普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昔むかしの」百物語〈その61〉竹刀

2020-08-31 11:07:08 | 東京「昔むかしの」百物語
もう、60年も前のコトだから、書き残しておこうと思う。

ボクは、小学3年生の3学期に杉並区立西田小学校に転校した。それまでは、文京区立窪町小学校に通っていた。

今でもそうなのだろうと思うが、当時文京区は都内でもいわゆる文教地区と言われる地域であり、親御さんも教育熱心、子どもたちも親の期待をそこはかとなく感じながら、学校に通っていたと思う。

そんな中、ボクはといえばそうしたことには無頓着で、板橋から越境入学した窪町小学校に、壮絶な通勤通学電車を利用しただ通っていた。

先生方も、子どもたちの指導に熱意を持って当っていたと思う。

転向して初めて西田小学校の校門の前に立ったとき、強烈な違和感を感じた。ハッキリと覚えている。

ボクは電車通学をしないですむことに、正直ウキウキと校門の前に立ったのだが、血の気が引いた。

校門の脇に、おそらく30代半ば頃の、厳しい顔つきの男性教師が立っていたのだ。それだけならまぁどうということもないが、その手には竹刀が握られていたのだ。

それが教育指導のA先生だった。

竹刀は、当時であれば普通だったのかもしれないが、遅刻する子ども達、服装の乱れた子ども達などといった、問題のありそうな生徒への、威嚇のために握られていたのだろう。

今であれば、即刻退職を余儀なくされるのだろうが、当時は多くの復員兵が教職につき、戦前の皇国教育を金科玉条としていた教師も多かった。

それが良いことだとか悪いことだとか論評するのではないが、子ども心には怖かった。

A先生が竹刀で生徒を叩いたなどという話は聞かなかったが、のほほんと文教地区の学校に通っていた身にとっては、A先生が、感じたことのない威圧感を醸し出していたのは事実。

だが、ボクが通い始めて卒業する前には、A先生の手から竹刀は消えていた。おそらく、教育の現場で大きな勢力を持ち始めた日教組との軋轢の中で、A先生は弾き出されてしまったのだろうと思う。

実は、A先生は担任になったことなどなく、話すらしたこともないのだが、一度だけ、朝礼のときに倒れた同級生がいて、その子を介抱したことがあった。A先生が駆け寄ってきてその子を抱き抱え、ボクの方を見て何故かニコッと笑いかけた。その顔が実に穏やかで、良い大人の威厳と親しみを感じた。

その時、あっ、この先生は良い先生だ! と確信した。

人は見かけではないということを、その時学んだ。

昭和の、ほんのちょっとした物語。

東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その60>グリーンハウス

2020-08-24 17:45:31 | 東京「昔むかしの」百物語
1960年代の後半、世界は「水瓶座の時代=アクエリアスエイジ」に対する期待に溢れた。

この「水瓶座の時代」というのは、西洋占星術を基礎とした「時代」の読み取り方とボクは理解しているのだが、もう少し詳しく書いてみたい。

毎年の春分の日に太陽の方角にある星座は、約2万5860 年の周期で一周すると言われる。なぜ12星座を経めぐるのかと言えば、地球は自転しているけれど、少し首を振っている。独楽は回転が弱くなると首振り運動を始めるが、地球も同じでその首振り運動=歳差運動に則して、太陽は12ある星座を経めぐる。

一つの星座の時代はおよそ2000年程度続き、これまでの知り得る限りの人類の歴史は、「牡牛座の時代」(B.C.4000~B.C.2000 )、「牡羊座の時代」(B.C.2000 年~紀元0年)、そして「魚座の時代」( 紀元0年~A.C.2000)と続き、2000年頃から春分の日に太陽のある星座は「水瓶座」になったと言われるのだ。

その説に従って、1960年代頃から「水瓶座」待望論が、西洋文明を担うアメリカやヨーロッパで澎湃として起こった。

なぜなら、自分達の精神が属する19~20世紀は西暦元年頃から始まった「魚座の時代」の末期で、「魚座」は支配を意味する時代であり、社会的ヒエラルキーや差別・分断という側面が、人々のコンセンサスとなっていて、その混乱の中で時代は戦争に明け暮れていた。その非人間的な時代相へのカウンターとして「水瓶座」は、一つはそうした権威や支配からの「解放」、「自由」「公平さ」「新生」といった精神の解放を意味する時代として待望されたのだ。

そして旧時代の象徴として「ベトナム戦争」があり、新時代の象徴として現れたのが精神の自由を標榜する、フラワー革命=ヒッピー的なるものだった。

アメリカでは、旧時代の象徴「ベトナム戦争」へのカウンターとして「平和」「自由」「平等」「反戦」を標榜するヒッピームーブメントが若者の精神の大きな潮流となった。音楽、演劇をはじめとする表現の世界でそれは顕著だった。映画ではハリウッド的な映画作りとは一線を画するニューシネマと呼ばれる表現が誕生する。ブロードウェイはオフブロードウェイ、オフオフブロードウェイが、音楽では西海岸を拠点としたロックが、ヒッピー的なる思想の代弁者となった。

さて、日本だ。日本ではそれほど若者に受け入れられることのなかったヒッピームーブメントだった。なぜなら、西洋占星術を背景にした「水瓶座の時代」などと言われても、まったくピンと来なかったし、日本も前線基地であったベトナム戦争に対する反戦意識は高まったものの、文化的なものへのヒッピー的アプローチなど、日本的尺度では理解しようもなかった。

ただ憧れはあった。それは長髪であったりベルボトムのジーンズであったり、単なるファッションとして昇華されていった。

そんな中、いかにも日本的なヒッピー理解として誕生したのが、新宿東口に誕生した「グリーンハウス」だった。今の新宿駅東口イベント広場(アルタの前)あたりにあった芝生の一角なのだが、そこに何するでもなく日がな一日過ごす一団がいた。それを、日本的ヒッピー=フウテンと言っていた。今の言葉でいえば、若いホームレスだったかもしれない。

実にただそれだけだった。政治的でもなく明確な目的意識もなく、ただただそこにいた。

これが世界を席巻した若者のムーブメント=ヒッピーの、日本的表象だった。もちろんユング的な深い理解をもってヒッピーだった人々もいただろう。だが結論から言えば、一つのヒッピー的表象だったグリーンハウスは、だからあっという間に官憲によって排除され、終わった。

昔むかしのお話しである。


70万PV超えました!

2020-08-03 08:34:39 | こんなことを考えた
7月31日に、10年弱をかけて70万PVに到達していました。

この数カ月、PCの調子が悪く(とにかく重い、遅い)立ち上げるだけでストレスが半端なく、なかなか椅子に座ることができなかったのですが、一念発起、PC内の情報の断捨離を敢行、すっかり見違えるようなPCに変貌しました!

新しいPCを買おうかとも考えたのですが、ちょっと待て、PCの腸内環境を整えてやれば、少しは身も軽くなるのではないかと思い、断捨離を3日がかりでやったところ、サクサクと動いてくれるようになりました。

非常に良い子です。で、アクセスを覗いたところ、タイトルのようなことになっていました!

皆さん本当にありがとうございます。感謝です。励みになります。ありがたいです。嬉しいです。

この10月でブログを始めて10年になりますが、こんな数字にお目にかかるとは思いもしませんでした。

訪問してくださった皆さんは延べ30万を越えています。

今どき、大した数ではないという方もおられるでしょうが、ボクにとっては大変な数です。

昨年の7月に100万、200万を目指すと宣言しましたが、できそうな気がしています。

いま世界はコロナ禍でぎくしゃくとしています。疾病という側面だけでなく、人々のあらゆる生活に多大な影響を与えています。

ただ、その負の側面にばかり気を取られていても、一向に愉しくもなければ前進的でもありません。

なにか工夫をすれば、脱しきれないコロナ禍の影響下でも、愉しんで生きることはできるのではと思います。

お互いに、頑張ろうではありませんか!