普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

「不二」の概念

2019-07-01 09:52:36 | ちょっと宗教<的>な
久しぶりの宗教的アプローチ。

今回は「不二」という仏法の概念を再確認します。この維摩経に登場する法門に対しては、それこそ哲学者、仏法者がこぞって自説を展開しています。そのいずれもが、各々の境涯に即して「正しい」と思われます。誤解も甚だしい意見なぞ、ほぼありません。

「不二」という言葉は、なにも難しい言葉ではありません。「二つとない」という意味もありますが、むしろ「二つではなく、一つ」「別のものに見えても、一緒のもの」という意味ととらえた方が良いと思います。

色心不二、依正不二などが良く登場しますが、最も良く使われるのは「生死不二」という言葉でしょうか。

「生と死は生命のまったく正反対の状態を指しているように思えるが、実は全く切り離せない、同じ意味合いを持つ生命の状態」ということになるでしょうか。

この言葉のもっとも現代的な説明を試みればそれは量子論の「量子もつれ」ということになりそうです。

「量子もつれ」は、中国の道教の「太極図」を思い返すと、わかりやすいかもしれません。



「太極図」の白黒の巴は、それぞれに陰陽を表しているわけですが「陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず」と言うように、片方が白であればもう片方は黒となる、陰と陽が対になって世界の相貌があるわけです。

「量子もつれ」も簡単に言えば、対の粒子の片方がプラスの方向性を持てば、もう片方はどこに居ようがマイナスの方向性を持つ、という性質を持っているという意味合いのようです。

厳密に言えばニュアンスは異なるのでしょうが、意味合いはなんとなく似ています。

陰陽そろって初めて、一つの何事かを形成するということです。

量子論、道教、仏法はその思考の深さには雲泥の隔たりがありますが、わかりやすく言えばこんな感じ、ということです。

思うに「不二」という概念は、日々の生活の中で、どんな具体的な在りようを示すのでしょうか?

朝起きて、漫然と顔を洗い歯を磨き、大あくびをして着替える……というボクに、不二の法門はどんな在りようを示してくれるのでしょうか?

ボクは仏法者ですが、良くわかりません。

ただ、朝起きた瞬間に、浮き立つような心があれば一切の抵抗がなく起きることができます。顔に掛かる水が気持ちよければ、大きく深呼吸して気を整える気にもなります。口腔が気持ちよければ爽やかに出かけられるというものです。大あくびは体の中に新鮮な酸素を摂り入れることでもあり、頭もスッキリします。着替えは気分を変えてくれます……というわけで、色心不二という概念は日々の生活に密着しています。

まあ、本当のところそれほど簡単な話ではないんですが……。

話は変わりますが、名門洋菓子屋さんの「不二家」さんは、二つとないという意味合いでつけられた屋号なんでしょうかね? 

ちょっと調べたら「二つとない」という意味合いもありますが、創業者の「藤井姓にちなむと共に、日本のシンボル富士山を意識」とHPにありました!

藤井さん=富士山=不二山=不二家さん、ということでしょうか?

そう言えば富士山には不二山の他にも、仏法的な表現があります。

その話は次回ということで。

法華経の宇宙観 あれから1年5ヵ月 その②

2016-04-12 19:46:14 | ちょっと宗教<的>な
2014年11月18日に「法華経の宇宙観」という原稿を書いて、すぐに続きを書こうと思っていたのに、気がつけばあれから1年5ヵ月もたっているという、時間感覚の不埒さ……。

追いつきませんが、それがどうしたということで……。あの続きを。

あの時、二処三会ということを書きましたが、最近少し違う印象を持ち始めています。

二処三会って、本当は一処三会だったのだろうという認識。

つまり、映画館に入って椅子に座ってポップコーンをつまみ隣りの友達と喋っている内に、場内が暗くなって映画が始まり、映画が終わり場内に明りが戻る……みたいな。ボクはどこへも行っていないのですね。

ただ、そこに集ったあらゆる生あるものが、同じ映画というイリュージョンを体験するわけで、そうでなければ成立しないことなのですね。そのイリュージョンを仏は見せてくれたということです。仏は名映画プロデューサーか⁉ ということですね。

もし一処三会であっても、法華経の価値は微動だにせず、むしろさらに深い認識へと誘われるわけです。

どういうことかと言えば、世界はあらゆる生あるもの一つひとつに、それぞれの世界として備わっているもので、生あるものの数だけ世界は存在しています。パラレルに。

その世界はそれぞれに独立しているのだけれど、横断的に共通項を持っているわけです。その共通項は幾つもあるのですが、代表的なものは「言葉」です。

ことに宗教的な概念は、体験という強力な認識の道具・方法はありますが、概ね言葉で共通認識を持ちます。

例えば先ほどの映画館の話ですが、映画という共通項、その共通項=イリュージョンを理解するための映像と言葉(音も含めて)、それがそれぞれ一つひとつの世界と映画の世界とをリンクさせます。

観ているイリュージョンはたった一つですが、リンク先ごとにその相貌を変えていきます。つまり理解が少しずつずれてくるわけです。ところがそれこそが仏の狙いなのですね。受け取る生命の相貌(境涯)にあった理解しかなされない。そのズレの隙間に仏は入り込み、一つ一つの生命と向き合っていくのです。

十界互具論はそこで発動します。

十界互具は、ただ一念三千の百界を説明するためにあるものではなく、今様に言えば「フラクタルな世界」の説明なのですね。無限に生滅する世界とその世界を支える一つひとつの生命の形です。常に変化しているけれど、生命という本質的な形を生み続ける源。百界どころの騒ぎではないのです。無限界です。

そうなんですね、生命は際限もなく生滅し、永遠なんです。

法華経は、その生命を説明している経典。最近ボクはそう思っています。成仏の記別とは、生命が永遠であることを知ることなのではないか。それだけなのではないか、です。

だから仏とは永遠の別名、法華経はその解説書、ボクは最近そう理解しています。

何度でも言いますが、これはボクの勝手な理解ですからね。なにかを下敷きに書いていることでもなく、あくまでボクの勝手な解釈。

それだけは、理解しておいてくださいね。

あ~! スッキリした。




法華経の宇宙観

2014-11-18 17:28:22 | ちょっと宗教<的>な
二十八の章(品)からなる法華経は、壮大な世界観・宇宙観の上に成り立っている。

最も劇的なのは、二処三会と言われる法華経の会座(釈尊の説法の場)の展開だろう。

序品第一から法師品第十まで、釈尊は霊鷲山で説法する。そして見宝塔品第十一から嘱累品第二十二では、大地から巨大な宝塔が涌出して、会座に立ち会っていたすべての釈尊の弟子と共に、大気圏をも突き抜けるかのような空中に転じた虚空会での説法となる。そして、薬王菩薩本事品第二十三から終章の普賢菩薩勧発品第二十八まで、再び霊鷲山での説法となる。

霊鷲山と虚空という二か所で、合わせて三度の説法を行ったという意味で、二処三会と言われる。

それぞれの説法の意味を、初めの霊鷲山での説法が「現在」を、虚空会での説法が「死後」を、二度目の霊鷲山での説法は「未来」を意味するものともいわれる。

そうした時系列に意味を見出すのも良いのだが、釈尊がわざわざ二処三会で説いた本質は何かという問いが最も大事なことなのだろう。

その一つは、明らかに予言の書であるということ。

予言と言っても、ノストラダムスやマヤの予言などの類ではない。

人間の生命を根本とする予言。どういうことかといえば、人が「成仏」するか否かという予言。そしてすべての生命あるものの成仏を予言して、法華経の説法は終わるのだ。

虚空会の説法で大地から涌き上がった宝塔は、かつては「2001年宇宙の旅」に描かれた「モノリス」に比定されたりもしたが、そのレベルのものではなく、その宝塔は多宝仏という釈尊とは異なる仏がコントロールする、宇宙の巨大さにも匹敵するような、宝塔だった。

<続く>

なぜか、こんなことを書いておかないといけないような気になっています。


信仰の根幹④

2014-07-21 20:43:53 | ちょっと宗教<的>な
世界三大宗教と呼ばれる、イスラム教、キリスト教、仏教にも、「呪縛」は存在する。

それも強力な「戒律=呪縛」、と同時に「脅迫」である。

一番わかりやすいのは、キリスト教の戒律「十戒」、「原罪」、そして「神」に対する「悪魔」の存在であり「二律背反」という教義、そして「地獄」という世界観。宗教なんだからあって当然と思われることなのだが、おかしな要素だ。

本当であれば、この「呪縛」、「脅迫」こそ、真実の現代宗教にはあり得ようもない要素だと、ボクは考えている。

なぜなら、宗教の現代的意味は「人々をいかに幸せに導くか」という一点にある。そういう意味では人々が幸せに暮らせる社会システム=「物」の整備と言った役割を担う政治的な要素と、目的は一応同じであると考える。

宗教の役割は当然、一方の「心」を担う。

だからこそ、「呪縛」や「脅迫」などのネガティブな要素は、入り込む余地もないのだ。

ただ、連綿と継承されてきた宗教の役割は、時代相と共に変化してきてはいるが、実のところ支配のための道具であったと言っても過言ではない。政治と不可分のモノとなったり、時として政治を遙に凌駕する支配機構として働いた時さえあった。

だから、巧妙に「呪縛」も「脅迫」も、すぐに其れとは分からぬよう教義としてカモフラージュされていた。

仏教にだって「五戒」があり「地獄」もあるが、キリスト教のようなあからさまな要素はない。

だが、程度の差こそあれ人々は宗教の「呪縛」と「脅迫」によって、支配され続けてきたのだ。

恐ろしい人間の歴史である。

いまでさえ、人々はこの「呪縛」と「脅迫」に服従するように、異なる宗教を奉じながら殺しあう。

殺しあわないまでも、罵り合うことくらいはする。

「~しなければいけない」という言葉のもつ負のファクターの面目躍如だ。

いい加減に、今どきの「マインドコントロール」という言葉と「呪縛」が同じ意味で、新興宗教も世界三大宗教も、身ぐるみはがせば同じだと気付いていいのではないか?

「呪縛」と「脅迫」を根幹に据える宗教は、世界三大宗教といえども、今では似非なのである。

断っておくが、ボクは無信論者ではない。仏教徒だ。だからこそ余計に、「呪縛」、「脅迫」への嫌悪が強い。それだけのことだ。

<完(一応)>

信仰の根幹③

2014-07-17 23:57:41 | ちょっと宗教<的>な
「~しなければならない」という言葉は、無条件の服従に繋がる。

無条件の服従とは、信ずることの強要を許すこと。信ずることを強要されることなど、誰も望まないし自分はそんな強要は跳ね返せると、ほとんどの人が思っている。

だが、たった一つ。自分が人生の勝者になるためには、そのことだけは「しなければいけない」と言われると、人はそうしてみようと思う。

そして一つ「しなければならない」ことをすれば、二つも三つも同じことになっていく。

例えば占いにしても、方位が、日時が、名前がと、様々な制約を受けるようになる。この制約を受け入れるのも「~しなければならない」ことをしているのと同じ。

そしてもう一つ。「~しなければいけない」ことをやって失敗したとしても、それは自分の努力が足りなかったからだと、ついでに思わされる。

なぜとなれば、そうすることでうまくいった人々がたくさんいるから、いやたくさんいるとということになっているから。次はもっと頑張ろう、と思わされる。

「~しなければならない」ことに端を発するスパイラルの完成、それも多くの場合は抜け出すことの困難な、負のスパイラルの完成だ。

これが似非宗教の「呪縛」だ。

そして似非とは言わないが、世界宗教にも同じように「呪縛」が存在する。

(続く)

信仰の根幹②

2014-07-17 00:08:40 | ちょっと宗教<的>な
一時、マインドコントロールという言葉を、宗教批判の鋭利な刃としてマスコミが多用していた。今でもそうかもしれない。

だが、マインドコントロールなしには、宗教どころか、政治も、経済だって本当は動かない。例えば「アベノミクス」だ。この言葉がなかったら、民主党政権から自民党主導の政治状況になって以降の経済のありようは、まったく別物になっていたろう。

どういうことかと言えば、善し悪しは別にするとして、「アベノミクス」という言葉のもつ、ぼんやりとしてはいるけれどある種の求心力に、国民は無批判にコントロールを委ねたところがある。なんとかなるんじゃないか? という思いを抱かされた。これはまさしくマインドコントロールだ。少し遡れば田中角栄の「日本列島改造論」も同じような力をもった言葉だった。

なぜ、言葉に「マインドコントロール」の力が備わるのか? 種々の意見はあろうが、ボクはその理由が「恐怖」にあるように思う。

このままいくと「ヤバい」んじゃないかという、潜在的な恐怖から逃れる方法論として、その言葉に付き従う。

「マインドコントロール」するための最高のモチーフは、「恐怖」なのだと思う。

恐怖から逃れる道筋、恐怖に立ち向かう勇気、恐怖をあるがままに受け入れる平常心……恐怖をどうとらえるかは、個人個人の資質によるところが大きいだろうが、恐怖をコントロールできれば、人々の生活の大半は結構楽しいものになるだろう。

だから、その恐怖心を克己、コントロールするための方法論として、「マインドコントロール」は機能する。

多くのシチュエーションで「マインドコントロール」的手法は多用されるが、それを最も効果的に使うのは、多くの似非宗教家だ。信者のコントロールのために使う。曰く「○○しないと悪いことが起こる」「毎日○○しなければならない」「○○への執着を捨てなければいけない」云々……悪しきマインドコントロールだ。

その最も効果的かつ強力な武器になる言葉が「~しなければならない」。まるで義務のように、人の生活の根幹からコントロールできる言葉。

(続く)

信仰の根幹①

2014-07-15 08:36:18 | ちょっと宗教<的>な
信ずることは、偉大なことである。

信ずることで生まれてくる、信じられないような力もある。

それを奇跡と呼んだりもする。

信ずることの可能性を、人は信仰というある意味「共同の幻想」として収斂してきた。

そして、幾多の宗教は生まれてきた。

宗教は幻想の産物である、と誰かが言ったと言う話は聞かないが、まさしく幻想の産物だ。

だが、幻想である限り、人々の信仰心は続かない。

人々に信仰心を継続的に持たせる、維持させるために必要なことはなにか?

仏教説話の中に「化城宝処」という物語がある。

簡単に言えば「辛い旅の行程の途中で、旅に付き従った大勢の人々が倦み疲れた時に、蜃気楼のような幻の城の姿を見せ、『あそこまで行けば休めるから』と、有体に言えば『嘘』で人々の意志と力を湧き立たせ、辛い旅を続けさせる」というようなこと。

本当は、ニュアンスとしてもっとポジティブなのだが、ボクにはポジティブな物語には感じられない。

むしろ信仰の、ある種マイナスの側面を端的に言い表しているような気さえする物語。

ではあるが、人々の信仰心を継続させる一つの方法論が、明確に提示されている。

だが、これなどまだ良い方法論だ。

(続く)




末法万年尽未来際

2014-05-15 21:55:39 | ちょっと宗教<的>な
未来は明るいものだと、大方の人は信じている。

未来は、決して明るいばかりでもないと言えば、まるで悪鬼のように罵られる。

「なぜそんな悲観的なことばかり言うのか? 明るい未来だからこそ、今日を頑張って生きる価値があるのに!」

そう言うのだ。その通りかもしれない。

ただ、暗い未来予測も確かにあるのだ。

明るい未来と信じている大半の人の未来は、概ね自分もしくは自分の周辺に関わりある人の未来という場合が多い。

暗い未来予測は、そうした身近な環境下の未来ではない。

それは、過去を俯瞰して言えば、1999年や2012年を終末の時とした未来予測などとして、結構華々しく脚光を浴びて登場した。こうした未来予測には、明るい未来などほとんどない。

そして、そうした未来予測は「科学的根拠を持たない」という、まるで万能ナイフのような一言で一刀両断される。大体が、嘘つき呼ばわりされることになる。

だが本当にそうなのかと、首をかしげる。

仏教では、今ボクらが生きている時を、末法であると言う。末法とは仏の教えが衆生の機根に全く入らなくなくなる、仏の法が空文化どころか、あることすら忘れ去られる時代だと説く。そしてそれは末法万年尽未来際=永劫とも思える時間続くという。

もちろんそうした時代ですら、仏の法で救済されると説く経典もあるが、基本的に末法は仏の教えが失われた、暗い時代と説く。

時ばかりでなく、仏教では今ボクらが生きているこの場=空間も、穢土と言う。穢土とは穢れ汚れた土地と言う意味だ。人々の機根すら穢土に相応しく穢れたモノであると説く。

法を忘れた穢れた機根の人々が、穢土に暮らしているのが、今の世界なのだ。そしてそれは、永遠に続くのだ。

そうした器の中今を生き、人々は近視眼的に見通す未来を「明日は明るい」と思い込んでいる。いやいや、ひょっとすると思い込まされている。

それが現実。

この世界の支配者は、世界中の人々が近視眼的にしか未来を見ないでくれる方が、どれほど支配しやすいか良く知っている。だから時に、支配の道具に成り果てた宗教は、歪んだ現世利益的なものだらけになっている。

未来を明るくするのは、心の奥低の真実を照らしだす真の宗教のみ? と言うことにしておく。

因果応報

2012-04-20 14:47:26 | ちょっと宗教<的>な
 仏教にはなかなか冷徹な法理がある。
 その最たるものの一つが、因果応報という法理。

 因果とは、原因と結果であり、応報とは、原因に応じた報いがあるということ。
 最近の人は、この「報い」という言葉を、悪い意味で理解する人が多いようだが、報いとは単に結果のことだ。

 本質的に仏教は、悪い結果を想定することなどほとんどない。因果応報の言葉も、原因があれば結果が生ずるという当たり前のことを、なんの予断もなく説明しているに過ぎない。

 どこが冷徹かと言えば、結果としての現在は、過去に必ず現在という結果を生む原因があったということなのだが、ほとんどの場合その結果を予測しながら何かを行なってきたことなどなく、畢竟なにが原因だったのかまったく分からない、詰まるところ、因果応報という言葉の持つ意味は実感できないままに終わるからだ。実感できないと言うところが、冷徹なのだ。それでも「因果応報」は、厳然とあるのだから。

 もっといえば、この考え方で行けば、いま自分が意識しようが無意識であろうが考え成していることが、未来の「果」を作っているわけだが、それがどんな結果になるのかなど、誰も考えながら生きてはいないし、よしんば考えたとしても「果」を想像することは困難だ。

 仏教で説く「因果律」は、実はさらに深く遠い所にある。
 仏教では永遠の生命を説く。従って、現在という「果」を生んでいる「因」はいつ生命に刻まれたものなのか分からないのだ。
 ひょっとすると、例えばボクが「加藤 普」として生きている生命とは異なる、過去世というまったくあずかり知らない、前世、過去世で作った「因」かもしれないのだ。

 そうなると、まったくあずかり知らない「因」ということにもなり、それが、従うべき法則「因果律」に律せられた「果」であるかどうかさえ、我々には分からなくなってしまう。

 と同時に、だからこそ日々を自ら律しながら生きようという、人間としての本源的な律に従うこともできる。その本源的な律=宗教=仏教に従うことの中に、因果応報も含みこまれるということなのだろう。

 だから、冷徹なのだ。
 こうした類いのことは、実は考え始めれば自分の人生にも深く関わりあることのように思える。その結果、なにか悪業だの悪因縁などという「威し」に自分の生命が屈服してしまうこともある。これが最も怖い。よくいう宗教のマインドコントロールは、多くの場合ここに潜んでいる。

 宗教の正邪を見破る一つの方法が、この「脅し」や「デメリット」が教えの中にあるかないかだ。もちろんないほうが正しいに決まっている。

一念三千の世界観の凄さ 2

2012-03-30 19:30:16 | ちょっと宗教<的>な
(前回の原稿の最後で「この続きは、また明日」と書いたが、すっかり「嘘つきハンス」になってしまった。携帯で原稿を書くことは書いていたんだが、長くなりすぎて投稿できなかった。ご勘弁を。
では、あらためて……)

さて、昨日の続きです。

それでは、一瞬の一念に備わる三千ものパラレルな世界とは、一体「なに」を根拠に示されているのでしょうか?

この根拠こそ、一念三千という言葉そのものにあります。三千という、具体的な数の根拠こそが、その答えです。どこから導き出した数なのか? ということですね。

天台大師はその根拠を、まず十界という人間の生命の有り様・境涯に求めました。
地獄 餓鬼 畜生 修羅 人 天 声聞 縁覚 菩薩 仏
この十界ですね。すべての人の生命には、まずこの十界が備わっているという、釈尊の教えを根拠にします。

そして、十界それぞれにはさらに十界が備わっていると、天台は説くのです。
地獄という生命の有り様の中にも仏界はあるとするのです。
すべての衆生、すべての生命を救い切るには、「地獄に仏」は不可欠だということです。
逆もまた真で、「仏の顔も三度」と奈落の底に突き落とされることもある。

十界それぞれにまた十界が備わるわけですから、都合百界の位層が生まれます。

この位層それぞれの中で、今度は自分の生命そのものがさまざまな姿になって顕れてきます。時には表情のように形を変化させ他に働きかけ、あるいは力で相手をねじ伏せようともします。さまざまの変化を見せます。それは因果という生命の約束事=法にコントロールされています。
その働きを十如是と言います。

如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等

この十の生命の顕れ方です。

そしてこの生命の顕れ方は、百界においても等しく顕れてくる。
従って、都合千の生命の立ち顕れ方がここではっきりとしたものとなってくるわけです。
だけれども、これで終わりではありません。

この先まだなにがあるというのかといえば、こうした生命の発現が、どんな場合におきるかという検証がされていません。簡単に言えば、一人の時なのか、二人の時なのか、それとも大勢の時なのかということです。

仏教ではその違いを「三世間」といいます。一人に対応するのが「五陰世間」、二人に対応するのが「衆生世間」、大勢に対応するのが「国土世間」ということになります。

千の生命の立ち顕れ方は、また三世間という「場」によっても変化してくる。
お分かりの通り、これで三千というパラレルな世界が完成しました。

天台の説く「一念三千」は、一瞬の思いはこの時間も空間も越えた三千の世界の中から、あなたが瞬時に選び取って外からの働きかけに対してなんらかの反応を示している、と言うことなのです。

これがあらあらの「一念三千」の説明ということでご勘弁を。

だけれども、これではただの理論武装が済んだだけです。一番大事なのは、「それがどうした?」という問いかけに応え得る、実践論的方法論的アプローチが、この「一念三千」に備わっていなければ意味がありません。

どういうことかといえば、こうした世界があるのが分かったのだから、なにか事あるときには、その働きかけに一番相応しく、また自分で納得できる対応の仕方ができなければ意味がない、ということです。三千の反応のどの「一」を自分で選び取れるのか。これが最も大事なことなのです。

長くなりました。この続きはまたあし……いやいや、また次回ということで。

一念三千という世界観の凄さ

2012-03-28 09:18:55 | ちょっと宗教<的>な
久しぶりにちょっと宗教的な側面に足を踏み入れます。

断っておきますが、宗教的なことを書くからといって、ボクが宗教のオーソリティということではありません。

興味があるというにすぎません。

そこのところを理解して貰った上で読んでもらえればと思います。

さて一念三千です。これは6世紀(隋の時代)の中国の天才僧、天台大師の説いた法門ですが、本当のところ非常に難解で深い。

携帯電話でちまちまと原稿を書くような内容では断じてないのですが、書くわけです。

そんなわけですから、難しいことは、どうしたって書けない。天台大師に詳しくまた敬愛してやまない方たちには、叱られるかもしれませんが、やっぱり書くわけです。

一念三千の考え方の基本も一通りではありませんが、決めうちでいきます。

さて、この一念三千が意味するところは、人の生命活動というのは、一瞬のことであっても一通りではない、瞬間的な生命活動にも三千もの選択肢が存在する、というものです。

まさに読んで字のごとく「一念三千」です。

選択肢と書きましたが、不正確かもしれません。なぜならこの選択は無意識の領域で行っているものであり、実際のところ、自覚的ではない。むしろ自分の意にそぐわないことの方が多いのです。

簡単に言ってしまえば、例えば突然、思いもよらぬ相手から恋心の告白をされた時に、あなたはどんな反応をするでしょうか? 反応の様は、少し考えただけでも幾つも思いつくでしょう。

車で人を轢てしまったとします。その瞬間、あなたはどんな反応を示すでしょうか?

いまは考えやすいように極端な瞬間を選んでいますが、人の生命活動、意識は、ボーっとした瞬間のことであっても、同じように働きます。

要するに、人の心の働きは、予定調和などということはなく、瞬間に移ろう心の連なりだと言うのです。

そしてその瞬間に選び取る生命の働きには、選んだ理由があり、それがその瞬間のあなたの境涯によるというのが、「一年三千」の大まかな主旨と言えるでしょうか。

簡単に言えば、人は常に一瞬の内に三千のシチュエーションをもっていて、そこから無意識の領域ではあるけれど自分でその瞬間に最適なシチュエーションを選択し、生きていると言うのです。

最適な選択と言っても、最良とは限りません。あなたの人生に必要な選択と言えば良いでしょうか…。

(長くなりました。ここまでを前編としましょうか…。続きは明日と言うことで)

仏教の世界観

2011-10-18 20:09:01 | ちょっと宗教<的>な
昨日、旧約聖書について書いたが、仏教について書いてみようと思う。

そもそもキリスト教などの死生観には、仏教の説くところの生命の永遠性が語られていない。

実はただこの一点に仏教が他の宗教と、異なる点が集約されるのではないかと思う。

そもそも生きることにどれほどの価値を感ずるかは、様々に異なる。

人によってそれぞれ違うと考える人もいるだろうし、そうではなく万人に等しい価値があると考える人もいるだろう。

ある意味、仏教以外の宗教は刹那的だ。今世の只今にこそ価値があると考える。

それは生命には限りがあり、限りあるものであるなら今を大事に生きることこそ、理にかなっていると誰でも思う。それは決して間違いではない。

一方仏教では生命は永遠であると説く。永遠であるが故に、今を大事に生きろと説く。因果であるとか、因縁であるとか、輪廻であるとかいう考え方は、そこに因する。

生命は永遠であるがゆえに、正しく大事に使わなければならない。それは言い表せないほどの価値と輝きを放つ宝のようなものだと、仏教では言う。

だから生命こそを至極のものとして、すべての価値基準をそこにおいて、物事を見、聞き、考え、語り、行動する。

同じように今を大事に生きると言っているのだが、その根本の部分が違うのだ。
どちらが良いかなどという議論をするためにこの文を書いているのではない。

アジアで生まれアジアで育った仏教の、底知れぬ哲学の一端を垣間見ただけ。

刹那的とも言えるキリスト教的世界観は、それほど遠くない将来に、駆逐されるのではないか、とちょっと思ったりしたわけです。

ユダヤ教 旧約聖書

2011-10-17 13:12:37 | ちょっと宗教<的>な
旧約聖書を読む機会があった。
もちろんあのインディアンペーパーみたいな紙に、ビッシリと印刷されたものではなくて、言ってみれば解説書の類。
それでも読み応えはあったが、読めば読むほど、これは宗教書だろうか? と思えて仕方なくなった。
創世記はまだよいのだが、徐々に民族の自慢話というか、非常に狭いエリアの出来事を記述し続けるだけで、なんの宗教的カタルシスもない。記述された内容から生活の規範を学ぶことはできるが、荒れ地の民のものであって、農耕民族には馴染まない。
神はわがまま一杯で、ちょっとイラついたし…。
それでもこれが、世界中の人々の半数近くが信仰の基礎に据えているのだと思うと、なにか有り難いもののような気がしてくるから不思議だな。
こんなことを書くと、信ずる人々には批判されるかもしれないが、くさしたりバカにしたりするつもりはない。
ただ読み物としては、記紀などよりはるかに面白いものなのだろうとは、思う。一度はあの一冊を読み通してみたいと思ってもいる。

阿頼耶識 阿摩羅識

2010-10-27 10:33:50 | ちょっと宗教<的>な
 人の世の移ろいほど儚いものはない。人の世とは、一体なんなのだろう? と、最近になって細々と考える。そして行き着いた結論が、以下に記すことだ。

 人の世とは、生きとし生けるものの意識の数だけあるパラレルワールドであると言うこと。
 例えば彼女と同じ方向を向いて、道を歩いているとしよう。彼女と僕の距離は50cmほど離れている。すると、同じモノを見たときに、すでに見る角度が違っている。見たものについて二人で語ったとしても、二人は別の角度から見たモノについて語るわけで、決して同じモノについて語っているとは言い難い。簡単な例えだが、これが全てだ。
 もしそのモノが三角柱で三面の色がそれぞれ赤青黄であったとすれば、そのモノまでの距離がわずかであればあるほど、そのモノの色は別の色として二人に認識されることになる。僕が赤い物体について語るとき、彼女は黄色い物体について語っていると言うことになるのだ。これが世界の実相だろう。
 誰もが自分の感知できる世界の情報だけしか知らない。知らない情報はないも同然なのだ。
 突き詰めれば、実のところこの世は一人の人間のモノでしかない。そう、自分の世界しか自分には認識できない。
 だが人間は、必死に他とのコミュニケーション手段を求め、獲得してきた。
 それは、ひょっとしたら自分と他人は違うものを見ているのではないか? という懐疑がどこかにあったからに他ならない。
 別の言い方をすれば、一人で居続けるのは、怖い。恐怖だ。だから、一人なのではないという証拠が欲しいのだ。それは「共通認識」とでも言えば良いのか、ある種の言語化された、あるいは「20世紀少年」の「ともだち」の記号のようにアイコン化された、共通意識のフィルターを通過することで、一人という恐怖を払拭できるのだ。
 そのコミュニケーションの手段の究極が、宗教だと思う。
 例えば仏教は、人間の「意識の階層」を明確に説いている。それは「五感」という具体的な認識装置(目、耳、鼻、口、皮膚)からはじまり、「六感」という無意識領域の感知システムにいたり、「未那識(七識)」という自分自身の無意識領域の更にその奥を覗く覗き窓があり、「阿羅耶識(八識)」に至りはじめて個の意識・無意識領域を超えた西洋的に言えば「アカシックレコード」のような共通意識、共有できる智慧の蔵があると説く。
 そして、その先に「九識心王真如の都(阿摩羅識)」と呼ばれる森羅万象すべての根本淨識、つまるところ「正しく揺ぎない、変わることのない心の働く場所」、言い換えれば「仏」の居場所があると説いている。
 人の世は、確かに「生きとし生けるものの意識の数だけあるパラレルワールド」だと思う。
だが、そのパラレルワールドを貫く「阿羅耶識(八識)」「九識心王真如の都(阿摩羅識)」という軸がある。そこに収斂していくことで、人間はバランスを保ち生きている。
 ちなみに「阿羅耶識(八識)」はユング的に言えば「家族・国家無意識」であり「九識心王真如の都(阿摩羅識)」は「世界・宇宙無意識」とでもいえるかもしれない。
 宗教は、「一人である」という「差異」を超え、意識・無意識を統合する働きがなければ、宗教とはいえないと、最近とみに思う。
 そして、儚い人の世の移ろいに、宗教ほど必要不可欠なものはないとも思う。

死後の世界を 生きてみる

2010-10-24 01:04:25 | ちょっと宗教<的>な
【最近書き始めた原稿の冒頭部分】

人は死ぬとどうなるのか? という命題に誰も答えたことはない。
「これこれこうなのではなかろうか」という答えを、多くの宗教が導き出しているが、それとても仮定でしかない。
 なぜなら死んで何処へか去った生命の痕跡は、どうあがいても追尾不能だし、生と死の境を越えて戻った生命もいまだかつてない。
臨死体験といわれる生死の境界を見たという経験を持った人々ですら、死後の世界を見たわけではなく、その手前から舞い戻ってきたのであって、死後の世界へと足を踏み入れたわけではないのだ。どうしたって、答えの出ることはない。
 死後の世界は、そういう意味では人間という生命の抱えた、いくつかある不可知領域のひとつといってもいいのだろう。だから同じような不可知の領域、例えば宇宙の果てといった極大であるとか、分子レベル以下の極小の領域にしても、その物理的限界すら想像の範疇にしかないのであって、畢竟、宗教的意識の入り込む余地が残され、死後の世界のひとつの可能性として示唆する人々もいる。
 人間の生命は宇宙大、というような発想自体が不可知領域の抽象的な言語化にすぎない。それなのに、多くの人々はその不可知領域に惹かれて止まない。
 わかっちゃいるけどやめられない、である。