皆様方も、全ての動植物や食物、そして人間にはなぜ名前があるのだろうか、と、お考えになられたことがあるかも知れません。偉大な創造者エホバ神は宇宙を創造し、人が住むために地球を秩序正しく創造し、地上に全てを創造し、環境を整えた後、「エデンの園」に人間を「神の像(かたち)」に創造してくださいました(イザヤ45:18.創世記1:26,27;2:7,15)。そして、最初の人アダムに、神エホバの創造物に名前を付けて呼ぶようにされました(創世記2:20)。最初の人間に「アダム」と名付けたのは神エホバで、アダムの妻に「エバ」の名前を付けて呼んだのがアダムです(創世記3:17,20)。アダムとエバの子供たちに名前を付けたのはアダムとエバの両親です(創世記4:1,2)。このようにして、人間は子供たちに名前を付けて呼ぶ様になり、今日に至りました。しかも、子供の名前を付けるときは、親は、将来どのような子供になって欲しいかを熟考し、意味を考えて名前を付け登記します。それほど、人名が大切なのは、神エホバのお名前の意味に由来しているためと考えられます。
先回に引き続き、神エホバのお名前の意味についてお伝え致します。神エホバのお名前の意味は、民にとって確信になったに違いありません。今日の私たちにとって同じです(詩編9:10)。
例えで考えてみましょう。親は、子供を育ててゆくに当たって、いかに多様な務めを果たし、知恵を働かせ柔軟に適応力を発揮すべきかを知っています。親はほんの1日のうちに、看護人、コック、教師、しつけ係、金銭管理、家のメンテナンスの仕方、仕事の進め方、裁判官など、さまざまな役割をこなさなければなりません。求められる役割があまりに多岐にわたるので、気が遠くなる、と言う人もいるほどです。親は、幼い子供から絶対の信頼を寄せられていることを感じます。両親は痛みを和らげてくれ、子供同士のどんなけんかも治め、壊れたおもちゃも直し、次々に浮かんでくる質問にはみんな答えてくれる、という親への絶大な信頼です。親の中には、限界を感じて自信を失う人や、時に子育てに挫折感を抱く人もいます。親の役割の多くを果たす点で自分は情けないほど資格がないと感じてしまうのです。
神エホバも愛のある親のお父さんです。しかし、神エホバは、地上にいる自分の子供である人間に最善の世話をするために、ご自分の完全な基準の枠内で何にでもなることができます。ですから、私たちは、神のみ名エホバを思い巡らすとき、神エホバを、想像しえる最良の父親と考えます(ヤコブ1:17)。モーセ及び、他の全ての忠実な人々はやがて、エホバがまさにそのお名前の通りの方であることを体得することになりました。神エホバがご自身を、無敵の軍司令官、自然界のあらゆる力の統御者とならせる様子を、また比類のない律法者、裁き主、建築者、食物と水の供給者、衣服や履物の維持者など、様々な者とならせる様子を、畏怖の念を覚えつつ目撃したのです(出エジプト記参照)。
このように神エホバは、ご自分の固有の名エホバを知らせ、その意味を説明し、さらにご自分がその名の意味するとおりの方であることを実証して来られました。明らかに神エホバは、私たちがご自分を知ることを望んでおられます。では、私たちはどうこたえ応じるでしょうか。モーセは神エホバを知りたいと願いました。その熱烈な願いがモーセの生涯の歩み形造り、天の父エホバに非常に親しく近づくよう、モーセを導きました(民数記12:6,8.ヘブライ11:27)。残念ながら、モーセと同時代の人の多くは、同様の願いを抱きませんでした。エジプトのごう慢な王ファラオは、モーセがエホバの名を述べると、「エホバが何者だというのか」と言い返しました(出エジプト記5:2)。ファラオは、神エホバについて、もっと知りたいとは思わなかったのです。それどころか、その神エホバを、取るに足りないもの、もしくは無用のものとして、あざけりを込め退けました。そうした見方は、残念なことにいたって一般的です。そのために人々は、最も重要な真理、つまり神エホバが主権者なる主であるという真理に対して盲目になっています。キリスト教世界でも、聖書の教えにないマリアを崇拝させたり、イエスを神にしたりし、大きな誤りを犯しています。
次回は、「主権者なる主エホバ」という、重要な真理についてお伝えします。引き続きお読み下されば幸いです。
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どこからか 庭に舞い帰し アゲハ蝶 今日の一句
道辺の「シュロウの花」