立川駅北口の話を、前回したわけだがまだまだ言葉足らずで言いきれていないが、今回は南口に目を向ける。
正直、昭和・平成前期の立川南口はごちゃごちゃとした飲み屋街と、なにか猥雑な感じのする一帯の広がる未開発の地域だった。これといっためぼしいビルもなく、小口の雑居ビルがいくつかある程度で、他は小さな商店が軒を連ねていたような印象がある。
まぁ、あくまで印象で記憶が挿げ替えられているかもしれない。ただ、20年ほど前に何年間か地域のローカル新聞の取材記者をしていたことで、なぜ南口が北口のように再開発されずにいたのか、その理由はわかっている。
とても簡単な話で、まとまった土地の地権者がおらず、ほとんどが小口の地権者であり、それぞれの思惑から再開発が進まなかったということで、現在のような景観はやはり、モノレールの敷設を契機にできあがったものだった。
南口を降りると、駅前から飲み屋があり、多くのサラリーマンが管をまく光景が日常茶飯事だった。そして特筆すべきは立川の競輪場が北口側にあり、市に莫大な財政的バックアップを与えていたのだが、その車券が外れた競輪ファンが、南口の飲み屋に足を運んだ。買った連中は北口側で飲んだ。要するに、南側の飲み屋の方が安上がりに飲めたわけだ。
その棲み分けというか区分けは、今でも残っている印象だ。
そして南口には、もう一つの顔があって、それが極めて特異なものだった。それは柴崎町側に広がっている(いまでもまだ残っているが)真如苑という新興宗教団体の存在だった。今では主だった祈祷施設は北口側に移動しているが、全国に勢力を広めた真如苑の本部は昭和30年代から柴崎町の諏訪神社に隣接してあり、多くの信者が立川駅南口を闊歩していた。昭和の頃は町を挙げて真如苑をサポートし、町ぐるみ真如苑という印象だった。その代わりと言っては何だが、真如苑の信者が決まった日時の早朝から、立川駅南口周辺の掃除をやっていた。それは立川駅南口の風物詩的な捉えられ方までしていた。
実を言えば立川駅南口は、それしかなかった。そう言い切ってもいいエリアだった。
正直、昭和・平成前期の立川南口はごちゃごちゃとした飲み屋街と、なにか猥雑な感じのする一帯の広がる未開発の地域だった。これといっためぼしいビルもなく、小口の雑居ビルがいくつかある程度で、他は小さな商店が軒を連ねていたような印象がある。
まぁ、あくまで印象で記憶が挿げ替えられているかもしれない。ただ、20年ほど前に何年間か地域のローカル新聞の取材記者をしていたことで、なぜ南口が北口のように再開発されずにいたのか、その理由はわかっている。
とても簡単な話で、まとまった土地の地権者がおらず、ほとんどが小口の地権者であり、それぞれの思惑から再開発が進まなかったということで、現在のような景観はやはり、モノレールの敷設を契機にできあがったものだった。
南口を降りると、駅前から飲み屋があり、多くのサラリーマンが管をまく光景が日常茶飯事だった。そして特筆すべきは立川の競輪場が北口側にあり、市に莫大な財政的バックアップを与えていたのだが、その車券が外れた競輪ファンが、南口の飲み屋に足を運んだ。買った連中は北口側で飲んだ。要するに、南側の飲み屋の方が安上がりに飲めたわけだ。
その棲み分けというか区分けは、今でも残っている印象だ。
そして南口には、もう一つの顔があって、それが極めて特異なものだった。それは柴崎町側に広がっている(いまでもまだ残っているが)真如苑という新興宗教団体の存在だった。今では主だった祈祷施設は北口側に移動しているが、全国に勢力を広めた真如苑の本部は昭和30年代から柴崎町の諏訪神社に隣接してあり、多くの信者が立川駅南口を闊歩していた。昭和の頃は町を挙げて真如苑をサポートし、町ぐるみ真如苑という印象だった。その代わりと言っては何だが、真如苑の信者が決まった日時の早朝から、立川駅南口周辺の掃除をやっていた。それは立川駅南口の風物詩的な捉えられ方までしていた。
実を言えば立川駅南口は、それしかなかった。そう言い切ってもいいエリアだった。