近くの道辺にニワゼキショウが咲いています。
小さな山野草ですが、可愛い花です。
この花は北アメリカ東部原産の多年草ですが、明示中期に渡来し
野生化した花だそうです。花は1日でしぼみます。
花期は4月~6月です。
今日はニワゼキショウと春のバラ(その11)を紹介致します。
近くの道辺に咲いている「ニワゼキショウ」
バラの愛好家の鉢植えの「春のバラ(その11)」
近くの道辺にニワゼキショウが咲いています。
小さな山野草ですが、可愛い花です。
この花は北アメリカ東部原産の多年草ですが、明示中期に渡来し
野生化した花だそうです。花は1日でしぼみます。
花期は4月~6月です。
今日はニワゼキショウと春のバラ(その11)を紹介致します。
近くの道辺に咲いている「ニワゼキショウ」
バラの愛好家の鉢植えの「春のバラ(その11)」
み言葉の真理は私たちを真の自由に導きます(ヨハネ8:32)。真理に基づく真の自由は、この事物の体制の終わりの時の対処しにくい危機の時代に生活していても、確固とした人生を歩むことができるでしょう(テモテ第二3:1~5)。引き続き紹介する私たちの神は、「主権者なる主エホバ」であることを理解してゆくなら、その真理が、あなたを一層神エホバに近づく助けになり、日々が平安と義に満たされるでしょう(サムエル第二7:22.ヤコブ4:8.イザヤ48:17,18)。
神エホバだけに当てはまる別の称号は、「としえの王」です(テモテ第一1:17.啓示15:3)。この称号にはどんな意味があるでしょうか。能力の限界のある私たちには理解しがたいことですが(エレミヤ10:23)、神エホバは、過去と将来のどちらの方向においてもとこしえの存在です。聖書の詩編90編2節には、「定めのない時から定めのない時に至るまで、あなたは神(エホバ)です」と記されています。ですから、神エホバには始まりがなく、その方が宇宙を創造し、地球を創造されました(創世記1:1)。神エホバは常に存在し、その方のご意志によって私たちの命は存在しています(啓示4:11)。まさに、神エホバは「日を経た方」と呼ぶことができます。宇宙の他のだれも、いかなるものも誕生する以前、とこしえの過去から存在しておられるのです(ダニエル7:9,13,22)。神エホバの主権者なる主としての権利に正当な異議を唱える者が、どこにいるでしょうか。
ところが、かってのエジプトのファラオのように、その権利に異議を唱える人がいます。それは、一つには、不完全な人間が自分の目に見える物事に重きを置きすぎるからです。私たちは主権者なる主エホバを見ることができません。その方エホバは霊者であり、人間の目には見えないのです(ヨハネ4:24)。それどころか、生身の人間も、もしも神エホバのすぐそばに立つようなことがあるなら死んでしまうでしょう。神エホバご自身、モーセに対して、「あなたはわたし(エホバ)の顔を見ることができない。人はわたしを見てなお生きることは出来ないからである」と述べられました(出エジプト記33:20.ヨハネ1:18)。
これは驚くに当たりません。モーセが見ることができたのは神エホバの栄光のほんの一部であり、神エホバを代表するひとりのみ使いを介して見たものと思われます。しかし、その結果どうなったでしょうか。モーセの顔は、その後しばらくの間、「光を放って」おり、イスラエル人は恐れて、モーセの顔をまともに見ることは出来ませんでした(出エジプト記33:21~23;34:5~7、29,30)。ですから、単なる人間はだれも、栄光に満ちた主権者なる主エホバを直接見ることができないのです。では、神エホバは、私たちが見たり触れたりできるものよりも現実性のない存在であるということでしょうか。そうではありません。私たちは、風、電波、重力、思考など、目に見えない多くのものを、現実のものとしてためらいなく受け入れています。しかも、神エホバは永久不変であり、幾百幾千億年といった途方もない時の流れにも影響されないのです。その点からすると神エホバは、私たちが触れたり見たりできるいかなるものよりもはるかに現実の存在であると言えます。物質界のものは時間の経過とともに朽ちて行く性質を持っているからです(マタイ6:19)。とはいえ、神エホバを、単なる抽象的な非人格の力、あるいは漠然とした「第一原因」とみなせばよいのでしょうか。考えてみましょう。
次回は、私たちの神エホバは、「人格特性を持つ神」であることをお伝え致します。引き続きお読み下されば嬉しく存じます。
危ないよ 車道ぴょんぴょん 雨蛙 今日の一句
庭に咲いている小雨の中の「ミニバラ」