。少々値段は張るが仕方ない。すぐに注文した。
 だが、翌日送られてきたのを見てびっくりした。でかい・・・。たたみ一畳の3分の2以上はあるフレームを抱えて二階の自分の部屋にまで運ぶのは大変だった。床に置いて、包みからポスターを取り出してみた。


 大きなポスターだ。映画館で見つけた時にはさほど感じなかったが、改めて見ると本当に大きい。果たしてこれをうまく収めることができるか?ちょっと心配になった。
 アクリル面に貼られた青い保護膜をはがしてみると、まっさらな状態であるのがよく分かった。アクリル面を触って指紋などの汚れを残してしまわないように注意しながら、丁寧に組み立てていった。
 数分したら、何とか形だけは整った。

   

 今はたんすに立て掛けてあるが、いったいどこに置こうかちょっと迷ってしまう。寝室には同じくらいの大きさの松田優作のポスターが額縁に入れて置いてある。それと並べるのは、なんだか二番煎じのようであまり面白くない。じゃあ、どこに置こうか・・。
 やはりシンビジュウムの鉢が並んでいる部屋に置いておくのが一番かもしれない。深夜家に戻って、風呂に入るまでの短い時間を過ごす部屋だ。そこに置いておけば一日に少なくとも一回は目を向けるだろうから、このところ続けてみた彼の映画を反芻するにはもってこいなのかもしれない。
 
 とは言え、別に心酔しているわけではない。武力闘争を支持するつもりもない。だが、「人間に対する愛と信頼」を象徴するには最高のイコンではないだろうか。
 しばらくはじっと眺めていたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「チェ39歳 別れの手紙」

 「チェ29歳の革命」のエンドロールの後、「チェ39歳 別れの手紙」の短い予告編が流され、キューバを出奔したゲバラがボリビアの山中でゲリラ闘争を行ううちに捕まり、銃殺されてしまうまでが描かれるのを知った。その時、キューバでは革命の英雄と称えられ、国民すべてから敬愛されていたゲバラが、妻や5人の子供、さらにはキューバ政府内での確固たる地位をすべて放擲してまで、ボリビアの解放のために何故闘わねばならなかったのか、少し考えてみた。もちろん簒奪されている人民を救うという革命の大義名分に突き動かされて、とも考えてみたが、それだけで得たものすべてを捨て去ることができるのだろうか、疑いを持った。確かに、ゲバラの理想が私などには理解できない崇高なものであったせいかもしれないが、そうした建前だけの分析では納得できない何かがあるような気がした。ゲバラを突き動かした衝動はいったい何だったのだろう。
 ずっと考え続けていたが、ある時ふっと思いついた。戦場でヒリヒリ肌にまとわり付くような緊張感、生と死のぎりぎりの狭間で綱渡りをする時のような高揚感、さらに言えば、死と背中合わせに生きていくときの恍惚感・・、キューバ革命の戦場で味わったそうした感覚が忘れられず、ゲバラは平和のうちに埋没しかけていく自分に我慢ができなくなったのではないだろうか、そんな邪推が浮かんだのだった。
 私の愛読する「あずみ」には、関が原の戦いで味わった精神的・肉体的高揚感を忘れることができず、今一度戦乱の世が訪れることを願いながら、悪の限りを尽くす、謂わば戦国時代のはぐれ者が繰り返し登場するが、ゲバラもそうした衝動に突き動かされて再び戦場へと戻っていったのではないか、戦士は戦いの場でしか生きていかれないのではないか・・ 、そんなふうに思った。
 だが、そんなものはやはり曲解だった、と「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見ながら思い直した。決して奇麗事ではなく、あの1万キロ以上の南米旅行からゲバラが得たものは、彼のそれまでの人生、そしてそれからの人生を大きく変えたものであったのは、映画を見ていて痛感した。その体験こそが、喘息の発作に苦しみながらも、山中を半ばさ迷い歩くような行軍を支えたのだろうし、キューバで得たものを全てを捨て去らせるほど大きな力を持ったものだったのだろう。それは決して恍惚感とかそんな刹那的なものではないはずだ。では、いったい何だろう?
 この映画は「28歳の革命」と比べると何も明るさがない。ただただゲリラ軍を殲滅しようとする政府軍に追い詰められて、山中を迷走しているゲバラの苦難を映しているだけの映画だ。そのままキューバに残っていればよかったものを、などと思うのはぬるま湯に慣れてしまった私のような者が思うことであって、ゲバラは一歩も後退することはない。だが、交戦中に足を射抜かれた彼はとうとう政府軍に捕らえられてしまう。囚われても革命家としての矜持を失わない彼の姿は心を打つが、処刑されるまで収容されていた建物の中で、彼が若い兵士と交わした短い会話の中にすべてが語られていた。
 キューバのことを尋ねる兵士に短い言葉で答えるゲバラ。
兵士「キューバに宗教はあるか?」
ゲバラ「公式の宗教はないが、人は神を信じている」
兵士「あなたも神を信じるか?」
ゲバラ「私は人を信じる」
 この瞬間、なんてすごい言葉だろうと思った。そういえば、前編では「革命家に必要なものは愛だ」とインタビューに答えていた。「人民を愛し、信じる」これこそがゲバラをどんな苦難にも雄々しく立ち向かわせた源だったのだ。人は己が愛し、信じたものには己の命を捧げることができる・・・。
 もちろんそんなことは誰にでもできるものではない。誰にでもできるものでもないからこそ、今でも世界中でゲバラの名は多くの人から称えられているのだろう。彼の武力闘争が正しいかどうか、それを現代の視点から論じても仕方のないことであろうが、彼を支え続けた人間への愛と信頼は決して忘れてはならないものである。
 ゲバラに関する映画を3本見ただけで彼を理解したとは思わないが、彼が私たちの残そうとしたメッセージのいくつかは受け取れたのではないだろうか・・。
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咲いた!!

 待望久しかったシンビジュウムの花がとうとう開花した!!!!!!毎朝毎晩、今か今かと見つめていたのに、なかなか咲いてくれず、やきもきしっぱなしだった。このブログにも待ちかねた心情を何度か書き込んでいたが、これで胸の痞えが下りたようにすっとした。嬉しい。!!あんまり嬉しいから何枚も写真を撮ってしまった。このブログに貼り付けるとまた一段と重くなってしまうかもしれないが、もういいや、嬉しい気持ちを止めることはできない。
 まずは一昨日、やっとほころびかけた花弁。ほんの少しだけ中が見える。

  


 次は昨日、だいぶ開いた花弁。毎年見るのと同じ色だが、いつもにも増して可憐に見える。実にかわいい・・。


 


 本当に時間がかかった。いつもは春が過ぎた頃からおもむろに芽が出始めるため、屋外に鉢を出してしまった後で、こんなにもじっと観察し続けたことはなかった。だから余計待ちくたびれた気がするのだろう。今までだったら、「あっ、芽が出た」「大きくなった」「花が咲いた」くらいの間遠でしか、シンビジュウムを見たことがなかったから、開花までこれほど時間がかかるとは思ってもみなかった。ゆっくりゆっくり、だが確実に成長していって、やっと蕾から花弁が姿を現した。嬉しい。
 
 遡って、開花寸前まで膨らんだ3日前の鉢の様子。この写真を見ていたら、昔娘を産み落とす寸前のパンパンに張り切った妻のお腹を思い出した・・。

 

 今年のシンビジュウムは不思議だ。花芽が次々に出て来る。数えてみたら、7鉢中5鉢に花芽が出ている。そのうちの1鉢には3本の花芽、3鉢には2本の花芽が出ている。問題はいつ頃花の咲いた茎を切るかということだが、今すぐというわけでもないだろう。もうちょっと調べてみて、シンビジュウムに一番よい時期に切ることにしよう。
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「モーターサイクル・ダイアリーズ」

 NHK・BShiで放送された「モーターサイクル・ダイアリーズ」を録画して見た。若き日のゲバラ(23才)が友人と二人バイクに乗って南米大陸を縦断したときの旅行記をもとに映画化したものだが、「チェ 28歳の革命」を見たばかりの私としては、医学生・エルネスト・ゲバラが革命家チェ・ゲバラへと変貌するきっかけを与えた旅をドキュメント風に見られたことは、大変意義深いことだった。どうしてゲバラが民衆のためにあれほどまで過酷な闘争を繰り広げたのか、彼を突き動かした衝動の源となった旅を少しばかり追体験できたように思う。
 この映画のストーリーは・・、

 23歳の裕福な医学生エルネストは親友アルベルトとともにおんぼろバイクに乗って南米大陸探検の未知への旅に出る。それは、好奇心のままに10,000キロを走破する無鉄砲な計画だった。アンデス山脈を抜け、チリの海岸線に沿って進み、アカタマ砂漠を通ってペルーのアマゾン上流へと。
 旅の途中には、彼らにとって未知の姿のラテン・アメリカとの出会いが待っていた。政治的信念を持ったがために土地を奪われた夫婦との出会い。インカ帝国の栄光と現代のまとまりのない都市風景とのコントラスト。隔離医療施設に閉じ込められた人々とのふれあい。ついにベネズエラに着いた時、ふたりが旅した距離はキロ単位でははかれないまでになっていた。ラテン・アメリカ深部への旅は彼らの生涯の最初の揺らぎ、生涯変わらぬ情熱と原動力となる。
 運命の軌跡、自我の確立、一個人がアイデンティティとこの世界における居場所を見つける旅、それはまた、私たちにラテン・アメリカのアイデンティティの軌跡をも見せてくれる。
 
 などとコンパクトに要約された文を引用してみると、なるほどそうだったのか、と思い返すことも多いが、実際に見ている間には、何もそんな気宇壮大さは感じられず、若い二人が悪戦苦闘しながらも少しずつ成長していく様を淡々と描いている静かな映画だと思った。ただ、日を重ねる毎に彼らの人間的な広がりが増していくのがじわりと感じられて、心の奥底に少しずつ感動が積み重なっていく、そんな深い味わいのある映画だった。
 
  

 この映画の中の医学生エルネストと、武力革命家・ゲバラとの距離はまだかなりあるように思う。旅の途中で使い物にならなくなったバイクを捨てて、徒歩やヒッチハイクで旅を続けるようになってからは、土地の人々との交流も多くなり、彼らの厳しい生活状況を肌身で知ることになる。旅の果てにたどり着いたハンセン病患者の治療施設で献身的に働く彼の姿は胸を打つ。他人の苦しみや悲しみを己の身に起こることとして感じ取れるからこそ、そうした親身な医療行為もできるのであろう。それには彼自身、喘息の発作に苦しむという背景があるのだろうが、それだけではなく、人を思いやる心を彼が持っているからだろう。
 旅が終わり、アルベルトに別れを告げる時に、ゲバラは「この旅で自分の中に生じたものが何であるかを突き止めなければならない」と言うが、それを検証し終えた結果が、キューバ革命への参加であり、「祖国か、死か!」という激烈なアジテーションだったのだろうか。だが、何故そこまで先鋭化していったのか、安穏な日常を送っている私にはイマイチ分からない。分からないのが幸せな証拠かもしれないが、分からなければいけないような気もする。
 
 私は近々、「チェ39歳 別れの手紙」も見に行く予定だが、この「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見てよかったと思う。この旅の体験があったからこそ、革命家チェ・ゲバラが生まれたのだろうし、彼の行動を支える原動力の核が何であったかが朧げながらも分かったような気がするから。だが、ゲバラの映画を間をあまりおかずに続けて見たことによって、一人の人間としてのゲバラにかなりの魅力を感じるようになった私が、ゲバラが銃殺される場面を正視することができるだろうか?それとも、己を射殺しようとする兵士に向かって「ちゃんと狙って撃て」と言ったといわれる彼の最期は映されていないのだろうか・・。
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マウス

 新しいマウスを買った。


 ELECOM の光学式マウス、と言えばなんだか高級品のように見えるが、コクヨの通販・カウネットで1,380円で買ったものだ。小ぶりで掌の中にすっぽり入って扱いやすい。今までマウスがなかなか長持ちしてくれず、このPCを使い始めて6年近くになるが、これが4つ目になる。私の使い方が悪いのかどうなのか、気がつくと不調になっていることが多く、それでも我慢して使って、限界に達したら已む無く買い換えたりしてきたが、今回ももうこれ以上使っていられないと思い切るまで使った上での買い替えだ。安い割には動きも俊敏で、今のところは満足している。少しでも長く持ってくれればいいが・・。
 最初のマウスは、このPCがノートなので、動きやすいようにと無線式のものを使っていた。だが、内臓する乾電池の消費が早く、すぐに交換しなければならなかったので、電池にお金を使うくらいなら線の付いた普通のマウスを買えばいい、と2年くらい使ったある日思い立って ASKUL で注文した。下の写真の黒いマウスだ(手垢で汚い・・)


 これはなかなか気に入って3年以上使ったが、徐々に動きが悪くなってきて、あれこれ掃除をしてみたりしたがとうとう動かなくなってしまった。その時に何をケチったのか、妻の使い古したマウス(上の写真の白い方)を借りたら、案外うまく動いたのでずっとそれを使ってきた。だが、それも数ヶ月が過ぎたら、中に組み込まれたボールがうまく回らなくなって、画面上の矢印を自分の動かしたい所へ動かすのが困難になってきた。それでもキーボードの下にある、マウスの代わりをする場所(何て呼ぶんだろう?)を左手の指で操作して矢印を動かし、クリックは右手で持ったマウスでする、というダブルハンドで長く使ってきた。やり慣れるとそれでもあまり苦にならなかったが、やっぱりすばやい動きはできない。チェッと舌打ちすることも多くなってきたので、一昨日他の事務用品を注文しようとカタログを見ていた時に、ふっと「マウス!!」と頭に浮かんできた。なるべく安いものを探していたら、この ELECOM の製品がよさそうに見えたので、注文してみた。
 私は機械のことはまったく詳しくないが、値段が高ければいい、とは一概に言えないと思うようになってきた。もちろん高ければそれなりに性能はいいのだろうが、使わない機能がいくらあったところで何の役にも立たない。このところの不況で家電業界もかなり厳しい状況に陥っているようだが、やたら新しい性能を追求する姿勢をそろそろ改める時期ではないだろうか・・、などと門外漢の私は思ってしまう。新しい性能をつければ、それが付加価値となってモノが売れる、そんな企業の姿勢を見つめ直すには、今はいいチャンスではないだろうか・・。暗い話題ばかりで出口が見えない昨今、ピンチをチャンスに変えるくらいの発想が何よりも必要だろうと思う。
 
 この新しいマウスは右と左と真ん中、の3点式で動かせるだけだが、もうそれ以上は何もいらない。あったところで使いこなせないのだから不必要だ。虚飾とまでは言わないが、たぶんあまり役に立たない機能をためらわずに削っていけばずいぶん楽になれるだろう。それは機械だけでなく、組織にも言えるだろうし、一人の人間いついてもいえるだろう・・。

 

 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

更新料

 毎年今頃、娘が住んでいる京都の賃貸マンションの管理会社から、契約を更新するかどうか書類が届く。娘は引っ越す気などないから、更新することになるが、その際家賃の3ヵ月分を更新料として払わねばならない。大学入学時からずっと同じマンションに住んでいるから、これで5回目の更新となる。通知が来るたびに、「何でこんな金額を払わなくちゃいけないんだろう」と腹が立つが、払わなければ追い出される。仕方なく払ってきたが、まったくもって妙なしきたりだ。少し前に京都のこの更新料システムに疑念を持った人が訴訟を起こした。「勝訴したら更新料を払わなくてもよくなるかも」と大いに期待したが、あえなく敗訴してしまい、更新料システムが法の後ろ盾を得たことになって文句など一切言えなくなってしまった。それでも、「やっぱり3ヶ月はとりすぎだよな」と今年も送られてきた通知を見ては、長嘆息してしまった・・。
 東京に住んでいる息子のアパートは2年契約で、昨年は更新料を払わなかった。それだけでも京都との違いが明らかだった。今年の3月で契約が切れるので、更新の案内が送られてきたが、契約を更新するのに必要なのは1か月分の家賃だけでいいと言う。これを知ったらどうしたって京都と比べてしまった。京都で大学4年間、同じ所に済むとしたなら3回更新料を払わなければならない。しかも、家賃の3か月分(もちろんどこでも一律に3か月分じゃないだろうが・・)を払わねばならないから、3×3=9か月分の家賃が12×4=48か月分の家賃に上乗せされることになり、合計57ヶ月分の家賃を払うこととなる。
 一方東京で4年間暮らすのなら、48か月分の家賃+更新料の1か月分=49ヶ月分の家賃を払うだけでいいから、その差は57-49=8か月分であり、7万円の家賃とすると7×8=56万円京都の方が余計にかかることになる。確かに同じ家賃で比べれば、京都の方が1ランクか2ランク上の所に住めるような気がするが、とりあえず金額面だけ考えたら、こんなにも差ができてしまう。う~~~ん、どう考えても納得がいかない・・・。
 私が京都に住んでいた頃には更新料というシステムはなかったように思う。払った記憶もないし、母からもそんな話を聞いた記憶もない。家賃は管理人さんに直接払っていたように思うから、もし更新料が必要だったら、私も覚えているはずだ。当時の家賃自体が、今の娘の家賃と比べれば3分の1か4分の1だったから、更新料があったとしても、さほどの金額ではなかったかもしれないが、それでもまったく記憶がないからやはり更新料など必要なかったのではないだろうか。ならいつ頃からそんなものができてしまったのだろう?

 更新料だけを考えれば、京都の方がお金がかかるようにも思えるが、なんと言っても京都は狭い。自転車一台あれば市内の主だった所には行ける。事実娘はもっぱら自転車で移動しているし、雨や冬の寒ささえ我慢できれば一番の移動手段は自転車だ。一方、息子は電車で大学まで通っている。自転車を持っていっているので、時々は自転車で行くこともあるようだが、主な移動手段は電車だと聞いている。そうすると、京都で交通費はほぼゼロであるのに対して、東京で暮らすにはある程度の交通費を勘定に入れなければならない。その他にも東京で暮らすほうが出費が多そうなので、合計すればさほどの違いはなくなってしまうかもしれない。
 私の家では、娘と息子に同じ金額の仕送りしかしていないので、どうやりくりしているかは本人たち次第だ。ただ、更新料は親が工面しなければならないものだと思っているので、更新の通知が来る度にブーブー言いながらも払ってきた。だが、娘はあと一年で卒業だし、息子も2年経てば卒業できるはずだ。すると、更新料などという腑に落ちないものを払うのは今年で最後と言うことになる。ちょっと嬉しい気がする。まあ、娘には今年が5回目の更新だったから、もういやというほど払わせて頂いたわけだけど・・。
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喜寿

 昨日は父の喜寿のお祝いをした。昭和8年生まれだから数えで77歳、「喜」の字を草書体で書くと「十七」の上に「七」がついたような文字で七十七に見えることから、77歳の祝いを喜寿と呼ぶようになった、などと豆知識を仕入れて披露しようかな、と思ったりしていたが、お祝いに集まったメンバーの喧騒にまぎれてしまえばそんな暇などない。妹家族、弟家族、妻の母、伯母、そして私の娘と総勢16名ほどで母の20回忌の時に食事をした料亭に出かけた。ただ、息子だけは試験などで東京を離れることができないため出席できず、その代わりにお祝いの電報を送ってくれた。


 片岡鶴太郎が描いた鯛が表紙となっている電報。文面も祖父の喜寿を祝う気持ちがにじみ出ていて、読む者の目頭を熱くさせるものだった。「泣けるわ・・」と父が言い、「成人するとやっぱり違うねえ」と伯母が涙をぬぐっていたが、私も思わずぐっと来た。もうこれだけで十分・・。

 会場に着き、父の短い謝辞の後、乾杯したらもうぐちゃぐちゃ・・。運び込まれたカラオケセットで父がずっと十八番を披露し、その間隙をぬって他の者が歌う、そんな感じで緩やかに時間が過ぎていく。

 

 父のワンマンショーとなることは始めから分かっていたが、これだけのパワーがあるのは喜ばしいことだ。ほとんどマイクを独り占めにして、何度も何度も同じ歌を繰り返す。それでも歌うたびに音程が合ってきて、聞くに堪えうるようになったのは面白かった。私も久しぶりにマイクを握って一曲歌ったのは、父の健やかなることを寿ぐ思いの表れってことにしておこう・・。

 そう言えば、庭に福寿草が咲き始めたのを見つけた。


 父の喜寿を祝うための亡き母からの祝いのようで、嬉しかった。

 次は米寿の祝いだ。それまで11年、元気でいてもらいたいものだ。
 
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前ページ 次ページ »