普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昔むかしの」百物語<その69> なるようになる~Que Será, Será~

2021-06-27 15:03:42 | 東京「昔むかしの」百物語
1980年、ボクはカメラマン・生井秀樹氏とデザイナー・唯野信廣氏との3人で事務所を立ち上げた。事務所といっても、当時住んでいた荻窪のマンションの一室を、それらしく改装しただけのものだった。

生井氏と唯野氏は、それまでボクが編集者として携わった仕事を共に協働してくれたどちらも信頼に足る盟友であり、友人だった。ボクが営業して仕事を取り、テキストはボクが担当し、写真は生井氏、デザインを唯野氏が担当した。

雑誌のページはもちろん、レコードジャケットや、アーティストのコンサート・パンフレットなど、結構それらしいものを製作し、そこそこに皆に喜んでもらったが、長くは続かなかった。

それというのも、2人は自分の仕事にプライドがあり、ボクが期待したほどに営業的な戦力にはなってくれなかったのだ。2人をよく知るボクも、端からそれほど期待はしていなかったが、斯く言うボクも営業は大の苦手で、いつの間にか事務所を維持するほどの仕事を獲得できなくなっていったのだった。

結局2年も持たずに、事務所は元のようにボクの居室になった。

それでも仲違いをするでもなく、ボクたちは良い友人であり続けた。それはついこの間まで続いた。

昭和という時代は、何度か書いたかもしれないが自由度の高い時代だった。お金の為というより、やりたいことをやりたいという思いが強かった。

だから、たとえ事業に失敗しても、「Que Será, Será」だったのだ。とりあえずやりたいことをやったから、「ま、いいか!」といった感じ。それは、言葉を変えて言えば、明日には明日の仕事が必ずあると、確信できる環境だったからだ。つまり、社会はそこそこにうまく回っていたのだ。

バブル前は、どこか社会が健全だったように思う。人が生きることのできた時代であり社会だった。

やがて社会はバブルに突入し、優先順位は思いより金の方が高くなった。社会は浮かれ倒していたが、バブルがはじけた瞬間から、生きるためには完全に金が最優先の社会構造が作られていった。

その流れに乗り損ねたのが、ボクと唯野氏。生井氏は仕事柄流れに乗るもくそもなく、くる仕事は拒まずのスタンスで、良い仕事をし続けていた。

年を経るとともに、ボクを支えてくれていた人たちは引退し、仕事の一線から姿を消していった。ボクも唯野氏も生井氏も、取り残された老人めいていった。

今年に入って唯野氏の訃報を聞いた。この10年ほどは良い話を聞かなかった。酒が唯野氏の唯一のマイナス点で、結局酒が彼の命を縮めたようだ。

そして、生井氏の訃報は6月15日に聞くことになった。闘病に入った経緯もすべて知っていたし、余命を宣告されていたのも知っていた。それでも急だった。

ボクは、元気だ。もちろん体力の衰えはある。仕事や人間関係での精神的な部分でのもろもろの喪失感もある。だが、すこぶる元気だ。

かつての盟友は、もういない。だが、彼らを背負ってもうひと花咲かせようと思った。

それこそ「Que Será, Será」の思いで。

なにをするかは、だから、これから考えることにする。
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生井秀樹カメラマン

2021-06-15 22:29:06 | こんなことを考えた
45年以上、ボクが信頼し続けたカメラマン、生井秀樹氏が亡くなった。

カメラマンとしてはもちろんだが、長きにわたり数少ない友人の一人として接してくれた、掛けがいのない存在だった。

ロックが好きで、繊細なくせに豪放磊落を気取り、いつも少しにぎやかな場を好んだ。

初めて会ったのは、ボクが25歳の時だった。マネーライフという雑誌の編集者とカメラマンとしての出会いだった。
思い出せないくらいたくさんの仕事をした。

ボクがロッキンFという音楽雑誌の編集者に転身し、音楽関係の写真を依頼すると一も二もなく手助けしてくれた。
彼の写真はモノクロにハードエッジとでも言える大きな特徴が表れていて、読者に大きなインパクトを与えた。
中でも、日本のニューウェーブシーンを席巻したP-MODELの写真は、ライブもアーティスト写真も、すべてを生井氏に依頼した。

そんなこともあってか、ボクが音楽と無縁の仕事を始めてからも、生井氏はP-MODELの写真を撮り続け、それはついこの間まで変わらなかった。

ボクが新星堂の仕事を始めた時も、写真は生井氏にすべて依頼していた。矢沢永吉のポスターも、生井氏に撮ってもらった。評判が良かった。

音楽関係の仕事は、昨日まで生井氏に頼んでいた。ライブがあれば連れだって出かけた。中島みゆきの夜会まで一緒に出掛けた思い出がある。

もう、それもできない。何かが欠落してしまったような気分だ。

今年の初め頃から体調を崩していたが、これほど早い別れの時は想像もしていなかった。

コロナ禍で、別れを告げることもできない。だが明日、無理を承知で会いに行こうと思う。

多分、遺体安置所。

もう一人、日本のトップ芸能記者だった江原氏と三人で、定期的に飲んでいた。サイゼリアが定席で、浴びるほどワインを飲んだ。ひょっとすると、あれが良くなかったのかと、ふと自責の念が沸き起こる。

いやいや、楽しかった。だからそんなことはないと思いたい。

そんなことはない、と今日の夢にでも出てきて言ってくれないか、生井秀樹よ。

合掌。


在りし日の生井秀樹カメラマン
コメント (2)
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東京「昔むかしの」百物語<その68>象のはな子

2021-06-10 17:15:33 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和20、30年代、日本中にアジア各国から像が寄贈された。

太平洋戦争の敗戦から10年も経たずに日本の子どもたちに喜んでもらいたいという、アジア各国からの信愛の使節だった。

子ども心に、日本は世界(アジア)から好かれているのだなと思った記憶がある。

戦中の日本が、アジア各国で悪行を行ったという風説からは、想像もできない日本への信愛の情溢れる事実だ。

ボクの子どもの頃は、上野恩賜公園の動物園と、井の頭公園の自然文化園に像がいた。井の頭文化園の像は、タイ生まれのはな子といった。それまで上野動物園にいたが、井の頭に引っ越した。上野には確かインドから来たインディラという象がいた。当時のインド首相ネルーの娘さんの名前だった。

はな子は、二度の事故で二人の飼育員を死なせている。そのせいで殺人象と言われたこともある。



この写真は、ボクが小学1年生の遠足の写真(だと思う)。手前の白い帽子がボクだが、奥にいる像は記憶は定かではないが、多分井の頭のはな子だ。リンゴを投げてはな子が食べてくれたのを覚えている。

ボクは象が好きだった。見ているだけで心がほっこりした。なぜだろう?

そういう意味では、アジア各国が日本の子どもたちのためにと像を寄贈してくれたことは、少なくともボクに関しては、アジアの人々の思いのままに受け止めていたことになる。

ボロボロになったアルバムを眺めていたら、こんな写真が出てきた。当時のわくわく感が心の奥底から湧きだしてきた。

65年などという月日は、まるでなかったかのようなものだと思った。

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