皆さんは、何かこれまで自分の生きてきた歴史というか世界の在り様と、なんとはなしに違う次元に移行したのではないかと感ずることはないだろうか。
最近のボクはその思いが強い、というか実際になにか「ずれ」てきているような気がして仕方がないのだ。
例えば、分かりやすいところでは漢字だ。
ボクの若い頃というか、当然のように当用漢字を学び、少し古い書物などで戦前の漢字の使われ方、あるいは使われていた旧字を学ぶなどしたのだが、例えば饂飩で使われる偏は「食」であり、決して「𩙿」ではなかった。ところが今はいつの間にか餃子の偏も「𩙿」になっている。まだある。「辻」は一点「しんにゅう」だったはずなのに、二点「しんにゅう」になっている。校正の仕事をしていると、気になるというより気にしなければいけないわけで、戸惑うのだが、最近はそれほどのことではないらしい。名前ならいざ知らず、「高」という字も「髙」と混用されている。
以前にどこかで書いたが、お金に関しても不思議な気分になることがある。今では電子マネーが一般的になっているようだが、電子マネーを支える根拠が、ボクにはどうしても理解できない。紙幣や硬貨などの貨幣には金本位制というれっきとした根拠があるわけだが、電子マネーの根拠がボクには見えない。ビットマネーに至っては、昔昔に犯罪として摘発された「円天」と何が違うのか、まったく分からない。当時「円天」は疑似通貨と呼ばれ、とんでもない金融犯罪扱いだった。
こうした「事」もそうなのだが、「人」が激変していることに、ある種の違和感を覚えざるを得ない。誰もがしたり顔で、笑顔で、SNSなどに登場する。ニュースの街頭インタビューなどは、違和感を感じる最たるものだ。聞かれていることと答えの妙な乖離。
社会的な側面で言えば、他人を注意することもできない極度のコンプライアンスの重視も、気味が悪い。
それはそれでいいのだろうが、ボクには違和感しかない場合が多い。今の世界は、違和感を感じるボクが違和感の元なのかしらんと時に思うこともある。
世界はボクにとって、生きることの意味を教えてくれるハズのものだったが、最近はロシア×ウクライナ、イスラエル×イスラム過激派などの対立軸から漏れてくる発言を聞いていても、あまりにカオスでまったく理解できない。和平が訪れる気配も感じられない。
まぁこれは、ボクが阿保なのかもしれないが。
最近のボクはその思いが強い、というか実際になにか「ずれ」てきているような気がして仕方がないのだ。
例えば、分かりやすいところでは漢字だ。
ボクの若い頃というか、当然のように当用漢字を学び、少し古い書物などで戦前の漢字の使われ方、あるいは使われていた旧字を学ぶなどしたのだが、例えば饂飩で使われる偏は「食」であり、決して「𩙿」ではなかった。ところが今はいつの間にか餃子の偏も「𩙿」になっている。まだある。「辻」は一点「しんにゅう」だったはずなのに、二点「しんにゅう」になっている。校正の仕事をしていると、気になるというより気にしなければいけないわけで、戸惑うのだが、最近はそれほどのことではないらしい。名前ならいざ知らず、「高」という字も「髙」と混用されている。
以前にどこかで書いたが、お金に関しても不思議な気分になることがある。今では電子マネーが一般的になっているようだが、電子マネーを支える根拠が、ボクにはどうしても理解できない。紙幣や硬貨などの貨幣には金本位制というれっきとした根拠があるわけだが、電子マネーの根拠がボクには見えない。ビットマネーに至っては、昔昔に犯罪として摘発された「円天」と何が違うのか、まったく分からない。当時「円天」は疑似通貨と呼ばれ、とんでもない金融犯罪扱いだった。
こうした「事」もそうなのだが、「人」が激変していることに、ある種の違和感を覚えざるを得ない。誰もがしたり顔で、笑顔で、SNSなどに登場する。ニュースの街頭インタビューなどは、違和感を感じる最たるものだ。聞かれていることと答えの妙な乖離。
社会的な側面で言えば、他人を注意することもできない極度のコンプライアンスの重視も、気味が悪い。
それはそれでいいのだろうが、ボクには違和感しかない場合が多い。今の世界は、違和感を感じるボクが違和感の元なのかしらんと時に思うこともある。
世界はボクにとって、生きることの意味を教えてくれるハズのものだったが、最近はロシア×ウクライナ、イスラエル×イスラム過激派などの対立軸から漏れてくる発言を聞いていても、あまりにカオスでまったく理解できない。和平が訪れる気配も感じられない。
まぁこれは、ボクが阿保なのかもしれないが。
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