普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

人生初の、雨の恐怖

2014-06-30 13:05:24 | 極端な生活<的>な
昨日の夕方、息子クンの伴侶のお母さまが、原宿のラフォーレ1階、正面玄関の左側で作品展を開催しておられるということで、原宿に向かうことにし、ちょうど前日から遊びに来ていた息子クンとお孫クン共々、とりあえず立川から車で息子クン達の住まい(江古田)まで移動していた。

ちょうど3時半ごろに新青梅街道、東村山付近を走行中、突如土砂降りになった。ほとんど前触れらしきものはなく、本当に突然の豪雨。

それからしばらくは、前後の車の姿すら雨のカーテンに遮られて見えず、車線変更すらおぼつかない程。おそるおそるハンドルを操作し、アクセルは極力踏みこまずに前に進んでいた。この辺りまでは、まだ「お~、すげえな」などと軽口も叩けたが、府中街道との交差点の手前まで差し掛かると状況はさらに悪化した。

フロントガラスから見える木々が、何者かに激しく揺さぶられる姿は、台風の時でもめったに見られるものではなく、小枝が折られ、青々とした葉をつけたまま車に降り注ぐ。「これは旋風だな」と言ったと同時に雹が降り始めた。大きさは直径1㎝程度だが、車にガツンガツンとぶつかる音が車内に響く。雷鳴まで聞こえ始める。

久米川手前の跨線橋を渡る時には、橋自体が巨大な滝のような有様。さらに久米川を過ぎたあたりから、道は完全に冠水状態。前の車を見ると、バンパーまで水没しそうなくらい。エンジンに影響する一歩手前の感じだ。それでも前に進まざるを得ない。それが断続的に北原の交差点近くまで続いた。

正直、車に乗っていながら味わった雨の恐怖は、高速道路では何度も出くわしたことはあるが、今回味わった恐怖は比較にならないほど大きい。なにしろ雨量が違う。生涯で初めて出会ったほどの豪雨。それに雹、旋風、雷が加わった。

二度と経験したくない。

江古田についた頃には、雨も止み、何事もなかったような空模様。

そのまま、息子クンとお孫クンと別れ原宿に。

息子クンの伴侶の母上の作品展示がこちら。



カラフルでPOPでエスニックな感じもあり、やけに面白かった!!


バランスボール

2014-06-23 23:57:29 | 普通な生活<的>な
最近の我が家でのマイブーム。

バランスボール。

数週間前に我が家に登場した。

奥さんや娘は、うまいことバランスを取って、ボールに腰掛けながら脚を上げるといった芸当を熟すが、ボクは無理(諦めているわけではないのだが、なぜかボールに全体重をかけることが、まず怖くて駄目なのだ)。

それでも、むくんだ脚をボールに乗せてうねうねと金魚運動のようなことはできる。

それがまた、やたらと気持ちがいいのだ。

毎晩奥さんと娘が交互にボールと戯れているのだが、二人ともおそらく気づかないでいることがある。

それは、少し二人とも痩せてきたという事実。

なにか嘘というか、気のせいのような気もするが、現実に二人の肉体はすっきりし始めている。

この際だから、気付かぬふりをしておこう。

痩せたね何ぞと言おうものなら、ひょっとするとその気になっちまうかもしれないからな。

World Cupという求心力

2014-06-15 23:01:43 | まあまあ社会<的>な
WCは元々どんなきっかけで生まれたモノなのだろうか?

NET上に展開されているさまざまな解説を要約すると、おおよそ以下の通りだ。

「20世紀初頭、それまで欧州内にも国を横断するサッカーの国際組織がなかったことから、国際試合開催のためにも、各国のフットボール協会が国際組織の創立に同意した。だが、サッカー誕生の地の最大組織イングランド・フットボール協会(FA)は国際組織設立には消極的だった。

それならと、フランス総合スポーツ連盟事務局長=ロベール・ゲランが、イギリス抜きで会合を開くことを各国協会に提案、1904年5月にパリで会合が開かれ、国際フットボール協会(FIFA)が設立された。一国一協会とし、FIFAの管理の下で国際トーナメントを組織することも決定した。これが、のちのワールドカップ。ゲランは会長に就任。

各国のそうした動きを見てイングランド(FA)も、翌1905年にはFIFAに加入。1906年にはイギリス人のダニエル・ウールフォールが会長となり、イギリスは影響力を強めることとなった。1910年5月のミラノ総会でFIFAは一国一協会の規定にもかかわらず、サッカー本家の連合王国(UK)内のスコットランド、アイルランド、ウェールズの加入を認めた。これを契機にFIFAは国際組織としての地位を固めていく。

アマチュアリズム、オリンピックに関連する問題もあったが、1927年2月のチューリヒ会合で、4年に1度の世界大会(ワールド・カップ)開催を決定、1930年の最初の開催国を、同年が建国100周年に当たりそれ以前のオリンピックで2度優勝し、政府が運営資金を肩代わりし支援も約束したウルグアイとした」

結局、当初はワールドカップとは言え、ヨーロッパ、中南米中心の大会で、植民地であったアジア、アフリカは置き去りにされた形だったのが、FIFA成立の経緯からも明らかだ(中南米も植民地だったが、アジア、アフリカとは宗教的背景も違ったのだろう、ヨーロッパ勢の進出がサッカーを根付かせていた。ただ、この辺りは微妙で、断言はできない)。

ようやく1980年代になってアジア、アフリカ勢もワールドカップに力を入れ始め、今日のような地球規模の大会になったのだが、ランキングなどを見ても明らかなように、まだFIFAサイドではアジア、アフリカが軽視されている感は否めない。

そんな中での日本の活躍を、ことにアジア勢は期待しているのだが、初戦は残念なことだった。ドログバの存在感に引っ張りまわされた。「膂力」と言う言葉があるが、ドログバはまさに「膂力百人力」と言ったところだったのだろう。三国志でいうところの関羽、張飛クラスだったに違いない。

アジア、アフリカ勢が優勝または上位に食い込むことで、ワールドカップの意味合いはこれまで以上に求心力をもつものになるだろう。それはヨーロッパ勢の凋落をもたらすかもしれないが、意識としてはそこで初めて、イーブン、フィフティフィフティ、ハーフハーフになるように思う。

それにしてもサッカーは、観ているだけでも攻防めまぐるしい一瞬も気の抜けないスポーツだな。

面白い。ギリシア戦も、大いに楽しみだな。

犯罪の方法を、微に入り細を穿ち教えるマスコミ

2014-06-12 23:51:25 | まあまあ社会<的>な
それはまるで、犯罪をトレースするようなもので、気分が悪くなるほどしっかりと再現する。

マスコミの犯罪報道。

変わった犯罪であればあるほど、よりリアルに再現しようとする。なぜなら、絵解きを必死でやるからね、マスコミは。

模倣しようと思えばいくらでもできるほど詳細に。

話は跳ぶが、役者がスタニスラフスキー・システム(かつて、NYのアクターズ・スタジオがこのシステムで役者の育成をしていた。もっとも有名だったのは、かのジェームス・ディーンだろうか?)で演技を学ぶことは、追体験、つまりはより現実に近いリアリティを追い求めることで、なかには殺人という狂気の追体験で、元に(つまりは現実に)戻れなくなった俳優もいたほど。

今のマスコミの事件報道は、まさにしっかりとした台本のようなもので、報道をテキストとして学べば、簡単に犯罪を犯せる。つまりは模倣が簡単にできてしまう。

なにを言いたいのかと言えば、そんな報道は不必要だということ。

「後々の教訓のために」という大義名分でもあるのだろうが、それでも必要ないと断言できる。

ことに殺人と言う尋常ならざる行為は、その心根も方法も秘すべきものであって、露わにすべきではない。犯罪を立証する裁判所ではないのだ。

露わにすれば、必ず誰かが模倣する。

犯罪報道は、5W1H(何時、誰が、どこで、何を、何故、どのように)を淡々と伝えれば良い。

確かに刺激的な内容であればあるほど、視聴者は興味を抱く。だが興味を抱くということこそ、模倣に連なる。

「なるほど、そうすればいいのか!」と納得してしまうほどの報道。

いい加減にマスコミは反省した方が良い。

昔、ある雑誌を作っていた時にそこの編集長が常々口にしていた言葉がある。

「読者の要求に応える」

そして出来上がった雑誌は、SEXと金と、できるだけ簡単な表現満載の女性誌だった。売れに売れた。

よく考えれば、それがどれほど読者をバカにしたことか。

今でもマスコミの人間は同じような言葉を吐く。できるだけ表現はわかりやすく、漢字を使わない、四文字熟語は使わない、文節はより短く端的に……。

読者・視聴者を第一義においているようで、実はバカに仕切っている。

読者をバカに仕切った編集姿勢、微に入り細を穿つ犯罪報道、共に根は同じ。

「読者・視聴者が望むから」と言うのだろう。この発想も、いい加減捨てた方がいい。

捨てられないか!? なにしろ売れないと(スポンサーが付かないと)おまんまの食い上げだしね。

おいおい、マスコミ人間のおまんまのために、日々世の中は悪くなっていくのかよ? 

あほらしい。と、思いました。


マスコミの、尋常ではない報道

2014-06-11 23:27:28 | まあまあ社会<的>な
最近とみに思う。

日本の(世界共通なのかもしれないが…)マスコミは、大量伝達手段と言う意味の「マス」と言う言葉はついているが、コミュニケーション機能は全くない。

むしろ悪いことに、情報垂れ流し、あるいは情報操作機能しか持たない。

マスコミの報道は、社会規範(法的な)に則った規制を遵守はするが、それは自己保身のための、後ろ指刺されないための防衛手段。本当の意味合いの社会の自浄機能とでも言える正論などは、どこにもない。

スポンサーである企業論理は擁護するが、個の権利への配慮などほぼない。

要するに金の関わることには気を向けるが、金と縁のないことには目もくれないということだ。

半世紀も前には、マスコミの役割は「社会の木鐸」であった。そこには少しでも人々が幸せに生きるためのガイドラインとしての役割さえあった。

だが今では、そんなことはマスコミの何処を探しても痕跡もない。手前勝手な論理の押し付け(=偏向報道)はあるが、我々の生活の糧に微塵もなりはしない。

情報の垂れ流しはTVなどで顕著だが、横並びの上意下達としか思えない報道がそれだ。そこから逸脱すればどこかでしっぺ返しを食らうことが分かっているから、どこも同じ報道内容、同じ報道姿勢を守る。

情報操作はニュースのショー化に伴う、パーソナリティー、コメンテイターの発言に無作為に組み込まれている。「~と思うのですが…」などと言う言い回しは、報道する側が使うべき言葉ではない。

いまでは、そんな言葉を取り上げてみるのも虚しいほどに、意味も分からず言葉を垂れ流しているニュースキャスターなどもいる。読み上げるニュースは、一つも伝わらない。

よく考えれば、スポンサーがいなければTV局も立ち行かない。スポンサーの意向が運営のすべて。それを言葉を変えて言い訳にしている。「視聴率が大事」。

違う違う! 「金が大事」と素直に言えばいいのに。そうすれば、TVを見るのもバカバカしくなるというものだ。これは活字メディアも同じこと。偉そうな朝日も同じこと。

そして最近の報道内容。庶民の生活にとって肝心な地域の首長選挙結果などは霧の彼方で、A●Bの総選挙は詳細に報道する。味噌糞一緒にして、糞を大事に報道する(A●Bが糞と言う意味ではないよ。マスコミが糞味噌を仕分けているんだよ)。

やんぬるかな……。

次はもっと恐ろし気な、マスコミの正体を検証しようかな。




毎日毎日、人が殺される。

2014-06-10 23:26:41 | まあまあ社会<的>な
何日か前にも書いたが、毎日毎日、人が殺される。

昭和の時代であれば(表立っては)それほど頻繁には起こり得なかったような、性と金がらみの、とりあえずは殺す側の心に、痛みやら悔恨やらと言った、本来なら誰の心にもあるはずの人間性のかけらも垣間見えないような、それなのになぜか今の時代を端的に表しているような、殺人事件だらけだ。

標的になるのは、女性や子供。それに高齢者。要は弱い者達。

なにが起きているのだろうか? と、きょとんとしてしまう。

被害者が若い妙齢の女性でも、リアルな友人関係を追っても辿り着かないような、家族や知人もまったく知らない、別回路で完結する人間関係がSNSなどによって成立していたりする。正直、昭和世代から見ると無防備で空恐ろしいほどの自己完結ぶりだ。

昭和と書いたが、まさに昭和と平成のつなぎ目とでも言えそうな、1995年に起きた「酒鬼薔薇聖斗」による凄惨な児童殺害事件以降、それまで稀だった無意味な殺人が増えている気がする。

もっと多くなっているように思うのが、本来なら「尊属殺人」と別格で呼ばれるはずの家族間での殺人事件。

子が親を殺し、親が子を殺す。なんと陰惨な心根が生み出す事件だろうか。

殺人衝動は、いつ何時自分とも無縁ではない形で立ち現れるやもしれず……。

昭和であったなら「モンスター」と言われていても可笑しくない加害者は、今ではどこにでもいる普通の人間。

ただし、表には見えにくい深いところで病理に蝕まれているようではある。


皇族報道の不思議な傾向?

2014-06-09 23:48:28 | まあまあ社会<的>な
車椅子の殿下=桂宮様が薨去された。

長い闘病と、であるが故の独身宮家と言う、非常に特異な存在であられた桂宮様だった。

深い哀悼の意を捧げたい。

それはそれとして。なにか不思議でならないのは、5月26日の高円宮典子殿下のご婚約ニュースの時もそうだったが、TVの速報ニュースで流れたこと。

ついこの間まで、速報扱いされた皇室関係のニュースなど、それほどなかった。

桂宮様にしろ、典子様にしろ、正直ほとんど知らない皇族方だ。速報ニュースのテロップが流れても、お顔すら思い出さない。

正直な感想を言えば、皇位継承権第三位以下の皇族方の動向を速報ニュース扱いすることは、マスコミの独りよがりの勇み足と言う気がして仕方ない。

昨今のテレビ速報は、AKBグループの動向すら取り上げる。

マスコミの扱いは、そうした芸能ニュースも同等という印象を拭えない。

AKBを取り上げるのなら、むしろ皇室の動向は速報ニュースにするなと言いたい気がする。

天皇・皇后両陛下、皇太子同妃両殿下の御動向を速報ニュース化することに異論はないが、それ以外は不必要と言う気がする。

ボクは決して右翼でもなく左翼でもないのだが、なにか皇族方の速報ニュースには、マスコミに対する違和感とイラつきを禁じ得ない。

桂宮様の薨去に対し、いま一度深い哀悼の意を捧げます。




小保方さん、論文撤回?

2014-06-04 22:47:26 | まあまあ社会<的>な
とうとう来るべきところまで来てしまった、という感じだ。

小保方さんが、ネイチャーに発表した2本の論文の内の補完的な論文は既に撤回を表明し、今日になって主論文の撤回にも同意したと報じられたのだ。

この小保方さんの意向を受けて、小保方さんの代理人である三木弁護士は、取り下げが事実ならば「無念だ」と言い、一方で「極めて精神状態が悪い中、主体的な判断を行ったのかどうか、十分に見極めて対応を決めたい。彼女の本意ではないと思う」と話し、さらに「何らかの強い圧力によって、同意せざるを得なかったのでは」と推測していると報じられた。三木弁護士の知らぬところで、論文撤回は既成事実化したようだ。

今日の小保方さんの論文撤回に対しては、ボクも三木弁護士の観方・判断に賛成だ。

なにより、これまで三木弁護士を代理人に立てて、STAP細胞に関わる係争に臨んできた小保方さんが、姿も声も出さぬまま、代理人の三木弁護士に相談することもなしに、最終決断をしてしまったという点に、大いに違和感を覚えるのだ。

今日の昼前頃に、理研の遠藤高帆(たかほ)上級研究員の解析によって、小保方さんの公開した遺伝子データが、胚性幹細胞(ES細胞)など2種類の細胞を合わせて得られたデータだった可能性が指摘されたのだが、そのことをもって、小保方さんが観念したという論調になるのは目に見えている。

だが、実際のところはどう考えてみても、三木弁護士の意見が的を射ているように思う。

以前にも指摘したが、踏んだ「虎の尾」が、太く長かったと思えて仕方ない。

もし小保方さんの論文撤回同意が真実であり、彼女の主体的な意思によるものであれば、これでSTAP細胞のすべては白紙に帰るわけで、すぐさまどこかで動きが出ることになるだろう。

機能は同一だが、まったく異なるよび方をされる「細胞」がすぐにも登場するのではないかと、密かに思う。

正直なところ、今のボクの生活には何らの影響もないSTAP細胞だが、巨大な利権を生むこうした研究成果の動向は、近い将来、利権と言う意味ではなくとも、大いにボク達一般ピープルにも関わってくるだろうことは、良く分かる。

小保方さんはこれで稀代のペテン師呼ばわりされる階段を、一段上ってしまったようにも感じる。

これまでよりも一層、状況は悪くなるのかもしれない。