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「赦す」ことについて考えました

昨日居場所で第3者委員会の人たちとの懇談会があると聞いたので参加しました。
メンバーが7,8人集まって第3者委員会の人3人と話し合いました。
メンバーはみんなここは良い所だ感謝している仲間が助け合っていると話した。僕だけ不満を話した。
話し合いの後で第3者委員の人たちが僕に聞き取りしてくれたので僕は正直に話した。
委員の人たちはうなずいて僕の話に驚いていた場面もあった。
終わって僕は何とも嫌な気分に成った。僕だけ孤立していると感じた。いわゆる内部告発をした後の複雑な気持ちなのだと思う。そして嫌だった2か月前の出来事を思い出してしまった。

今日は疲れて寝坊した。さらに布団から起き上がるまでに1時間かかった。午前中は部屋に居て昼ごはんを食べに居場所に行った。
ベテランさんに話したら相手の人は気にしていないよと話してくれた。確かに相手は気にしていないのだろう。僕が気にしているのだ。

1人住居に帰り部屋でコーラ飲みながらメジャーリーグを観てそれから風呂に入って考えた。「赦す」しかないな。僕は疲れた。
「許す」のではない.。
個別の嫌だった出来事を無かったことにするだけ。
イエスさまのお名前のもとで赦す、赦される。
みんなも僕も弱い、ずるい人間なのだからと。
でもそれは相手と距離をとるということ。仲良くは成らないのだろう。

聖書に「だれの罪でも、あなた(がた)が赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなた(がた)が赦さなければ、赦されないまま残る」ヨハネによる福音書20-23
と書いてある。まさにその通りだと思う。僕がいいやと思えば流せるのだ。僕はこれでやっていこうと思う。
でもこれが僕のこの居場所での最後の開き直りかなと思います。

僕は赦すよりも相手としっかり話し合ってお互い許し合えれば一番いいと思う。
でも相手は変わらない自分が変わるのが僕が学んでいる当事者研究の基本的な考え方。
僕はどうしたら良いか考えがグルグル回っています。
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