今日は太陽があまり元気でない・・けれど寒くのないのでよしとしましょうかね。
朝、ちょっと早く出すぎたのでいつもの電車よりも1本前に乗れてしまったのだが・・困った事にこれだとお花の見えるルートじゃないのよね・・とぼやきながらの通勤でした。
いつもより早目の電車は学生さんが乗ってたりでちょっぴり混雑かな。こんど朝大荷物をもって出かけなきゃいけなさそうなので・・要注意ですね。
○8月7日(日)
オシフィエンチムOświęcimにあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau
の見学は続きます。
各棟ごとに、ここで生をたたれた人達の遺品・・靴であったり、髪の毛であったり・・が山と積まれた状態で展示されており、そのなかに小さな小さなもの・・子どものようのものなどを見ると辛いですが、なんせ状態が悪い。
劣化してしまっていて、ちょっと寂しい気持ちにもなりました。何とかは遠くナリにけり・・って。
でも、そんな事で忘れてしまってはいけないのですよね。
建物の外れにある一角で花輪が目を引きました。
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死の壁または黒い壁と呼ばれ、収容者を銃殺刑にした場所のようです。
一体どんな『罪』を作り上げたのでしょうね。
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kおばちゃんはあの場所に足を踏み入れる勇気がありませんでした。
他にも地下の収容施設、医療行為を行ったような場所・・など復元されていました。
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この収容所でお亡くなりになったコルベ神父さまというかたがいらっしゃいます。
以前、ハンガリーのゾンバートヘイSzombathelyというところに遊びに行ったときに立ち寄った教会のステンドグラスに、ここの囚人服をまとった男性のグラスがあったので不思議に思って調べた事があります。
マキシミリアノ・マリア・コルベMaksymilian Maria Kolbe神父。ポーランド生まれのおかたです。ユダヤ人ではありません。それでもこの収容所に収監されていました。
この収容所は所謂『ユダヤ人』ではなく、身体障害者、ロマ(ジプシー)といった社会的弱者そしてナチズムを否定する政治犯的人物を隔離、断然するための施設だったようです。
で、このコルベ神父さまは後者のほうに当てはまったようです。
彼は、脱走者のでたことによる見せしめの餓死刑の10人に選ばれた者のうちの一人の代理となって、自ら餓死刑をうけ、天にめされていったとのことです。1982年にヨハネ・パウロ2世によって列聖され聖人となっているそうです。
ここは人間性のの極限を試される場所だったのですね。
さっきの死の壁と反対側の方向は・・これもまた悲惨な場所です。
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多聞さわっていないので判りませんが・・高圧線に隔てられたところです。
つまり、ここから先に出たら・・生きては戻れない場所だったのでしょう。
その直ぐ先に見え右側の鉄棒のようなもの・・は絞首刑台です。
この絞首刑台で最終的に死刑に処せられたのは、多聞この収容所の所長だったルドルフ・ヘスだったのではないでしょうか?
ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスRudolf Franz Ferdinand Hößは、ニュルンベルグ裁判にもかけられないような、言い方悪いですが『小物』だったのでしょう。
彼の裁判はkおばちゃんの滞在してたクラクフで行われたのですから。
彼の手記に書かれているという、「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ。」という一文は心に刺さります。
もちろん血も涙もなく、機会的に大量虐殺を『こなしていた』事実はあります。
しかし、時代が違ったら、そして出会いが違ったらきっと真面目な『工場長』のような職で人生をまっとうできたんじゃないかと思わすにはいられないからです。
若い頃は悲惨な状況におかれたのは『ユダヤ人』だ・・と思いましたが、年を重ねた現在ではそう言いきれないかも・・と思うようになって来てしまいました。
何時の時代でも大勢に流されることなく生きて行くのは大変だけれども大切なことだと心から思ったkおばちゃんです。
先程の絞首刑台の左側に・・芝に覆われた『丘』がありました。
実はここは丘でもなんでもありません。このが像の左端のほうに人がいるのがみえますよね。そこが入り口です。
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そこへ周って見ると・・こんな入り口がありました。
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中に入ると・・奥は広い空間になっていました。
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そう、ここがあの『ガス室』です。ここで、『シャワーを浴びる』、『消毒をする』と言う言葉を信じて・・また信じていなくても・・沢山の命が終って行ったのかと思うと・・画像を撮るkオバチャンの手は震えていたのでしょう。ろくな画像が残っていません。
天井に開けられた光採りの穴・・だと思っていモノは。どうやらガスの元になるチクロンなどを投入したところのようです。
効率的にその死体を処分する為、元々あった焼却炉のそばの空間を利用したといわれているだけに、焼却炉と思しき物体も残っていました。
kおばちゃんはこの空間から生きて出る事ができましたけれど、ここから生きて出られなかった人のことを思うと・・人間やっているのがいやになってきました。
さてさて、駆け足の収容所見学は渡お終いにしましょう。生きてあのゲートをくぐる事のできる幸せを感じなければいけませんね。
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大急ぎで外にでると・インフォメーションの建物の前にバス停がありました。
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もう一つの収容所後に行くバスです。バスがまだある・・ということは見学できるかもしれない・・とあわててヒュンダイ君のところに戻ったkおばちゃんです。
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朝、ちょっと早く出すぎたのでいつもの電車よりも1本前に乗れてしまったのだが・・困った事にこれだとお花の見えるルートじゃないのよね・・とぼやきながらの通勤でした。
いつもより早目の電車は学生さんが乗ってたりでちょっぴり混雑かな。こんど朝大荷物をもって出かけなきゃいけなさそうなので・・要注意ですね。
○8月7日(日)
オシフィエンチムOświęcimにあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau
の見学は続きます。
各棟ごとに、ここで生をたたれた人達の遺品・・靴であったり、髪の毛であったり・・が山と積まれた状態で展示されており、そのなかに小さな小さなもの・・子どものようのものなどを見ると辛いですが、なんせ状態が悪い。
劣化してしまっていて、ちょっと寂しい気持ちにもなりました。何とかは遠くナリにけり・・って。
でも、そんな事で忘れてしまってはいけないのですよね。
建物の外れにある一角で花輪が目を引きました。
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死の壁または黒い壁と呼ばれ、収容者を銃殺刑にした場所のようです。
一体どんな『罪』を作り上げたのでしょうね。
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kおばちゃんはあの場所に足を踏み入れる勇気がありませんでした。
他にも地下の収容施設、医療行為を行ったような場所・・など復元されていました。
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この収容所でお亡くなりになったコルベ神父さまというかたがいらっしゃいます。
以前、ハンガリーのゾンバートヘイSzombathelyというところに遊びに行ったときに立ち寄った教会のステンドグラスに、ここの囚人服をまとった男性のグラスがあったので不思議に思って調べた事があります。
マキシミリアノ・マリア・コルベMaksymilian Maria Kolbe神父。ポーランド生まれのおかたです。ユダヤ人ではありません。それでもこの収容所に収監されていました。
この収容所は所謂『ユダヤ人』ではなく、身体障害者、ロマ(ジプシー)といった社会的弱者そしてナチズムを否定する政治犯的人物を隔離、断然するための施設だったようです。
で、このコルベ神父さまは後者のほうに当てはまったようです。
彼は、脱走者のでたことによる見せしめの餓死刑の10人に選ばれた者のうちの一人の代理となって、自ら餓死刑をうけ、天にめされていったとのことです。1982年にヨハネ・パウロ2世によって列聖され聖人となっているそうです。
ここは人間性のの極限を試される場所だったのですね。
さっきの死の壁と反対側の方向は・・これもまた悲惨な場所です。
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多聞さわっていないので判りませんが・・高圧線に隔てられたところです。
つまり、ここから先に出たら・・生きては戻れない場所だったのでしょう。
その直ぐ先に見え右側の鉄棒のようなもの・・は絞首刑台です。
この絞首刑台で最終的に死刑に処せられたのは、多聞この収容所の所長だったルドルフ・ヘスだったのではないでしょうか?
ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスRudolf Franz Ferdinand Hößは、ニュルンベルグ裁判にもかけられないような、言い方悪いですが『小物』だったのでしょう。
彼の裁判はkおばちゃんの滞在してたクラクフで行われたのですから。
彼の手記に書かれているという、「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ。」という一文は心に刺さります。
もちろん血も涙もなく、機会的に大量虐殺を『こなしていた』事実はあります。
しかし、時代が違ったら、そして出会いが違ったらきっと真面目な『工場長』のような職で人生をまっとうできたんじゃないかと思わすにはいられないからです。
若い頃は悲惨な状況におかれたのは『ユダヤ人』だ・・と思いましたが、年を重ねた現在ではそう言いきれないかも・・と思うようになって来てしまいました。
何時の時代でも大勢に流されることなく生きて行くのは大変だけれども大切なことだと心から思ったkおばちゃんです。
先程の絞首刑台の左側に・・芝に覆われた『丘』がありました。
実はここは丘でもなんでもありません。このが像の左端のほうに人がいるのがみえますよね。そこが入り口です。
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そこへ周って見ると・・こんな入り口がありました。
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中に入ると・・奥は広い空間になっていました。
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そう、ここがあの『ガス室』です。ここで、『シャワーを浴びる』、『消毒をする』と言う言葉を信じて・・また信じていなくても・・沢山の命が終って行ったのかと思うと・・画像を撮るkオバチャンの手は震えていたのでしょう。ろくな画像が残っていません。
天井に開けられた光採りの穴・・だと思っていモノは。どうやらガスの元になるチクロンなどを投入したところのようです。
効率的にその死体を処分する為、元々あった焼却炉のそばの空間を利用したといわれているだけに、焼却炉と思しき物体も残っていました。
kおばちゃんはこの空間から生きて出る事ができましたけれど、ここから生きて出られなかった人のことを思うと・・人間やっているのがいやになってきました。
さてさて、駆け足の収容所見学は渡お終いにしましょう。生きてあのゲートをくぐる事のできる幸せを感じなければいけませんね。
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大急ぎで外にでると・インフォメーションの建物の前にバス停がありました。
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もう一つの収容所後に行くバスです。バスがまだある・・ということは見学できるかもしれない・・とあわててヒュンダイ君のところに戻ったkおばちゃんです。
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