マリーゴールドの花は黄橙色の鮮やかさが印象的です。
愛好家も多く、あちこちで見ることができます。
花期は花図鑑では6月~10月と紹介されています。
用途は切り花、鉢植え、花壇です。
花言葉は「濃厚な愛情」と紹介されています。
今日はマリーゴールドと春のバラ(その21)を紹介致します。
印象に残る「マリーゴールド」
バラの愛好家の「春のバラ(その21)」
マリーゴールドの花は黄橙色の鮮やかさが印象的です。
愛好家も多く、あちこちで見ることができます。
花期は花図鑑では6月~10月と紹介されています。
用途は切り花、鉢植え、花壇です。
花言葉は「濃厚な愛情」と紹介されています。
今日はマリーゴールドと春のバラ(その21)を紹介致します。
印象に残る「マリーゴールド」
バラの愛好家の「春のバラ(その21)」
私たち人間を男性も女性も「神の像(かたち)」に創造してくださった偉大な創造者エホバ神は最も聖なる神です(創世記1:26,27)。神聖さは神エホバに近づかずにはいられない強力な理由です。今日は神エホバの「神聖さとは何か」についてお伝え致します。
偉大な創造者エホバ神は、聖なる方だからといって、神エホバは独りよがりなわけでも、ごう慢であったり、他の者を軽んじたりするわけではありません。それどころか、神エホバはそれらの特質を憎んでおられます(箴言16:5.ヤコブ4:6)。では、「聖なる」という語は実際には何を意味するのでしょうか。聖書のヘブライ語において、その後は、「分離」という意味の語に由来しています。神エホバへの崇拝おいて、「聖なる」という語は、通常の使用から分離されたもの、つまり神聖とみなされたものを指して用いられています。さらに神聖さは、、清さ、また清浄という考えを強く示唆しています。では、この語は、どのように当てはまるのでしょうか。不完全な人間から「分離」していて、私たちから遠く離れている、という意味でしょうか。
決してそうであはありません。「イスラエルの聖なる方」であるエホバは、ご自分の民の「中に」あるいは「うちに」住むと述べておられます。民が罪深いのに、そうなさるのです(イザヤ12:6.ホセア11:9)。ですから、聖なる方であっても、遠い存在ではありません。では、どのように「分離」しておられるのでしょうか。二つの重要な点においてです。第一に、唯一の至高者であるゆえに、全ての創造物から分離しています。神エホバの清浄さ、つまり清さは、絶対的なものであり、計り知れません(詩編40:5;83:18)。第二に、神エホバは、あらゆる罪深さから完全に分離しています。このように考えると心強く感じます。なぜでしょうか。
私たちは、真の神聖さがほとんど見られない世界で生活しています。神エホバから疎外されている人間社会は、あらゆる面で何らかの汚染を受け、罪と不完全さに染まっています。私たちは皆、自分の内にある罪と戦わねばならず、警戒を怠るなら罪に打ち負かされる危険がありますローマ7:15~25.コリント第一10:12)。神エホバにはそのような危険はありません。罪深さから全く離れておられるので、ほんのわずかな罪に染まることさえありません。このことから私たちは、神エホバが理想的な父であることを改めて実感します。神エホバは全く頼れる方なのです。多くの罪深い人間の父親たちとは違い、神エホバは堕落することも、放縦することも、だれかを虐待することも決してありません。神聖さのゆえに、そのようなことは断じてありません。神エホバは、ご自分の神聖さにかけて誓いを立てられたことさえあります。信頼性の点で、それに勝るものは無いからです(アモス4:2)。その事を考えると、私たちはいっそう神エホバに近づきたい、という気持ちが強くなるのではないでしょうか。
神聖さは、神エホバの性質そのものに固有するものです。それは、どういう意味でしょうか。例えとして、「人間」と「不完全」という語について考えてください。後者に言及することなく、前者を説明することは出来ません。不完全さは深く浸透し、わたしたちのすることすべてに染みついています。では、それとは全く異なる二つの語、「エホバ」と「神聖」について考えてください。神聖さは神エホバにみなぎっています。神エホバは、すべての面において清く、清浄、廉直です。この「神聖」さという奥深い言葉の意味を把握しない限り、神エホバの真の姿を知ることは出来ません。
次回は「神聖さはエホバのもの」という内容でお伝え致します。引き続きお読み下されば嬉しく存じます。
爽やかや 日光街道 青葉かな 今日の一句
鉢植えの「ハイビスカス」