普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

too cold !!!!!

2011-01-30 23:59:52 | 普通な人々<的>な
 夏と冬とどちらが過ごしやすいかと聞かれたら、即座に冬と答えていた。
 夏の暑さは、服を脱ぐ事では解消できない。だが、冬の寒さは服を着ることで解消できる、そう考えていたから。
 だが、好き嫌いとなると、そうでもない。冬の寒さは骨身に染みる。身体が硬直する。実は身体が硬直するというのは、恐怖への反応と似ている。身動きが取れないということでもある。精神的な落ち込みをも招きかねない。身体が丸まって、自分を抱きこむような姿になる。つまり自分を守ろうとする意志が働く。
 そういう意味では、冬も好きだが、夏の方が好きと答える方が良いかなと最近は思っている。
 今日はひと際寒かった。こんな日は「はよ夏がこんかい」と思う。

オーストラリア!!

2011-01-29 19:26:38 | 普通な生活<的>な
 すっかり忘れてました! 今日はアジア杯決勝戦ではないですか! オーストラリアは、はっきりいって強そうですが、わが日本はその上を行く強さを見せて欲しい。
 それなのに、大事な夜中の時間に、ボクは家内を迎えに車で出かけるのですよ。息子よ娘よ、録画しといてくれ、言われなくとも!

radiko

2011-01-29 13:38:55 | 普通な生活<的>な
 昨年の夏前頃から、パソコンでラジオを聞いている。今も聞いている。
 毎朝、ちょっとしたドライブをするのだが、その間カーラジオでFMを聞いていることもあって、なにか仕事中も音が欲しい。
 CDやらは音源の入れ替えがなかなか面倒だったりもするし、聴かなければならない音がない場合は、ラジオが良い。
 インターネットラジオはもちろん知っていたが、どうも馴染みがない。
 そこへいくと昨年の3月頃から試験放送が始まった「radiko」は、東京、大阪をエリアとするAM局、FM局計13局が参加して、聞き慣れた番組を聞くことができ、重宝している。昨年暮れから本放送も始まった。
 実は我が家は、ラジオの電波はただの一つも入らない。というより情報源としての電波は何一つ入らない難聴地帯なのだ。だからすこぶるありがたい。
 今度「radiko」を取材することになった。ちょっとワクワクしている。

音楽遍歴<番外編:REGGAE>

2011-01-27 22:04:11 | 音楽にまつわる話<的>な
REGGAE

 レゲエと一口に言っても、ブルービート、ナイヤビンギ、ソカ、スカ、ロックステディ、アーリーレゲエ、ルーツレゲエ、ラバーズ、D.J.スタイル、ダブ、ダンスホール、ラガマフィン……レゲエから派生、あるいはレゲエ前夜の音はいくらでもあるが、レゲエがレゲエとして世界のミュージック・シーンに登場したのは、60年代のことだ。
 
 それまでのカリビアン・ミュージックはスティールドラムの音色と共に僕らの耳に届いていたのだが、同じカリブ海のジャマイカから、スカ、ロック・ステディといったリズム的な変遷を経て、レゲエは誕生してきた。

 当初はレベル・ミュージック(反抗の音楽)であり、政治的なラスタファリ二ズム(簡単にいえばアフリカ回帰運動)の象徴的な音と捉えられ、実際にウェイラーズなど初期レゲエ・ミュージシャンのアルバムは、ラスタファリ二ズムと連動したものだった。

 そして70年代に入り映画「ハーダー・ゼイ・カム」('72)のヒットで、レゲエは世界のミュージック・シーンに大きな影響を与えるようになる。映画の主役であり主題歌を歌ったジミー・クリフはスターダムにのし上がり、レゲエ界のスーパースターだったウェイラーズは『Catch A Fire』('72)で世界デビュー、メンバーのバーニー、ピーター脱退後のウェイラーズのボブ・マーリーは『LIVE!』('75)を発表、カリスマとなった。
 
 ロック界のスーパースター、E.クラプトン、J.レノンなどがボブ・マーリーの曲をカバーし、単なる第三世界の一音楽ジャンルに過ぎなかったレゲエが、70年代中~後期には世界的な音楽的潮流となった。

 レゲエを代表するレーベルのひとつアイランド・レーベルは、1959年にクリス・ブラックウェルによって設立され、トロージャンと並ぶレゲエの一大レーベルだった。

 ジュディー・モワットはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの女性バック・コーラス、アイ・スリーズのメンバー、パブロ・モーゼズ、トニー・タフ、アイニ・カモーゼは、ウェイラーズと同時期、あるいはやや後発のミュージシャンであり、リントン・クウェッシ・ジョンソンはボブ・マーリーにも匹敵する、より政治的なアジテーター役を担ったミュージシャンだった。

 これらのルーツレゲエの音を聴けば、レゲエのレゲエたる所以がわかる!

 トップのジャケ写は、1975年の Burning Spear 『Marcus Garvey』。ある意味最もコアなレゲエ・アルバム。

父・加藤千代三のこと ②

2011-01-26 13:11:27 | 父・加藤千代三の短歌
 父・加藤千代三が生まれたのは、明治39年(1906)8月10日と聞いていたが、本人の談によると本当は6月10日だったという。なにか、生まれた当時の「祭り」との関わりで、出生日を遅らせたということだったが、事の次第は詳らかでない。この年は「丙午(ひのえうま)」で、その辺りが関係していたのだろうか。
 明治39年というと、前年に日露戦争があった。日本はそれこそ、戦勝気分に溢れていて、父の名も「千代三」であり、「千代に八千代に」の「千代」の意味だろう。
 ただ、あまり丈夫ではなかったようだ。
 記憶にある、父の語った言葉を紡いでいくと、加藤という家は戦国末期から江戸初期にかけて名字帯刀を許された「加藤勘十」という、おそらくは元武士であったろう「墓の石彫り(墓石に名などを刻む)」を祖とするらしい。
 その後、連綿と加藤家は続くのだが、その筋の中で僧籍の者や尼などを輩出したという。明治17~20年にかけて南禅寺の管長として名の残る初代・少林梅嶺は、加藤の一族だった。その兄には狩野派の画家で、雪渓を名乗る者もいた。
 梅嶺が管主となり、南禅寺に向かう姿を見て雪渓は「墨染めの衣を纏って行けばいいものを」とつぶやいたという逸話も、加藤の家では語り継がれている。
 しかし。千代三が生まれたのは極貧の小作農の小倅としてだった。
 それ以前の家系を聞けば、それなりに名門の家という印象だが、千代三が生まれた当時、加藤の家は没落し果てていた。
 その理由は……。次回ということで。
〈続く〉

日韓戦が始まった!

2011-01-25 22:50:51 | 普通な生活<的>な
 アジアカップ。日韓戦。そこになにか特別な空気が流れていると思うのは、韓国の選手達らしい。
 この10年ほどで、日本選手からは、特別なわだかまりも感じられなくなっている。
 日韓は確かにある特別な時期を過ごした。1910年8月22日を境に35年間の、日本の韓国支配という時の流れがあった。
 この時代に、いつなにがどこでどんな風に起こったのか、いまとなってはほとんどの日本人が知り得ていないだろう。
 それは歴史教育の手落ちであり、かつ歴史を軽視し、歴史に多くの出来事を埋没させることを良しとした日本のリーダー達の思いを反映した結果だ。だが、残念なことにこのことはすでに補填の仕様もない。
 ただ、日本が悪しきスタンスでいるような誤解を招きそうなので、補足すれば、日本はすでに韓国と軋轢を生む立場にない。良き隣人として共に同じ価値観を抱えて未来を見ることができるほど、成熟している。
 できることなら、韓国も日本という隣人を、他の隣人同様の目線で見て欲しいと思う。難しいことかもしれないが、それしか未来を価値あるものにはできそうもない。

ちょっと怖い話〈11〉 心霊写真?

2011-01-24 23:38:35 | 超常現象<的>な
 ボクがはじめて出版に関わる仕事をしたのは、主婦と生活社のムック「船の旅」を制作することだった。まだ編集の何たるかなど知らないにもかかわらず、概ね一人で、およそ180ページほどの本を1年がかりで作った。
 その時、船旅の写真をまとめてあるフォトエージェント(当時はまだそれほど多くなかった内の一社)から借りることになっていて、ボクは足繁くその事務所に出向き、風景写真をそれこそトータルで2万枚以上も見ただろうか。
 そうした作業の間に、何度も背筋がゾクッとするような感覚を憶えた。
 というのも、いまでは心霊写真などといっても「ああ、あれか」程度の受け取られ方だが、当時はそうした写真の存在はそれなりに認知はされていたが、一部好事家や研究者のものであり、一般の人間が眼にするものではなかった。その心霊写真らしきものがあったのだ。
 それがそのフォトエージェントの作品の中に、以外に高い頻度で存在したのだ。
 一番多かったのは、沖縄の写真だった。健児の塔や姫百合の塔周辺の写真に多かった。学生服を着た青年が写り込んでいたり、木の枝の間から覗く少女の顔もあった。
 結局、30枚以上の俗に言う心霊写真とお目にかかった記憶がある。
 それはほぼ日本全国に散らばっていて、当時の東尋坊といった自殺の名所(船旅の本なので、海に近い観光地なども紹介する頻度が高かった)写真も掲載するわけで、ボクはできるだけ、そうした写真を避けて写真をセレクトしたものだ。
 写真に写りこんだものを地縛霊だの、怨念などという。
 見つけた瞬間は確かにボクも背筋がゾクッとはしたけれど、たくさん見ているうちに、なにか日本という国土には、霊的な地場があるのではないかと思うようになった。
 なにか霊的なものの溜まり場のようなところがあるのではないか。
 最近パワースポットがブームらしいが、あながち無関係ではなさそうな気もする。
 なにかボクがそのフォトエージェントでみた霊らしきものたちは、概ねそこにあるがままにいるというか、そこにしがみついているという印象はなかった。
 別に行き場所がないから、そこに居るというような印象。一番近い印象としては宮崎駿監督の「もののけ姫」に出てくる「コダマ」だろうか。
 なにか八百万の神々を見るような印象でもあった。
 

多摩川べり

2011-01-22 20:59:12 | 普通な人々<的>な
 今日4時頃、多摩川べりを上流(立川)から下流(川崎)に向かって車で走っていた。すると、多摩河原橋と多摩水道橋の間で、まったく車が動かなくなった。

 車の調子が悪いのではなく、道路がまるで封鎖でもされているような塩梅になったのだ。

 何事かと思っていたら、とろとろと動く道の前方に消防車数台が見えた。そして消防車をやり過ごしてしばらく行くと、火の手が見えた。

 おそらくこの乾燥した天候下で、河原の枯れ草が自然発火したのだろう。煙草など不注意による発火かもしれないが、詳しくは分らない。

 きっと、消防車のいた辺りも同じような自然発火でもあったのだろうが、写真の辺りには消防車の1台もいなかった。

 こういう現場には滅多に遭遇することはない。
 奥さんが、しっかり写真を撮ってくれた。

 それがこれだ。

懐かしい!

2011-01-21 10:15:17 | 普通な人々<的>な
 昨日、NY在住の友人が帰国したついでに会ってくれた。

 彼は1977年に26か27歳で渡米し、それ以来NY在で、地に足の着いた内装関連の仕事を続けている。彼の渡米以来会っていなかったのだが、約束した待ち合わせ場所で、もうお互いに初老という歳で見てくれも変っているはずと思っていたが、すぐにわかった。

 いい歳の取りかたをしているのが、如実にオーラとしてわかった。

 今回は義理の母上の葬儀での帰国ということだが、ボクラはちょうどそういう年齢なのだ。ボクも09年の押し迫った師走の23日に、母を亡くした。

 話は尽きなかったが、またの楽しみということで3時間ほどで切り上げた。33年の時間を3時間で語りつくすには、おのずと無理がある。

 その中で、2001年の9.11の話も出た。おもしろい話をしてくれたが、それは機会があったら、また紹介するとして、今日は、とにかく素晴らしいオーラの友人と33年ぶりに出遭えたことに感謝。

世界は変るかもしれない。

2011-01-20 03:02:18 | まあまあ社会<的>な
 なにがどうのということもないのだが、世の中が変わるような気がしてしかたない。
 なにか一瞬にして、人々の精神革命のようなものが起きるような気がするのだ。
 簡単にいえば、拝金主義から人間主義、生活主義への大転換。
 良く考えれば、「ないない」という飢餓感から「分かち合おう」という豊かさへの簡単な転換。
 嫌な生活、人生から、楽しい生活、人生へ。
 その指標は、自殺者が1万人を切った辺りになるような気がする……。

歴史上の人物伝④ アルベルト・アインシュタイン

2011-01-18 23:25:26 | 歴史上の気になる人々<的>な
●E=mc2。人類史上、最も単純で美しい公式を作り出した調和の人。

 二十世紀の物理学は、大変革から始まったといわれる。その大変革とはプランクの量子論、そしてアルベルト・アインシュタインの相対性理論に他ならない。相対性理論はやがて、原爆を生む……。
 理論物理学者であり、哲学者、人権闘争家、平和活動家、そして高名なバイオリニスト……アインシュタインを紹介する肩書きは枚挙に暇がない。だが一言で評するなら、アインシュタインは、人間として生きる上での、調和と善なる魂を求め続けた人だったのではないか。
 一八七九年三月十四日、ドイツのウルム市に商人である父・ヘルマンと母・バウリーネの間に生を受け、学生時代はスイスで過ごす。
 アインシュタインは十二歳の時、ユークリッド平面幾何学の調和し整然とした理論体系に感銘し「十二歳から十六歳までの間に微積分学の諸原理も含む数学の初歩を学んだ」と述べているが、同時にこの時代に、生涯を貫く、人間への深い哲学的考察、悪しき権力との闘いをも始める。
「何が悪いって、学校が恐怖や作り出された権威・権力で運営されるほど悪いことはない。生徒の健康な感情、誠実さ、自信すら壊し、卑屈にする」と、当時のギムナジウム(学校)に対し、慣習に縛られず虚栄を捨て、堂々と己の意見を述べることで闘いを挑んでいたのである。
 二度の結婚、ノーベル賞受賞など、生活者としての極まりはあるが、彼の生涯は自ら「ジプシー」と呼ぶ、精神の自由人だった。
 一九五五年四月十八日、アメリカ・プリンストンで逝去するまでに、数えきれない業績を打ち立てたアインシュタイン。
 だが彼の業績以上に、その生き方そのものが二十一世紀を生きる我々をはるかに勇気づけるのだ。
 二十世紀は科学と経済、政治力学に翻弄され「分断と殺戮の世紀」と呼ばれ、その究極の結果ともいえる悪魔の兵器・原爆を生み出した。当初アインシュタインは、原爆製造を当時のアメリカ大統領ルーズベルトに進言している。それはナチスが原爆を製造しつつあるという危機感からなされたものだった。彼等が原爆を持てばなんの道徳的制約も躊躇もなく使うに違いないと、アインシュタインは恐れたのだ。
 だが戦争末期、原爆はアメリカによって製造されたばかりでなく、実際に使用された。アインシュタインは原爆が実際に使われたこと知ると「オー、ヴェー(恐ろしい)」と言ったきり口をきけなかったという。
 やがて彼は、その過ちを素直に認め一九四六年には原子科学者協会を設立、原子力エネルギーの危険性に対する啓蒙活動を開始するのだ。
 そして「我々の世界は、かつてなかった重大な危機に直面している。善悪いずれにも使える絶大な力が誕生したのだ……我々は素手のまま破局へ押しやられようとしている」との有名な警句を発し「この問題の解決は人類の心の中にある」と結んだのだった。
 いま「分断と殺戮の二十世紀」から「調和と共生の二十一世紀」へと時は流れた。新世紀を担う人々の生き方は、アインシュタインの生涯に学ぶことができる。過ちを恐れず、人間の心を大切に生きるのだと、語り続ける勇気を持つことなのだと。

やっぱりね!

2011-01-18 01:38:32 | 普通な人々<的>な
 結局、A型インフル。医者に行くと、抗インフルエンザ薬リレンザを処方されました。

 ところが!

 ボクでも知っていることですが、リレンザは今、一回の吸引で事足りるのです。しかし! 処方されたのは1日朝晩2回、4日間の吸引が必要なものでした。

 これって旧式? と思ったけれど、止むを得ないので吸引2回目。

 病院や医師の処置のなにが嫌いかといって、この、処方された側はなにも知らされずに効果的な結果が出るという幻想を抱かせられること。
 
 薬害の原因の多くは、この歪んだ医師と患者の関係。

 少なくとも「こいつは古いタイプですが効果には何の差もありません。それでもいいですか?」と聞くくらいのことはあっていいのではないでしょうか。

 事件があるたび、医者が偉そうに(ことに薬害エイズの時の帝京大学の安部英!)しているのを見ると腹が立ちます。何様だと思っているのでしょう。「お医者様だ!」と思っているのでしょうね……。

ついにA型!

2011-01-15 20:43:47 | 普通な人々<的>な
 ついに娘がインフルエンザに罹ってしまいました! これは必ずやボクにもインフル君の影響が及ぶに違いなく、もはや時間の問題のような気もします。

 皆さんも、是非気をつけてください。外から帰宅したら必ずうがいと手洗いを!

 いま、家を徹底的に掃除しました。掃除機をかけて拭き掃除して、加湿器(単なる加湿器ではなく、抗ウィルス作用のある水を噴出す加湿器です)が、フル稼働しています。

 あと2~3日して、ブログの更新がなければ、とりあえず死んだふりと思ってください。

 それでは!

音楽遍歴<8>

2011-01-14 18:06:46 | 音楽にまつわる話<的>な
 ロッキンfには1980年の6月まで在籍した。

 ロック雑誌の編集者としては、日本のロック史上、ハードロック系では沖縄のコンディショングリーンがベストグループだと、今でも思っている。
 77年頃だったか、沖縄の海兵隊のベースまで出かけて彼らのライブを見た。凄まじいパフォーマンスだった。海兵隊の屈強な連中はおおのりだったが、その連中を黙らせるほどの圧力を持ったバンドだった。
 ただ彼らは、ヤマトンチュに馴染めなかった。

 もうひとつ、ニューウェーヴ系のバンドでは、P-MODELを最高のパフォーマーだといまでも信じている。まだやってるからね、平沢進は。
 当初2~3枚までは、ボクが事務所になってプロモートしたほど、好きだった。ただ彼らはメジャー思考、成功への上昇思考は希薄だったと思う。だから好きだったんだけれど、別のチャンネルでの上昇思考はあって、そこがボクと相容れなかったのかもしれない。

 ロッキンfを辞して以降、ロッキンfやJAZZ LIFE、種々の雑誌の音楽欄などにちょこちょことインタビュー記事を書いたり、レコード(!)評を書いたりしたが、徐々に音楽関係の仕事から一般誌の仕事へとシフトし、90年代に入るとほぼ音楽関係者との連携はなくなった。
 ただ、ロックといわず、音楽だけは聴き続けてはいた。

やばい!

2011-01-12 09:48:49 | 普通な人々<的>な
 ときどき自分のロクでもなさに腹が立つ。この歳になって、なにをしているのだ!? と自分を叱責したくなる。

 決してそうしたくてしているのではないのだけれど、人から見ればそうしたくてしているのだろうとしか見えないことがある。そういうことを、一番そうしているときに知られたくない人に知られたりする。

 例えば、調べ物をしているうちに何だこれは? というようなサイトにたどり着くことはよくある。ことに芸能人の人名を調べていると、紛らわしい名前が出てくる。それが手なのだが引っかかる。なぜかそれが時として後から湧いてくることもある。

 そういうオリのようなものをPCの奥に分け入ってピックアップし廃棄しようとしていて、見られたくない人に見られてしまうのは、最悪だ。

 そういうことが、2回連続して起きた。自己嫌悪と共に、大いに反省。
 やはりクリーンが大切だな。