普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

38.5度

2019-09-23 12:25:47 | 東京「昔むかしの」百物語
先週の三連休は、40度近い熱で、臥せっておりましたが、今週は38.5度の三連休でした。

しかし! 土曜日は奥さんと上野で飲み歩き。昨日はG3(じーさんと読む)会合で、大久保で飲み倒し、今日は臨時の仕事で小石川。

熱などどこ吹く風、ですね。

40度を間近で経験していると、38.5度はなんと言うこともないわけです。

あまり皆さんにはお勧めしませんが……。

台風の余波でしょうか、風が強い。

先週の熱で体重が3kg減となり、62kgとなりました。

飛ばされぬよう、用心して外に出ることにします。


東京「昔むかしの」百物語<その58>高尾山

2019-09-10 01:22:06 | 東京「昔むかしの」百物語
小学校の高学年、中学・高校時代、よく高尾山に登った。

昭和40年前後からの10年間ほどだったか。当時は登山道などまったく整備などされていなかった。なんと言っても修験道の霊場という認識のされ方の方が強かったと記憶する。

真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺の寺域ということは、子どもの頃から理解していた。

登山道らしき道は一応あるにはあったが、険しい山肌に繁る灌木につかまりながら、人ひとり通るのがやっとといった急なのぼり道でひたすら頂上を目指した。大人なぞいなかった。仲の良い友達と、半ばトム・ソーヤ―やハックルベリー・フィンの冒険のような気分で登っていた。

標高は599mと意外に低いのだが、修験道の山らしくそこそこに険しくボクの少年の頃は充分に楽しめるワンダーランドだったのだ。

ボクの登山コース、下山コースはほぼ毎回決まっていた。

まずリフト(と言っても今のようにスキー場にあるような腰掛式ではなく、足元が動くタイプだったと記憶する。乗ったことがないので横目で見た印象しか残っていない)を右手に見ながら斜面を登る。

そしてほとんど山肌を縫うような、人ひとりがやっと歩けるような道を登るのだ。結構な時間を費やして、ようやく少し広い寺の参道らしき道に出る。そこは当然薬王院のそれとわかる敷地内。

ところがここがなかなかの道で、全長40㎝、直径2㎝はありそうな巨大ミミズが、行く手を阻むのだ。もそもそと蠢く巨大ミミズを避けながら登り続けると、やがてその辺の都会の公園ほどもない頂上にたどり着く。

そこで持参した水筒の水でのどを潤し、握り飯などをぱくつく。それだけで十分楽しかった。

帰りは必ず相模湖を目指して下山した。川のせせらぎを見ながら降りる道が好きだったからだ。

2018年の秋、奥さんと60年振りの高尾山登山。ただし途中のビアホールで一杯やろうという、いかにもな登山理由で、もちろん歩くことなどなく、のぼりはリフト,下りはロープウェイでの往復。

それでも子どもの頃の、わくわくどきどきを思い出した。

なにも整備などされない生のままの山歩きができたのは、それこそ昭和までだったかもしれない。平成に入る頃には「あれをしたらアブナイ」「安全でなければ無理」「子どもだけでそんな危険な⁉」という空気になったから。

いま思い出しても、なかなかの冒険だった気がする。


FAXAI(ファクサイ)

2019-09-09 00:22:30 | こんなことを考えた
東京は、台風15号の直撃コースに入っており、神津島で瞬間最大風速58m以上を記録したと、ニュースが伝えています。

日本は地震多発地帯であるのと同時に、台風の通り道というある種の宿命にも似たものを抱える国家ですが、それでも東京は最近は台風の直撃を受けることなどありませんでした。

しかし今回の台風15号は、もろに東京を直撃するコースを辿っています。

昨年の21号台風での風の被害は、目に焼き付いていますね。自転車置き場が根こそぎ自転車もろとも空に巻き上げられる様や、大型トラックが橋の上で風にあおられ横転、その横を小型自動車が橋の上から海に放り出される勢いで横滑りしていく様など、風の脅威をまざまざと見せつけられました。

いまはまだ少し強い雨が降っている程度ですが、これから夜中の3時頃をピークに、おそらくは我が家の真上辺りを台風の中心が通り過ぎていくようです。

いま見た予報では、もう少し都心寄りかもしれません。いずれにしても台風の中心は東京上空を通過していくようです。

そう言えば最近の台風には名前が付けられているようですね。

昨年の21号台風は「チェービー」だったかでしたが、今回の15号は「FAXAI(ファクサイ)」だそうです。

なんだかクシャミのような塩梅ですが、国際的に既に決められている140の台風の名前の一つだそうです。発生順に端からつけていくそうです。

あまりだらだらと居座り続ける台風よりは、いっそ潔くサッと来てサッと通りすぎてくれる方がまだましです。

皆さん! なにはともあれ十分にご注意を!!

タイトル変更

2019-09-06 01:27:37 | こんなことを考えた
事後報告です。

永らく「東京『昭和な』百物語」というタイトルで書き続けてきたカテゴリーの原稿を、第57回をもって「東京『昔むかしの』百物語」と改めることにしました。

この5月に「平成」は「令和」へと移り、気づけばボクは、「昭和」」、「平成」、「令和」と三代の御世を生きてきていることになりました。

改めて考えてみるに、ボクがまだ青年だった頃、「明治」生まれの父と「大正」生まれの母の、その「明治」と「大正」という年号は、いかにも過去で、古臭いもののように映っていました。

してみると、今の年若い人たちにとって「昭和」は、ボクの中での「明治」に他ならないのだなと思ったわけです。

「昭和」は行き行きて帰らぬもの、です。

ひょっとすると「令和」に生きる若者にとって「昭和」は、ボクにとっての「江戸」くらい過去に映っているのかもしれません。

どうせ昔なら、わざわざ「昭和」と銘打つこともないと判断したわけです。

これまで書いた「東京『昭和な』百物語」のタイトルを変更することはしませんが、前回から「東京「昔むかしの」百物語」としてこれからも続けていきます。

よろしくお願いの程、御願い奉ります!!!!!!    チョン。

東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その57>ホテル・ニュ―ジャパン

2019-09-04 02:03:51 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和57年2月8日未明、午前3時30分頃、地下鉄赤坂駅の正面に建つホテル・ニュージャパンから出火、およそ9時間燃え続け死者33名を出した。
出火原因は、宿泊客の酔った上での寝たばこ。赤坂の一等地にある当時有数の国際ホテルでもあったことから、死者の内13人が台湾国籍の中国人であり、11人が日本人、8人が韓国人だった。アメリカ人とイギリス人各1名も犠牲になった。

窓枠にしがみつく人、熱さに耐えかね飛び降りる人、そんな光景をテレビカメラが捉えていた。そして茶の間に流された。

このホテル火災が後々まで記憶されることになった理由の一つは、社長兼オーナーの横井英樹の傲岸不遜な態度が連日テレビで報道されていたからに他ならない。経費削減を理由に消防当局からの防火、安全・災害対策への指導を無視し、防災設備の稼働不備なども見て見ぬふりをしていたことなどが、次々と報道された。

なんにしても大惨事だった。

ボクが印刷会社系の出版部に勤めていた昭和50年頃、当時在籍していた雑誌「週刊時代」に、一世を風靡した「月光仮面」の原作者であり、当時人気の高かったテレビアニメ「日本昔し話」のプロデューサー的な存在であった川内康範先生が編集長としてこられた。

当時編集部は飯田橋と九段下の間にあったが、川内先生は編集部に顔を出されることはほとんどなく、定宿にされていたホテル・ニュージャパンの2階が、第二編集室のようになっていた。よくお邪魔をした。というより、良く呼ばれていった。

川内先生は韓国ロビーイストであったが、そのロビー活動の舞台となったのはホテル・ニュージャパンだった。

だから、ホテル・ニュージャパンのことはよく覚えていたのだ。入り口から入るとロビーが広がり、奥に各階に向かうエレベーターが何基かあった。

記憶では廊下は狭く、ホテルの構えとしては部屋が密集しているような印象を受けた。ホテルというよりは、アパートメントの部屋の入口を彷彿とさせるような各部屋の配置だった。

だから、ニュージャパン火災で多くの死者が出たという報を聞いた時、「あぁ、確かにな」と頷いた。

大きな被害を出したホテル火災は、ニュー・ジャパン火災以降起きていないと記憶する。

これほど記憶に残る現場に一時ではあるけれど、日常的に出入りしていたことが、なにか不思議な感じだ。

 以前に母の思い出の一つとして「2・26事件」に触れたことがあったが、このホテル・ニュージャパンは「2・26事件」に連座した将校が足を向けた料亭「幸楽」の跡地と、最近知った。そして元々のオーナーは鳩山一族と知って、色々な意味でなお驚いた。

ホテル・ニュージャパンは跡形もない。だが火災後10年以上は、まるで負の記念碑のように放置されていたのではなかったか。

だが、ボクの記憶の中では明瞭に輪郭をとどめている。

なぜ今頃こんな話を? と思われる方も多いでしょうが、過日の京都アニメーションの放火殺人の事件で亡くなられた方の数を報道で知り、かつて同じ数の方が亡くなられた火災があったような記憶をたどり、ここにたどり着きました。京都アニメーションの火災では、後にもうお一方亡くなられています。
合わせて、皆さんのご冥福をお祈り致します。