イエス・キリストに対し、祭司長と書士たちが、少年がイエスに「救いたまえ、ダビデの子を!」と叫んでいるのを憤慨し、抗議をしました。しかし、イエスは温和な霊を持って、み言葉聖書の詩編8編2節を適用し、彼らに教え、その場を去りました。そうしたイエスの残された模範の手本は、私たちが見倣うべき手本です(ペテロ第一2:21)。次いでイエスは、いちじくの木が実を結んでいないのを見た時、いちじくの木に「永久に実が出ないように」と、命じるといちじくの木は「たちどころに枯れた」ことがマタイの福音書に記録されています(マタイ21:19)。このことを通してイエスは「信仰を抱いて祈り求めるものすべてを受ける」ことを、弟子たちに保証された場面を次のように記しています(マタイ21:22)。
「朝早く市(エルサレム)に戻って行く途中、イエスは飢えを覚えられた。そして、道路のそばにある一本のいちじくの木を見つけて、そのもとに行かれたが、それにはただの葉のほかには何も見あたらなかった。それで、「もうお前からは永久に実が出ないように」と言われた。すると、そのいちじくの木はたちどころに枯れてしまった。しかし、弟子たちはこれを見て不思議に思い、「いちじくの木がたちどころに枯れたのはどうしてですか」と言った。イエスは答えて言われた、「あなた方に真実に言いますが、ただ信仰を抱いて疑うことさえないなら、あなた方は、わたしがこのいちじくの木に行ったようなことができるだけでなく、この山に、「持ち上がって、海に落ちよ」と言ったとしても、そのこともまた起きるのです。そしてあなた方は、信仰を抱いて祈り求めるものすべてを受けるのです」(マタイ21:18~22)。
いちじくの木は本来6月にならなければ、実を結ぶいちじくの季節にはなりません。上記のイエスがエルサレムに向かっている時は3月でした。しかし、いちじくの木は早くから葉をつけていましたが、葉は見せかけで、いちじくの実はありませんでした。れでイエスは、そのいちじくの木に「永久に実が出ないように」と命じると、いちじくの木は「たちどころに枯れた」のです。イエスがそうされたことの意義がありました。いちじくの木の葉のように、良い実を結ばない見せかけは、当時の偽りの宗教指導者たちの祭司長と書士たちを表していました。彼らは矯正のしょうもない者でした。後にそのことが明らかになります。彼らは実を結ぶことがないことを明らかにしていました。一方イエスの真の弟子たちは、信仰を抱き祈り忠実を保つ、つまり小麦が多くの穀粒を生み出すように行動するゆえに「すべてを受ける」、つまり永遠の命を受ける保証を与えられました。加えて全き信仰は、山のように大きな問題も解決できることを教えられ、全き信仰の重要性を銘記されました。
奉仕する 背に汗にじむ 日々となる 今日の一句
庭に咲いている「花」