普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

今日はこれから、原宿。

2013-06-28 08:47:34 | 普通な人々<的>な
我が家の、すでに独立した息子君も含め、家族の誕生日が、この時期にぎゅっと詰まっている。女性軍2人が6月、男性軍2人が7月。

ほぼ1ヶ月の間に、計4回の誕生日を祝うわけだが、いつの頃からか「まとめてやるべ」という感じになり、今年は、大体中間点の今週末頃に、誕生会をやりそうな気配。

この歳になってもなかなか楽しい。

なにが楽しいといって、子ども達(と言っても良い大人なんだが)の姿を、生まれた時にまで遡って思い出すこと。

実際、そんな風に子供たちのことを考える機会は、そうそうない。

実は、今週末のことは、何も決まってはいない。

なぜなら、ボクのスケジュールがハッキリしないから。このままだと何もアクションがないかもしれない。

ノンイベントはつまらないな……なんかないかな……。

などと言っている間に、原宿。

台風3、4号が話題になるなんて。

2013-06-22 16:10:04 | 普通な人々<的>な
すっきりしない天気ですね。

それにしても。一桁台の台風が日本列島に上陸することなど、昭和の時代にはほとんどなかった。

いくら思い返しても、なかった。

本当に、気候が変動しているのがよく分かる。

まさか、自分が生きている間にその変動に出くわすとは思わなかったけどね。

この先も、何があるか分からない。

皆さんも、心して!

ジャックダニエルから、なぜか麦焼酎

2013-06-20 13:48:13 | 普通な人々<的>な
ご無沙汰でした。

なんとなく、身辺のざわつき感が収まってきましたが、心の奥底には、ざらついた澱のようなものが堆積しています。

いつかすっきりとさせます。

さて、訳あって(分け合ってではありません)ジャックダニエルでしたが、いまは麦焼酎のロック(飲むだけですが)の日常に戻りました。

またここで、文章を日常的に書けるような、時間的な余裕もできそうです。

今日は、仕事でほぼ一年ぶりに小石川。

雨ではありますが、神田川沿いを歩こうかななどと、いま考えている内に、昼の休憩が終了。

また。

訳あって、ジャックダニエル。

2013-06-11 13:35:07 | 普通な人々<的>な
訳あって、ジャックダニエルと言っても、「オールドファッションド・グラスにツーフィンガー、キューブの氷を4つで水割りに」、などと注文している訳ではなく、必死に資料を集めております。

面白いお酒だと、この忙しい感じが終わったら、改めて飲んでみようと思った次第。

ブラックは、リトル・ジャックが16歳で作り上げたお酒と知れば、なおのこと飲んでみたくなってきます。

最近は、ビールやワインばかりで、強いお酒を少しの量で良いから、たしなんでも良いかなと思います。

悪酔いしない程度にね。

気味の悪い、殺しのニュースばかり

2013-06-06 22:54:57 | 普通な人々<的>な
いつから日本は、こんなに毎日毎日、殺さなければならない理由らしい理由もない、気味の悪い殺人事件の起きる国になったんだろう?

確かに殺人事件は毎日起こる。それは昔から変わらない。だが、昔の殺人事件には人を殺すそれなりの理由があったような印象がある。

なにか、どこかで「情緒的」とでも言える、1-1=0とは異なる数式が成立していたように思う。0コンマ幾つかが何か意味合いとして残るような感覚。殺人を犯したものへの幾許かの共感や、同情が残るような感覚。

今の殺人でも理由はあるが、その理由の大半ははっきりしている。金。ほとんどが金。そして性的でありながら関係性の崩潰した、ストーカー的殺人。共感も同情もなにもない。極めて個人的ないきさつからしか生まれない殺人。

それは、裁判ともなれば、当然のようにドラスティックで、弁護士の存在もほとんど自己正当化を殺人の理由とするような弁護を成立させるためのもの。

一方で、三権分立の最も大切な要素である司法も、どちらかといえばファナティックな「人を殺してしまったものは、すべて死刑でも当たり前」的な、被害者の関係者の主張が、裁判そのものの行く末を左右するようなところが垣間見えたりもする。こちらにも意味合いは異なるが、共感も同情もない。

思い起こすに、阪神淡路大震災の年に発生した、例の「酒鬼薔薇聖斗」事件、その7~6年前に宮崎勤が引き起こした「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」あたりから、日本の殺人事件は、変化したように思う。人を殺すことへの痛みを持たない人々の引き起こす殺人事件。

こんな書き方をすれば批判されることにもなりかねないが、構わない。

殺人という行為は、ある意味哲学的な試行錯誤の行き着く先にあるものという、犯罪心理学を少しだけでもかじった経験から言うと、具体的には書かないが、今の殺人事件は極めて「異常」な殺人事件としか言い様もない事件の連続なのだ。

そしてその受け止め方も、被害者も、周辺の人々も、無関係の傍観者も、ある意味「異常」な反応しか示せなくなっている、昨今なのだ。

急な夏、折り合わない肉体。

2013-06-03 11:57:52 | 普通な人々<的>な
夏は悪くない。やれ熱中症やら熱射病やら、高齢者にとってキツイことは幾つもあるが、そこはそれ、工夫次第でなんとでもなる。

だがそれも、順当に季節が移ろうという前提があっての話。

まるでカットアウトする冬、カットインする夏のようで、肉体的には過度のストレスがかかっているのが自覚できるほどだ。

しかも、極端な温度変化が季節の変わり目に必ず顕れる様になっている。

以前にも書いた記憶があるが、日本人は季節感を極めて大切にする。5日に一つずつ名前をあたえているほどだ。

だがそれも、人々が季節の移ろいに何らかの価値や意味を感じられればの話で、季節そのものも不順で、季節に無頓着な人々の中では、何の意味も持たない。

だから、なんとなく今の世の中、この稿の前半にも書いたが、季節の移ろいは病名で表されるようになっている。

インフルエンザ、花粉症、熱中症云々。

情緒的表現としての季節は、すでにこの国から失われてしまったと、最近思う。

それがよいことであると云う意見もあろう。

ただ、無味乾燥、とだけは言えそうである。