じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

映画「AKIRA」

2018-07-08 22:39:09 | Weblog
☆ 今さらながら映画「AKIRA」(1988年)を観た。

☆ 劇場公開が1988年で、それから31年後、2019年の東京が描かれているから、近未来の作品が現在になりつつある。

☆ 現実は幸運にして「新型爆弾」の爆発もなければ第三次世界大戦もなく、ネオ東京の復興や政府軍とゲリラとの対立もない。2020年に東京でオリンピックが開かれるというのは、偶然とはいえ予言的中というところか。

☆ ストーリーは、第三次世界大戦後の旧市街での暴走族の構想や軍のクーデター、超能力を持った新人類を描いている。「マッドマックス」や「バイオハザード」などにも通じるものがあるように思った。

☆ スケールの大きな物語だったが、私には少し難解だった。
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長谷川平蔵登場

2018-07-08 19:08:44 | Weblog
☆ 池波正太郎「鬼平犯科帳」(文春文庫)から「唖の十蔵」を読んだ。

☆ 初めて池波正太郎さんの小説を読んだが、軽妙な語り口だ。

☆ 「鬼平犯科帳」と言えばテレビシリーズが印象に残っている。丹波哲郎さん、萬屋錦之介さんの作品も見たが、やはり中村吉右衛門さんのが好きだ。「鬼」とあだ名されるお頭だが、人情味も豊かだ。エンディング、江戸の四季の風情とジプシー・キングスのギター演奏「インスピレーション」の組み合わせが実に心地よい。雪の降る日の蕎麦(うどんかな)はおいしそうだ。

☆ 娯楽として読むには、量もちょうど良い感じだ。
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石原千秋「漱石と三人の読者」

2018-07-08 13:25:47 | Weblog
漱石と三人の読者 (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社


☆ 文学に関する新書などほとんど読まない。今回もある大学の入試問題で本作の一部が引用されていたので読み始めたのだが、読み始めると実に面白かった。昼食をとるのも忘れて読み終えた。

☆ 目次は、

  はじめに
  第1章 夏目漱石という文化 
  第2章 小説と格闘した時代
  第3章 英文学者夏目漱石と小説
  第4章 「虞美人草」の失敗
  第5章 「三四郎」と三人目の読者
  第6章 「こゝろ」と迷子になった読者
  第7章 まだ見ぬ読者へ
  あとがき

☆ 夏目漱石と言えば、「文豪」「国民作家」の肩書がつけられるが、現代ではあまり読まれていないように思う。著者が書いているように「こゝろ」の一部は高校の教科書に掲載されているし、「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」については、冒頭の数行ぐらいは心得ている。ただ「こゝろ」にしても「吾輩は猫である」にしてもその本の分厚さにまず圧倒されて、なかなか踏み込めない。

☆ 他の作品に至っては、文学史のテスト用に前期三部作、後期三部作をそらんじる程度だ。

☆ 明治時代の空気や明治人の気骨、とりわけエリートの苦悩がわからないのだから、致し方ないとも思えるのだが、本書を読むと一度腰を据えて読んでみようかなという誘惑にかられる。

☆ 私が面白かったのは、第2章の「小説と格闘した時代」と第5章の「『三四郎』と三人目の読者」だ。第2章では漱石が処女作を執筆した時代の文壇の空気が伝わってくるし、第5章は挿絵まで入っていて、とてもミステリアスな内容になっている。

☆ 小説をどう読むかは、もとより読者に委ねられている。研究者が深い読みの味わいに浸れるのは実にうらやましい。本書はその味わいのおすそ分けというところだろうか。

☆ 夏目漱石が作品に仕組んだ数々の仕掛け(意図的であれ、作家漱石からにじみ出た無意識の所作であれ)には驚き、感心した。美味を享受するには、舌を鍛える必要がありそうだ。
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「オウムを生んだ社会は今」

2018-07-08 09:47:42 | Weblog
☆ 朝日新聞「文化・文芸」欄、「オウムを生んだ社会は今」と題して、大澤真幸氏の寄稿と宮台真司氏のインタビュー記事を載せている。

☆ 大澤氏の寄稿は「『虚構の時代』困難より深く」と見出しがつけられている。大澤氏は日本の戦後史を理想の時代から虚構の時代へと変化してきたと考える。理想の時代が1970年代初頭で終焉し、虚構に耽溺する時代が到来し、その極限の指標としてオウムを見出す。理想の枯渇を破壊という悪魔的魅力で埋め合わせ、「戦争ごっこ」へと駆り立てたと。しかしその実は、教祖への帰依であり、教祖の夢の中に生きていたのだと。最後に現代の日本社会を分析し、将来の破局への危惧で結んでいる。

☆ 宮台氏は、オウム事件の出発点を「まじめな若者の生きづらさ」に見出す。「オウムは、社会的な達成で埋め合わされない実存的不全感を、宗教によって埋め合わせ、まじめな若者を引きつけた。単なる生きづらさを『ハルマゲドン』に象徴される『世界変革』で解消しようとした」とする。そしてその内実は、教団内の地位争いであったり、教祖に気に入られるための「忖度」であったという。最後はこうした構造と今日の社会構造の相似性を指摘し、「社会全体がオウム的になっている」としている。


☆ 結局は日常の現実生活で満たされない「何か」を教祖への帰依(愛着、評価される快感)や集団への貢献(あるいは教団内での地位)による生きがいに求めたのだろう。それがたまたま政治への参加であったり、犯罪行為であったり、テロ活動だったのかも知れない。

☆ ナチスでユダヤ人虐殺に加担したアイヒマンの心情とも共通性しているのではなかろうか。そして誰の心の中にもこの指向性(不安定な存在への不安と絶対への思慕、自己充足感の追求)はあるのかも知れない。ベクトルがどちらに向くか、その違いだけなのかも知れない。
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