普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

最遊記 第1回 西に向かって1歩を踏み出すの記

2016-03-25 20:03:24 | 夫婦連載
この混沌とした大八嶋=世界に生を受け、28年が過ぎる頃、いまの伴侶に出会いそれから5年後、共に暮らすことになった……。

我が夫婦、天地開闢の時だった。

あれから幾星霜……僕ら夫婦は色々ありながら……そうほぼ毎日のように喧嘩をし、周囲の人間の誰一人として、僕らがまともに結婚生活を送れるなどと思ってもおらず、子どもたちでさえ、僕たちが離婚せずにいることを訝しんでいた節もあるほど。本人たちでさえ、と言いたいところだが、どっこい二人だけは、別れを考えたこともない。

いまでも揉め事の種は尽きないのだが、過去のそれらはすべてが今考えれば必然で、むしろ楽しかったことだらけなのだ。だから、僕ら夫婦は意外にも、周囲の人々の期待を裏切り続けて33年ということになるだろうか。

考えて見れば齢66年を積み重ねてきた僕は、人生のちょうど半分を奥さんと、毎日喧嘩をしながら過ごしてきた計算になる(細かくみれば多少の誤差はあるのだが)。

有難いことだ。奥さんに感謝しかない。……気取ることもないか⁉

なぜ喧嘩を日常としながら33年もの長きに亘って別れを考えもせず共に暮らせたのか?

謎のようだが、謎でも何でもない。それはおいおい書くとして……。

そんな僕ら夫婦だが、過日お伝えしたように、少し遊ぼうということになった。さんざん遊んできたような気もするが、それはそれ、意識して遊ぼうということになったのだ。奥さんの提案だった。

そして、その提案の骨子が「西に向かっていこう!」という、ざっくりとしたもので、そのざっくりさ加減に僕は大いに賛同した。いずれは海外に雄飛するぞ! という決意表明も、お互いの心の中でしている(はずだ)。

そして栄えある第1回を、できるだけ早くに書きたかったのだが、宣言以来なぜかどこにもいかず、なにも書けなかったのだが、先週の日曜日、以前にもご紹介させていただいた「小澤酒造」に行ってきた。……海外リポートはおあずけで。

酒呑みの僕ら夫婦に相応しい第一歩ということで、その時のリポートを近々に。

今回は、プレリポート、プロローグということで……。

記憶は彼方へ。思いは鮮烈に。

2016-03-11 19:50:13 | 思いもよらない未来<的>な
1月17日も、3月11日も、忘れられません。

阪神淡路大震災。以前も書きましたが、おそらくボクは近畿圏以外で最も早く地震を知った人間の一人です。後に全壊指定地域となった神戸市灘区天城通に居住していた義母が、短縮ダイヤルを三木に居住していた義姉の電話と押し間違え、地震から1分も経たずに東京のわが家へ電話してきたからです。5時47分頃、寝ぼけ眼で義母の電話を受けたボクは、それほどの大事とは思わず、一言二言義母が叫ぶように話した声を聞き終えて「分かりました、後で電話かけさせます」などと、そっけなく電話を切ったかもしれなかったのです。寝ぼけていたせいか記憶はあいまいです。

東日本大震災。家で仕事していたボクの他に、娘も息子もなぜか家にいました。強い揺れに襲われましたが、揺れの方向が良かったせいか何一つ落ちることもなく、ただ地震の大きさに驚いていたのを思い出します。テレビを見れば、それから丸一日以上に渡り、恐ろしい惨状を映像として流し続けていましたっけ。その間に、仕事で日野市の豊田近辺にいた奥さんを車で迎えに行きました。後にとんでもない渋滞だったと知るのですが、ボクは裏道から裏道を華麗に走り抜け、立川駅によりながらも、いつもより(普段は往復40分程度)1時間多くかかった程度で無事帰りつきました。

阪神淡路大震災後、ボクは神戸に何度か入りました。取材でも個人的にもです。地震直後の惨状はいまだに脳裏から離れません。1階部分だけぺしゃんこになったマンションの1階で潰れている何台もの車、道を覆うように倒れ掛かっている家屋、波をうつアスファルトの道路、倒壊した阪神高速道路の傍まで行きました。カタストロフの巨大さはこの世のモノとも思えませんでした。
奥さんの実家まで、どこからでしたか(西宮北口からだったかな)歩いていきました。あまり覚えていません。あの風景は忘れられないのですが、具体的な風景は忘れています。記憶にあるのは風景から受け取った驚愕と恐怖の感情と、それを呼びさます幾たりかの印象としての風景です。

東日本大震災。毎日のように津波の映像を見続けていました。当たり前ですが、驚愕はありましたが恐怖はありませんでした。そして一度も被災地に足を踏み入れたことはありません。誘われましたが断りました。なにかとても怖いのです。東日本大震災の惨状を見るのが怖いのではなく、阪神淡路大震災の惨状を思い出すのが怖いのです。

最近、台湾、インドネシア、ニュージーランドと地震が起こったのを記憶していますか?
ボクは予言者ではありませんが、なにかざわざわとします。実は、日本のいずれの大震災の前後にも、同じ地域で地震があったのを覚えていませんか?
この地域以外に、カムチャッカ、アラスカ、そしてアメリカの西海岸で、同じ時期に大きな地震がありました。それがまだ起きていないと思っていたので、少し安心していたのですが、実はこれらの地域で、今年の初めに8000回を超える微細な地震が起きていたことを知り、足が震えました。

ひょっとすると、近いかな。日本を襲う大きな地震が近いかなと思う、今日この頃なんです。どこかは分かりません。でも年内に起きそうな気がします。
生き延びる準備だけは整えておいてください。お互い様に。


 

東京「昭和な」百物語<その11>あれ、とかこれの2・遊び道具

2016-03-09 00:13:33 | 東京「昔むかしの」百物語
前回、電話のことを書いた。まったく隔世の感がある。

同じ程度にその変化の大きさに衝撃を受けるのが、遊び道具だ。

昭和30年代。日本中を席巻した遊び道具が、3つあった。

それは、およそすべての日本人が、なんとか手に入れたいと思った類のものだった。それほど大流行した。

まず流行ったのは、ホッピング。昭和32年のことだった。一本足のポゴスティックとも呼ばれる遊び道具に似た、バネを仕込んでより高く飛び上れる、オモチャというより、運動道具だった。今でも、売られていて高度な技を見せてくれる若者もいるようだが、当時はみんな道路でただただピョンピョン飛んでいた。だが、なぜか急激に下火になった。

その理由は「胃下垂になるから」というものだった。首をかしげたくなるような理由だった。

次はフラフープ。直径1メートルほどのプラスティック様の輪っかで、それを腰のあたりや首で回転させて遊ぶ。ただそれだけのものだったのだが、爆発的なブームになった。元々はアメリカからの輸入物だった。昭和33年のことだ。ボクは小学1年生ぐらいだったが、腰をうまく使いながら、いつまででも廻していられた。廻し続けられる少年少女は、モテた。

だが、あるときを境に一気に下火となった。なぜか? これは「腸捻転の原因」と言われ始めたからだ。

なんだか妙な理屈だらけで不思議な感じだ。

腸捻転はどうかわからないが、確かにやりすぎると腹回りが痛くなり、腹筋にも過度の負荷がかかった。そう考えれば、今でもフラフープが、ダイエット用品として頗る人気の理由が分かる。

次に大流行りしたのが、ダッコちゃんだ。これは昭和35年頃の流行だった。
真っ黒なビニール製の人形で、当時の言葉で「黒んぼ(黒人の蔑称のように受け取られている)」を模した、両腕が輪っかを作り、ちょうど二の腕辺りにコアラのように抱きつかせて歩く、これもただそれだけのオモチャだった。その姿かたちは、当時の人気児童書「ちびくろサンボ」(1980年代になってエキセントリックな反差別主義で、発売自粛というか発禁になってしまった)と重なって、なお人気だった。

夏の海岸などは、誰も彼もがダッコちゃんを腕に留めて闊歩していた。街中でも女の子の腕にはダッコちゃんがくっついていた。

一体どれほど売れたものかわからないが、現在のタカラトミーの前身、宝ビニールという会社が制作・販売し、大儲けしたという話は聞いたことがあった。

この3つの遊び道具が、昭和の3大オモチャ。考えてみれば、すべて遊んだ。そしてあっという間の下火にも、世間様と歩調を合わせた。

ただ、その遊び道具は、どれも外で体を使って遊ぶ道具だった。

いま、家の中でオンラインゲームなどで遊んでいる子どもたちの姿を見ていると、まさに隔世の感があり、どちらが良いのかなどと考えてもしまう。

外で遊び辛い時代ではある。実際にわけの分からない、それとわかる危ない人も多い。地域の高齢者が子どもに声をかけるだけで、変質者扱いされるような時代。それでも、やっぱり「外で遊ぶ方がよくね?」などとお節介なことを言いたくもなる。ただ、昭和30年代の遊びも、いま考えればそれ程おすすめでもない。

どちらかといえば、野原で蝶々を追い回し、小川でメダカ取りに興じて遊ぶ子どもが一番だと思うのだが、最近は野原も小川も、蝶々もメダカも何もない。

やんぬるかなという所。