普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

満員電車

2012-05-30 13:43:27 | 普通な生活<的>な
子供の頃、電車通学をしていた。

前にも少し書いたかもしれないが、ボクは小学校の受験経験者で、今の筑波大学の前身、東京教育大の付属小学校を受け、落ちた。
で、隣りにあった文京区立窪町小学校に越境入学した。そこのところの経緯は定かではないのだが、結局ボクは上板橋から東上線で池袋に出て、できたばかりの地下鉄・丸の内線を使い茗荷谷という経路で、毎日満員電車でもみくちゃにされながら通学していた。

これは結構な苦行で、小学校3年の終わりに荻窪に引っ越すまでの約3年間、毎日が難儀だった。

昭和30年代の前半のことで、すでに通勤ラッシュもはじまっていたから、もみくちゃどころではなかった。

思い出すと、電車ばかりでなくバスもすごかったな! 少し前の東南アジアのラッシュ映像によくあった、乗り口のステップやバンパーの上で車体にしがみついている乗客の姿は、昭和30年代の日本にもあったのだよ。

で、大人になってラッシュ時の通勤が、気分が悪くなりできなかった。
そんなこともあって、サラリーマンが嫌だと思ったのかもしれない。

わがままな男だ。

最近でも、時にラッシュ時にぶちあたる。やはり気分は悪くなるが、若い頃程ではない。

昨日の帰宅時がラッシュだった。

ふと昔を思い出した。

人はあたたかい

2012-05-28 09:50:28 | 普通な生活<的>な
最近、古くからの友人が何人も連絡をくれた。

三日前には、以前一緒に本を出したO氏が、東北行きに誘ってくれた。共に阪神淡路大震災の時に、身近な人が被災した。そんなこともあってのお誘いだったと思う。

だがボクは、体調不良で付き合えなかった。

すると昨晩、東北土産を携えてはるばる立川くんだりまで訪ねてくれた。

ありがたいことだ。人間活動のほぼすべては人との関わりの上に生まれてくる、最も基本的で最も大事なこと。

肝に、もう一度肝に命じた。

45,000IPを越える!!

2012-05-26 18:59:20 | 普通な人々<的>な
6日前に10万PVを越えたわけですが、フと気がつくと45,000IPを越えていたわけです。

ある意味これは快挙です。
45,000という数の凄さが、ヒシヒシと伝わってきます。

1年半、飽きもせず訪問してくださった皆さん、深く感謝いたします。
そしてこれからも宜しくお願いします!!!!!

余計な事

2012-05-25 13:39:35 | 普通な生活<的>な
例えば、クスリ。
ご存知の通り、オールマイティーのクスリというものは、ない。それなら、なにかの病変にピンポイントで効くクスリはあるのかといえば、実はこれもない。

どういうことかと言えば、なにかの病変は、決してそれだけで起こるものではなく、必ず複合的な原因、症例を伴っているということだ。
極端な言い方をすれば、全ての原因が7つあれば、7つの原因それぞれに対処するクスリが最低でも7種類必要だということなのだ。

風邪薬が良い例だ。最近は、喉、鼻、頭痛などと症例を特化したものが増えているが、風邪の症状は複合的で、下手にクスリを選べば、長引くばかり。

そして最も問題なのは、一つの症状を抑えられるクスリにすら、必ずと言っていいほどに副作用があるということ。

そして、その副作用を抑えるクスリが必要になる。ここまでくると、お気づきの通り、際限もない無限連鎖のはじまりだ。

俗に言う、クスリ漬けの始まり。

そして、7種類の症状に対処する7種類のクスリは、さらに相互に影響しあって、別の副作用を産み落とす可能性も高い。だから一度に処方できなかったりもする。

アレルギーもある。

こうした、クスリによって発症する症状に対して、別のクスリなどを処方することになるわけだ。

この、恐ろしいほどのイタチごっこが日本の医療現場の錬金術だと言っても良いだろう。

そして、この錬金術の方法論は教育、物販、情報サービスなどの第二次産業以降およそすべての産業体が活用しているのだ。

ことさらなのは、広告業界だろうか?

電博はその代表格。彼らは、たった一つのことに、幾重にも付加価値という名のレイヤーを重ね、売りさばく。
それが彼等の仕事とは言え、その手腕は恐るべきもの。

ただ、良く考えてみれば、そのほとんどは、人間が基本的に生きる上で不必要なモノばかり。

なんのために作られたのか、首を傾げたくなるような、お笑い芸人の出演するテレビ番組がその典型か。

前述のクスリの話ではないが、年々歳々新しい病気を生み出し、それに対する処方も生み出す。

百万人に一人しか罹らない病変が、あたかも明日には一般的な病変になるかのような誤解を与え、かかりもしない病変の予防と言って、不必要とも思えるワクチンを投与する。

酷い時には、さながらマッチポンプ、

現代の最大の問題は、こうした余計なことが、あたかも価値的であるかのように受け取られていること。

みんな、少し冷静に物事を見直してみませんか?

なんという、ハレ!

2012-05-23 08:47:10 | 普通な生活<的>な
美しい空と雲を見ながら歩けるのは、一体いつ以来のことだろう。
今日の朝の空は、あまりに久しぶりのハレの空で、それだけで心が浮き立つ。

東京では、カラッと晴れ上がる日は意外に少ないような気がする。子供の頃に見た記憶にある、抜けるような空と白い雲の対比も、真夏でさえ滅多に見ることもない。

ただ、今朝の空と光と影のコントラストが生み出す空気感は、子供の頃の記憶に近いものがあった。

それだけでも、意外に元気に一日が過ごせそうな気がする。

気持ちが良いね!

とうとう100,000PVを越えました!!!!

2012-05-20 16:37:18 | 普通な人々<的>な
一昨年の10月からはじめたこのブログ、およそ1年半で当初の目標だった10万PVに到達しました。ありがとうございます。

皆さんに感謝です。

ここにきて、アクセス件数がめっきりと減少していました。ボクの怠慢と、内容の不備というのが原因でしょうか。

それはそれとして、これからも、さらに精進していきますので宜しくお願いします。

正直、どんな原稿を書けば皆さんに喜んでもらえるのか、いろいろと試行錯誤をした時期もありました。
ですが、結局ボクなりに得た結論は、ボクが書きたい原稿を書くしかないというわけで。

種々のお叱りや、激励はありがたくいただくとして、好きなことを書き続けることにします。

再度、引き続きご贔屓に!!

お久しぶりです。

2012-05-18 09:43:08 | 普通な生活<的>な
お久しぶりです!

最近、仕事に向かう電車で座れることがなかった。そんなわけでブログの原稿が書けなかった。
5年前ならいざ知らず、さすがに立ったまま書けるほど肉体のバランスも、良くない。

今日は座れたので、書くことにする。

2012年は、やはり大いなる転換の時で、多くの人々にとって劇的な、名状しがたい年になるに違いない。

政治・経済はもとより、その他のありとあらゆる人の営み、森羅万象の全てが目に見えて変わる。

その根本に、太陽の異変が大きく関わるのではないか。

現在の太陽が4極化していると、ついこの間研究、観察結果が発表されたばかりだが、昨日はスーパーフレアの起こる可能性が指摘された。

スーパーフレアは簡単に言えば、現在太陽表面では黒点活動やらフレア活動などが普通に起きていて、地球にも少なからぬ影響が及んでいるが、スーパーフレアは、その規模が通常のフレアの数百倍から1万倍とされる。

従って、その影響は計り知れないものになるわけだが、これまでは、スーパーフレアが起こるにはある種の惑星の関与という条件があり、我が太陽系に当てはまらないとされてきた。

だが、こちらも多くの観察結果から、条件とされたはある種の惑星の関与は絶対条件にはならない、つまりは我が太陽系の主の身にいつ起きてもおかしくはない現象ということになったのだ。

正直なところ、最近の気象異常の原因は、世間で言うところの二酸化炭素などの関与や間氷期といった地球に起因するものではなく、根本に太陽の存在があると、確信するようになった。
まあ間氷期は元々太陽活動の結果だが………。

そんなこんなで、地球を住処とする人々は、これまでとは異なる価値観、考え方を模索する、せざるを得なくなっているということなのだ。

新旧の思想から生まれる軋轢が産み落とす困難……そんな問題も起きてきそうだ。

何にしても、新しい思想、新しい時代を作るという気概、それがいまから必要とされるようになるだろう。

富士山の活断層

2012-05-14 13:18:28 | 普通な人々<的>な
富士山の麓、というより山の下15kmを走る30kmにも及ぶ活断層が存在する可能性が指摘され、恰好のテレビねたに。それ以降、活断層論議が喧しい。

富士山直下の活断層のズレや歪みが引き起こす地震の震度は、最近流行の震度7だそうだ。

江戸期の宝永の大噴火の時には、この活断層は動かなかったのだろうか?

万が一のことが起きた場合、山体崩落とやらで御殿場辺りは壊滅するそうだが、そんな局所的な被害で済むわけもない。

富士山の噴火を誘発すれば世界的な気象への影響を免れない。

ただし、この活断層の動く可能性は数千年単位だそうだ。

そうは言っても、東海地震などが活断層の動きを誘発しないとは言い切れない。そう考えてしまうと、活断層地震の可能性も、70年以内に起きてもおかしくはないということになる。

難儀なこっちゃ。

だからあまり深刻に考えない方が良いというわけにはいかない。

だからこそ、真剣に 向き合うことが必要だろう。

話は変わるようだが、実は地続き。あまり書きたくもないのだが、東電の話。

東電は事業者の電力料金に続いて、一般家庭用電力料金の10パーセント値上げを申請、7月からの値上げはほぼ確定、庶民の懐具合は、一層ひっ迫したものになる。このことによって、日本経済の冷え込みは決定的で、本当なら、それによる損失を、東電及び民主党政権に責任を持って補填してもらいたい。

庶民を無視し、おおよその人々、企業の意向になんの反応も示さず、淡々と作業をこなしているように見えてきた。政府もまるで規定の路線であるかのように、やはり淡々と受け入れる。

ものすごく穿った見方をすれば、この連中、なにかの意向に従って動いている。そして、その意向の先に、日本の東半分はすでにだめだとの判断があるようにしか思えない。

要は、ここでごり押しして反感を買おうが買うまいが、どうでもいいと判断しているようにしか見えないのだ。

その根拠は、一つしか考えられない。

東日本の放棄。

こんなことを考えていたら、熱が出てきそうな塩梅。

神田川

2012-05-12 13:47:38 | 普通な生活<的>な
神田川沿いの遊歩道を歩きながら、この文を書いている。

高田馬場の明治通り辺りから、江戸川橋に至るまでの約2、3kmは見事な桜並木を堪能出来る。この辺りが桜の名所だとはしらなかった。
 
今年の桜の季節には二度ほど歩き満開の桜花を愛でた。

今はさぞかし緑が映えるのではと、早めに家を出て歩いているわけが、思った通り!
少し肌寒いが、緑は見事で歩いた甲斐があった。

………………

そうこうしている間に仕事先に着いてしまい、今まで一仕事。

少しの休みに、これを書いている。
なにか尻切れトンボだが、ここでひとまずさようなら。

寒い、寒すぎる!

2012-05-10 20:21:13 | 普通な人々<的>な
なんという不順な天候。この寒さは、やはり異常だろう。

なにか、人の知力ではあずかりしることのできない、人智を越えた天の所業ででもあろうか。

と、気取ってみても寒いことには変わりがない。

このまま秋でも来そうな塩梅。

いま西武拝島線の小川という駅で電車を待っているところ。

電車は来ない、震えるほど寒い。

なんだか身の内の奥の奥まで冷え切った感が、寒さをひとしおにしている。

もう、地震の事など忘れている?

2012-05-09 22:48:28 | 普通な人々<的>な
 喉元過ぎればなんとやら……。
 もう、多くの人は地震も津波も忘れはじめている。
 いや、むしろ人間という生き物は、忘れるようにできているといった方が良いかもしれない。
 忘れることが、当たり前のことなのだ。
 忘れなければ生きていけないと言い換えても良いかもしれない。

 とはいっても、忘れてしまうことの恐ろしさは、実は人間が一番よく分かっているわけで、忘れることは当たり前ではあるけれど、忘れる前に次の世代にしっかりと伝える作業をしなければいけないとは思う。
 ところが次の世代はすでに、実体験を伴わないから言葉だけで理解し受け継ごうとする。言葉は空洞化し、実の伴わない、痛みや苦悩もないぺらぺらの伝達書のようなものを受け継ぐ形になっていく。

 戦争体験などは明らかにそうだ。すでに戦争の恐ろしさを知っている者はこの日本にはほとんどいないし、世界にも紛争地帯の人々以外にはいない。この事実が、実は再び戦争を招く。なにしろ戦争の恐ろしさも痛みも、実は理解できない世代が大半を占めているのだから。

 これはなんでもそうなのだが、次の世代に受け継ぐと言うことがどれほど至難の業か、誰でも知っている。
 善きことも悪しきことも、どれほど伝え難いか!

 よく言われるのが、会社の創業者とその跡継ぎ。二代目は創業者の苦労も多少は理解できるから多くの場合「専守防衛」的なスタンスで会社を守り抜く。だが三代目は、苦労も知らず多くの場合会社を潰し、傾かせる。

 要は、肝心なもの、大切なことが喉元を過ぎてしまったわけだ。

 地震、戦争、会社の経営はまるで無関係のことだけれど、この「喉元過ぎれば~」という「律」は同様に働く。

 だからボクらは、伝えることの大事さをどんなモチーフであれ、常に自覚し続けなければならないのだ。喉元を過ぎる前に、喉に手を突っ込んで引きずり出してでも、人々に実記憶として引き継いでもらわなければならない。

 どんな些細なことどももだ。

 だからもの書きは、自分の喉元を「鵜飼の海鵜」のように縛り上げ、物事が喉元過ぎ去ることを拒絶し、どれほど貧しくとも生き残り、書き続けなければならないのだ。

ちょっと異常な人々

2012-05-08 09:40:00 | 普通な人々<的>な
 少し前に、千葉か何処かに「布団叩きおばさん」と呼ばれた女性がいた。
 布団を叩きながら、周囲に住む気に入らない人々を大声で威嚇し罵倒する。あまりの異常ぶりにテレビでも取り上げられ、「布団叩きおばさん」と呼ばれるまでになった。
 こういうタイプの人がいるということは、テレビでの報道をまつまでもなく、何気に知っているというか、理解はしているのだが、実際に自分の身近に現れるとその異常さには目の眩むような衝撃を受ける。
 ましてやその矛先が自分の家族に向けられているとなると、「異常」と言って切り捨ててしまうこともできない。

 我が家は、突如そうした環境の真っ只中に放り込まれた。

 どう対処するか、いま必死に考えている。まだ昨日今日の話なので、実際の行動には行き着いていない。

 世の中、なにが起こるか予測もつかないが、こういうことは流石に予測の範囲外。

 なにか良い対処法があれば、御教授願いたい。

送れた!

2012-05-07 09:31:30 | 普通な人々<的>な
 送れた!
 そうと分かれば、活用するだけ。ただ、タッチパネルの反応が良すぎるのと、電池の消耗が早いのとは、難儀かもしれない。
 それにしても、恐ろしい世の中になったものだと、心底震える。

 このネット社会の行き着く先は、いったいどこなのだろうと、真剣に考えてしまった。結論は出ないけどね、まだ。

二十歳のエチュード

2012-05-04 02:00:04 | 普通な人々<的>な
 「人生不可解」の言葉と同時に、「二十歳のエチュード」という本のことも思い出していたオジサンなのであった!

 「二十歳のエチュード」とは原口統三という、やはり昭和21年10月に、若くして自らの命を絶った青年が書き残し、友人に託した三冊のノートに記された文章をまとめた、いってみればエッセイのような本。

 内容的には、ニーチェやドストエフスキーといった近代の叡智に身を寄せながら、若さゆえに自分自身も周囲のことも、非常にシニカルに眺める視点から離れられないという、青年の青年らしい著作。

 こんな書き方をすると、どこかから誰かの叱責が聞こえてきそうではあるが、あえて書けば、戦後間もない時代の一高生(現・東大)の心情を表してあまりある内容ではあるが、今の時代相には寄り添うことのできない内容の本だろう。

 ボクがこの本を読んだのは、高校2年のときだった。だから16歳。これでもそれなりに多感な少年ではあった。ちょうど『現代の戦い』という処女戯曲を書いて、高校演劇コンクールに参加し、東京都で2位の成績をいただいた年で、心の内と外を垣間見始めていた頃合だった。

 ボクはこの『二十歳のエチュード』をほぼ半年間、座右の書のようにして常に持ち歩き読み続けていた。そして現代国語の授業で、「友へ」というような内容の文章を書く機会があった時に、「原口統三へ」と題する文章を書いて提出した。

 すると、忘れた頃に現代国語の女性教諭が、「今日は先日書いてもらったものの中から、一篇、朗読させてもらいます」といって、あろうことかボクの書いた「原口統三へ」を読み始めたではないか。

 ボクはまるで原口統三を、自分の友人のように見立てて原稿を書いたのだが、それを女性教諭は、現在進行形の、ボクと自死した原口という友人との間のできごとと誤解をし、その内容に「胸を打たれた」といって朗読したのだ。そして後からボクに「気落ちしないように」と激励までしてくれたのであった。

 ボクは正直、変形させた読書感想文のつもりで書いていたものだから、なにかその教諭の誤解がおかしく、泣く振りをして笑っていたのだった。

 こんないやらしい高校時代のことも、思い出してしまった。