産経新聞はまともな新聞としてwebで最初に読ませていただく新聞だが、「えっ」と思うこともある。
秦郁彦氏は「従軍慰安婦」問題を検証した先生として評価されていたと思うが、先日の「富田メモ」では信憑性が疑わしいにもかかわらず第一級の歴史資料としてお墨付きを与えた。
東京大学名誉教授・衞藤瀋吉氏のこの論説では、「靖国問題に休戦ラッパを鳴らそう」という。やっと決着がつきかけていると思うのだが、「遙拝」とか「神社側にも求めたい変化」とか仰っている。大学の先生にしてなぜ中共が靖国を外交カードにしたがっているのか本質を見誤っておられるらしい。
先日読んだアンディ・チャン氏「靖国と民主国家」では、
『この世の人間が死者の霊に対して、来て下さい、出て行って下さい、と言う【権利】があると思うのは傲慢そのものである。こんな主張をする人に魂があるのか、疑問に思う』
『日本外交がうまく行かないのは一部の日本人が自国の尊厳を損なう行為をしている』
と述べていたが、≪神社側にも求めたい変化≫などというのはまさにこれではないか。
「正論」の論説記事として掲載する産経も「変わりつつ」あるのだろうか。
平成18(2006)年8月27日[日]
■【正論】東京大学名誉教授・衞藤瀋吉 靖国問題に休戦ラッパを鳴らそう
■総合的国益は何かを考えるとき
≪棘としてしこり残すだけ≫
秦郁彦氏は時々よいことを言う(いや「しばしばよいことを」と記さねば失礼か)。秦氏は元日大教授、人も知る昭和軍事史の卓抜した研究者である。
先般、富田朝彦元宮内庁長官が書き残したメモの一部がマスコミに取り上げられた。昭和天皇が晩年、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされた人たちの靖国神社への合祀(ごうし)に不快感を示されたという内容の部分である。これは靖国神社問題を論じてきた人たちに大きなショックを与えた。そしてその富田メモの信憑(しんぴょう)性を疑う議論さえ出てきた(例えば『週刊新潮』8月10日号)。
このメモ内容の評価はさておき、このメモの報道に当たって、秦氏は本紙記者からコメントを求められた際、「問題はどんな波及効果を及ぼすかで、どう議論してみても、最終的な判断が靖国神社にある限り観念論になってしまう。この問題はしばらく論議を凍結してはどうか」と結ばれた(本紙7月21日付)。
これは、かねて私が考えていたことと合う。はたしてひとたび起るや論争は激しさを加え、靖国神社に首相が参拝することの可否のみならず、行き着く先は、公式参拝か個人としての参拝かをしつこく問いただして首相に迫ることにさえなってしまった。
そこに中国や韓国からの首相参拝中止を求める強い非難が起って、いっそう論争に拍車をかけた。中には来月の自民党総裁選、つまり事実上の次期総理の選択で靖国問題が最大の争点だとにぎやかに書くメディアも現れた。 私は論争好きで、まれには瞬間湯沸器などとからかう親しい友人もいる(私は絶対そうは思わないが)。その私がこの論戦が激しくなればなるほど、事態観察の冷徹さは失われ、信念の露骨なぶつかり合いにならないかと恐れていた。 それはわが国の対外姿勢にとっても、一部外国の対日観にとっても利益にならず、へたすると永くのどに刺さった棘(とげ)としてしこりを残すことになりかねないからである。
≪「遥拝」でいいではないか≫
中国も韓国も日本の対外政策ののどに棘を刺すことはいとうまい、そして決して譲歩しないであろう。中韓両国政府にとって、この問題で譲歩することは、国内的に有利な情勢をつくり出すとは思えないからである。
そして現在そうなりつつあるのを悲しんでいる。この悲しみをともに分かち、語り合う仲間がいないことを寂しく思っていた折から、この秦氏の短いが的を射た論議凍結の提案、つまり休戦の意見を、頼もしく思ったのである。
首相の靖国神社参拝を信仰の自由だけで論じたり、国家主権にかかわる問題としてのみ筋を通そうとしたりする見方をナショナリズムの評価軸と仮に名づければ、もう一つ対外友好外交の評価軸も一国の宰相として忘れてはならないはずである。これが英知ある将来の解決策を求める縦と横の判断軸であることに、大方の異存はなかろう。
私はこの2本の座標軸、つまりナショナリズムと対外友好と双方を勘案する二元方程式の解、つまりわが国にとって最大の利益点を求めるのは宰相としての責務であると考える。そして、この座標軸の重点の置き方の違いが、今日激しい論争を引き起しているのである。もうよいではないか。双方に休戦ラッパを吹くことを勧めたい。
首相の参拝問題について、この最大利益点を探すとすれば、私は「遥拝」を勧めたい。わざわざ九段まで行かずとも、官邸で靖国神社に遥拝し、心中「参拝せず、ごめんなさい。対外友好政策を打ち建てるために中国や韓国にも配慮します」と宰相としての苦衷を述べて、はるかに伏し拝めばよいではないか。
≪神社側にも求めたい変化≫
けしからん屈辱外交だ、との非難を受けようが、そのときは三国干渉を受け入れた陸奥宗光の懊悩(おうのう)、ポーツマス講和会議でロシアから賠償金も取らずに妥結し、日比谷焼き討ち騒動まで起る中でジッとこらえた小村寿太郎の煩悶(はんもん)を想起し、我慢したらいかがか。次期総理にはどなたがなられようと、ぜひこの2本の座標軸でのご配慮を願いたい。
そして、秦氏の言う通り、靖国神社側もまた、変ってほしいと思う。明治以来、英霊を祀(まつ)る社(やしろ)として国民的評価を得てきた靖国神社は、その評価を継承すべく、柔軟な姿勢を以て歴史の推移、国内外の情況の変化に対応すべきである(どう変るべきかの私見はここでは触れまい)。
あまりに旧態依然として時を過ごすと、いずれも国民の信頼を失うことにもなりかねないと私は思っている。
(えとう しんきち)
秦郁彦氏は「従軍慰安婦」問題を検証した先生として評価されていたと思うが、先日の「富田メモ」では信憑性が疑わしいにもかかわらず第一級の歴史資料としてお墨付きを与えた。
東京大学名誉教授・衞藤瀋吉氏のこの論説では、「靖国問題に休戦ラッパを鳴らそう」という。やっと決着がつきかけていると思うのだが、「遙拝」とか「神社側にも求めたい変化」とか仰っている。大学の先生にしてなぜ中共が靖国を外交カードにしたがっているのか本質を見誤っておられるらしい。
先日読んだアンディ・チャン氏「靖国と民主国家」では、
『この世の人間が死者の霊に対して、来て下さい、出て行って下さい、と言う【権利】があると思うのは傲慢そのものである。こんな主張をする人に魂があるのか、疑問に思う』
『日本外交がうまく行かないのは一部の日本人が自国の尊厳を損なう行為をしている』
と述べていたが、≪神社側にも求めたい変化≫などというのはまさにこれではないか。
「正論」の論説記事として掲載する産経も「変わりつつ」あるのだろうか。