普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

あちらこちらと経巡って、最後はゴールデン街

2016-10-23 02:27:11 | 普通な生活<的>な
今日は奥さんと二人で、あちらこちらと経巡りました。あちこちといっても、新宿のあちらこちら。

新宿はボクの青春の町だし、若い頃に奥さんと飲み歩いた町でもあります。

新宿三丁目の「HUB」でポテサラをつまみに少しだけビールを飲み、これからの日本の行く末を論じていたのですが、となりに30歳くらいの女性軍団がいて、やたらにでかい声で気勢を上げるもので、気分が削がれて早々に出て散歩。

そして奥さんが前から行きたかったという、花園神社傍のビルのB1階「酛」という日本酒専門のお店に行ってみることに。

なぜか、奥さんの故郷・灘の酒は一つもなく、ボクの故郷の島根の酒が4種類(一つも知らなかった)もあり、結構テンション上がりました。「出雲富士」という、相撲取りのような銘柄の酒が、悪くなかった。

そして、なんとなくいい気分で外に出ると、急に、その昔「はみ出し劇場」で外波山文明氏と一緒に東北・北海道を角付けして廻ったことを思い出し、ゴールデン街で「クラクラ」というバーを経営しているという話を聞いていたので、ちょっと寄ったりしてみました。

かわいらしい女性がカウンターの中にいましたが、外波山氏はおらず、残念ながらビールを一本だけ飲んで引き上げました。

ゴールデン街ですから、カウンターだけのお店でしたが、なんの帰りか数人の「おじさん」がビートルズやらモンキーズの話に興じていました。ドンピシャの世代感で、聞き耳が立ちました。

こういう感じは悪くないですね。

またいつか奥さんと、新宿を散歩してみたいなと思いましたが、果たしてそれは可能なことなのか? ひょっとすると、できない相談なのかもしれないと……実は「HUB」で論じていたのはそんな話でした。だから、ゴールデン街に行っちゃったのかもしれません。

ボクの故郷のすぐ隣りの鳥取県で大きな地震がありました。今年の5月に、もう故郷を訪ねることができなくなるのではと、強行軍で神戸から鳥取経由島根行きを敢行しましたが、実はこんなことを予見していたんですね。

大きな地震でしたが、それほど大きな被害はなかったようですが、友人が避難所生活を始めたことを知り、心のどこかが痛んでいます。ただ彼女のFBはやたらに明るく、そこだけは「いいね」したくなりました。

それにしても、新宿界隈を徘徊する楽しみに関して、この続きはいつ書けるのかなと。

東京「昭和な」百物語<その15> 254円? 本当は240円!

2016-10-18 14:47:00 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクが生まれた1949年には、戦後という言葉もリアルで、まだまだ労働の現場も混乱し、大の大人も仕事にありつけなかったらしい。

就職ができたのはエリート、手に職を持った人間の類で、復員してきた一般労働者はその日暮らしを余儀なくされていた。

そこで東京都が打ち出した施策が、職業安定所の支払う日雇い労働者への日給の定額化だった。その額は240円。当時は今のような百円硬貨はなく、百円札2枚と十円札4枚が支給された。

つまり百円が2個に十円が4個。縮めてニコヨンというわけだ。このニコヨンという言葉は結構長く使われていて、ボクが物心つく頃にも、日雇い労働者の別称として言葉としては生きていた。同じころ、タコ部屋という言葉もよく聞いた。

ただ就学年齢に達する頃のボクは、ニコヨン=254と勝手に解釈していて「たったの254円で働くのか!?」と自分の将来に暗澹たる思いを抱いていた。
それが百円2枚と十円4枚と知ったのは、20歳を過ぎてだいぶ大人になってからだ。

当時はニコヨンという言葉はどちらかというと使われ始めた頃より、だいぶ侮蔑的なニュアンスが与えられ、ドヤ街と呼ばれた簡易宿泊所の集まる地域(ドヤは宿をひっくり返した言葉だ)で暮らす日雇労働者に対する蔑称となっていた。

1970年頃はまだ三大ドヤ街と呼ばれた、関西の釜ヶ崎(いまの西成あいりん地区)、横浜の寿町、そして東京南千住の山谷が普通に存在し、当時の学生運動・労働運動で政治犯的扱いを受けた者が逃げ込み紛れる場所でもあった。

高度経済成長の陰で、多くの日雇い労働者がこのドヤ街で生活していた。

それでもいまではドヤ街も、外国のバッグパッカーのための安宿の提供などで、かなりその存在理由も変化している。

いまでもやっているか未確認だが、西成の飲み屋でジャズコンサートが開かれているという、ちょっとにんまりするようなニュースに接したこともある。

それにしても。

なにやらいまの社会の労働の質が、昭和のニコヨンという言葉を使っていた時代相と、妙に似ているような印象をボクは持っている。

ブラック企業やら派遣などという言葉にも、ニコヨンと似たようなニュアンスを感じる。

労働という尊い行為が、一部の金持ち連中を太らせるだけ太らせているという事実にはうんざりするが、ニコヨンなどという言葉が使われる世の中には戻らないようにと願うだけだ。



東京「昭和な」百物語<その14>閑話休題「2.26事件」

2016-10-16 18:34:10 | 東京「昔むかしの」百物語
いまや2.26事件など、歴史の中の一事件としてすら、覚えていない人の方が多いのだろう。

昭和11年の出来事で、立派な昭和の一事件。もちろんボクは生まれてはいないけれど、よく考えたらボクの生まれる「たった」13年前の出来事だということに、改めて驚くわけだ。

ざっくりいうと、所謂戦前の皇道派と統制派の主導権争い(本当はそれほどの争いをしていたわけではなく、軍主導の皇道派に対するアンチテーゼが統制派の実態のような……)の果てに、北一輝や西田税等の民間煽動家にたきつけられた形で、皇道派青年将校が企てたクーデターが2.26事件だが、(このあたりの理解とニュアンスはそれぞれに異なるだろうが……)映画やドラマで再現されることも、今の世相下では最早ありえないといってもいいかもしれない。

そうした歴史に埋没しかけている一事件だが、僕には結構身近な歴史的案件で、時々ふと思い出すことがある。

何の前触れもなく思い出すのだが、今日もなぜか思い出した。

その理由は、以前にもどこかで書いたかもしれないが、ボクの母が2.26事件の時に間近にいたという事実による。

ボクの母は、旧姓を田中茂子といい、昭和11年当時勧銀でタイピストをしていた。後にタイピストとして海を渡り、ボルネオの陸軍前線基地で過ごすなどしたハイカラなおふくろだった。

その彼女が2.26事件当時のことを時々話してくれたのだ。

当日は雪が降っていたこと。出社するとなにやら勧銀も不穏な空気に包まれたこと。なにが起きたかわからないまま、仕事にならず、当時家族と住んでいた中野まで雪の中を歩いて帰ったことなどを聞かされた。途中多くの将校が行きかう姿を見たらしい。

当時の勧銀がどこにあったかは聞き漏らして定かでないが、大手町とか内幸町とかの辺りだったのではないだろうか。

2.26事件は、総理官邸、蔵相私邸、教育総監私邸、侍従長官邸などを中心とした10数カ所を舞台に1400名に上る皇道派青年将校が一斉に蹶起し要人の暗殺を謀ったもので、多くは午前6時前には決着がついていた。その後、新聞社などの報道機関を抑えにかかり、蹶起は一応の成功を収めたかに見えたが、頼みの天皇陛下は激怒し「賊軍」とみなした。

そして急速に事態は収束に向かい、29日には「討伐命令」が下り、クーデターは終焉した。

こうした歴史は、今や日本という国家においては全く意味のない歴史といっていいのかもしれない。軍部のクーデターなどという言葉を、リアルに受け止めることのできる日本人など、もはやほとんどいないだろう。だが日本は確かにそうした歴史を刻んだ国家ではある。

ここで2.26事件を取り上げる意味は皆無だ。ただ目の前に母の写真があって、急に母の話を思い出したに過ぎない。

伊東昭義美術館

2016-10-15 04:42:02 | こんなことを考えた
皆さんは、伊東昭義というアーティストを知っているだろうか?

おそらく知らない人がほとんどかもしれない。ただし、知る人は誰よりも知っていると思っているのではないか……。

世界のユネスコが、アーティストとして認めた伊東昭義。
2015年6月にはユネスコの本部で作品展が開催され、多くの人々が詰めかけた。
ユネスコが特別なわけではない。スミソニアン美術館が、イタリア・アリナリ国立写真美術館が、フランス・ポルトドレ水族館が……。
とにかく世界は伊東昭義を知っているばかりでなく、待望している。

その伊東昭義のフォトアート(単なる写真作品ではない。ばりばりに加工した写真ではさらにないのだ)を展示する伊東昭義美術館に行ってきた。目黒の大鳥神社の斜め前、ヤマハのほぼ真ん前にある3階建てのモダンな外観の美術館だ。

そして僕は、すっかりと伊東昭義の世界にはまってしまった。

美しい。とにかくその海の中の世界を切り取った作品群は、ただただ美しい。
そのビビッドと言うにはあまりにも美しい色彩が、目の前にあると、人は、と言うより僕は色を失う。ただ見つめるしかなくなる。

もとより海の底は無音の世界なのだが、突然頭の中で音が鳴り響く。はっきりとしたメロディーを奏でるわけではないのだが、リズムやハーモニーを感じるのだ。

なんなのだろうか?

地下1階の展示スペースには、大型の透過光作品が展示され、いやまして色彩があふれる。だが、その中に、大型の色彩を失ったかのような作品がある。「海底砂漠」と題されたその作品の前で、僕はしばし時も空間も忘れたように、立ち尽くした。

また来たいと心底思った。

残念ながら、伊東昭義作品をここでは著作権の関係もあり紹介はできない。
だから美術館のあらあらを書いておく。時間を作って観に行ってみてください。

【伊東昭義美術館】
〒153-0063 東京都目黒区目黒3丁目11番3号
(目黒駅から権之助坂を降りて、山手通りを超えた大鳥神社の斜め向かい)
☎03-6451-2123
営業時間 10:00~17:00(毎月休館)
HP http://www.ito-art.com/
(残念ながら、すでに閉館されているようです)

6月20日の原稿への返答

2016-10-15 00:11:52 | 普通な人々<的>な
今日、奥さんと言い争った。

若いな、と思う。

要は、この世の実相とパラレルな世界観の認識の相違についての議論の果てのこと。

「の」ばかりが続く。申しわけない。

それはそれで……。

互いに聞く耳があればいいのだが、聞くより言いたいことの方が勝るのが一般的な議論。互いの主張は主張として、とはならない。

6月20日に「もう一度。僕の認知しない世界は存在しない」というタイトルで、概ね「~僕の知らない世界は、存在しない。この言葉には、二つの意味がある。一つは、僕が知りえない世界は存在しない世界も同然という意味であり、もう一つは僕はすべての世界を知っているという意味としても理解できる~」
というような内容だった。

これを思い出しながら、奥さんと話していたのだが、議論は決裂してしまった。

しかし……。

こんな話で熱くなれる夫婦って、嫌いじゃないなあ。



就職活動中

2016-10-06 15:33:29 | 極端な生活<的>な
いろいろと人生にはあるものですが、67歳という年齢ではありますが、さらに就業すべく就職活動を始めようと思っています。

仕事をしなければ、いまの日本では死にますからね。

僕の能力は自分自身で考えても「捨て難い」。

シニア世代でありながら、いまの若者並のWEB理解ができ、しかも活字はお手のモノで、両者の制作現場の実際も経験していますから。

もっと言うと校正・校閲のプロでもあります(このブログはあまり見直さずに書いているので、時に表現や誤字の取りこぼしはありますが……)。

そうした自分自身の特性を活かして、自分で仕事を起こすことも視野に入れていますが、これは周囲に協力者ばかりでなく、助言をくれる関係者の存在も不可欠で。

そうなると、同世代あるいは一世代上の方の協力が必要なわけですが、WEB関連の助言はほとんどもらえないということなんですね。自分で切り開く道ということになりそうです。

それにしても最近のITやWEB関連企業は、当たり前ですが僕世代の社員を雇うことはほとんどありませんね。年齢で線引きをする。

企業展開の上から、業態により就業者の年齢構成を考えるのは当然ですが、WEBが若者の専権業種などという思い込みは引っ込めて欲しものです。

シニア向けのものであれば、シニアが作るのが一番ですから。

そんなわけで、就職活動前の自分時間に、久しぶりに家族のお弁当を作ったり、掃除や洗濯などの家事をしたり、少しだけ楽しい時間を過ごしています。