秋の叙勲がニュースを賑わす季節。もう20年近く前に書いた原稿。日本の勲章制度を、結構詳しく書いている。制度的に少し変わったところがあるかもしれないが、当時のまま再掲載する。
「勲章制度を検証する」
日本人ほど勲章の好きな民族はないといわれる。官も民もなく勲章を欲しがるというのだ。しかも日本には官にも民にも行き渡る叙勲制度がある。その結果、定期的な春秋叙勲だけでも年間一万人近い人々が叙勲を受け、これが毎月行われる、死亡叙勲、高齢者叙勲、緊急叙勲・危篤叙勲といったものを含めると、どれほどの数になるか。
日本のみならず、世界中に勲章制度というものはある。スイスなどは例外的で、国家としてこうした制度を持たないが、ほとんどの国家が勲章制度を持つ。だが、大半は軍人への叙勲であり、日本も戦前までは軍人への顕彰である金鵄勲章が勲章のほぼすべてであり、それ以外は、簡単に言えば貴族あるいはそれに準ずる華族に与えられる位階とほぼ同義だった。唯一、平民が軍人になることで受けることのできた金鵄勲章も、与えられる勲章は軍の階級によって区別され、明らかな階級差別の、すなわち戦前の体制である天皇制強化の補完材料として機能していたとも言える。それらはすべて、栄典大権を持った天皇から拝受するものであったからだ。
ここでは戦後の叙勲制度に的を絞って検証していくことにするが、そもそもの叙勲という顕彰制度の成り立ちを見ておかなければ、その本質的な意味を捉えることにはならない。
日本の叙勲制度は、聖徳太子の定めた冠位十二階がその発端と考えられる。律令制下の「官僚の序列」を位階によって決めたのである。この制度を、明治政府がほぼ同じ目的で二十階位の等級として定めた。やがて位階制度の形は変わるが、この位階と密接な栄典制度として叙勲が登場し、戦前日本の天皇制、階級制度強化の材料として機能していった。
戦後にいたって、天皇制強化の補完材料として機能した勲章制度はGHQの介入によって一旦は文化勲章を除き廃棄されるが、昭和38年7月に『生存者叙勲について』が、また翌39年4月には叙勲基準が閣議決定され、『勲章等着用規定』を総理府が告示第十六号として公示し、叙勲制度は復活する。
今の若者にとっては、ファッションのワンアイテムとしての、単なるバッジや、ワッペンに見えるであろう勲章も、爺さん世代にとっては光り輝く「水戸黄門の印籠」並みの力が備わった、垂涎の的なのだ。
国家への功労を認められた者の栄誉を表彰する制度を、総じて栄典制度というが、わが国の現行の栄典は文化勲章、外国人への勲章、そして生存者叙勲がある。
ちなみに、叙勲とは「勲等を授け、勲章を与えること」という意味だが、大きく勲章と褒章とに分けられる。勲章は位階を含んだステイタスだが、褒章は文字通り「ご褒美」と考えればいい。褒章に関しては、戦前から民間人に対しても授与されていた。
生存者叙勲とは、読んで字のごとく生きた者に与えられる勲章・褒章の類だ。どのような種類があるかは、別表(見つかりませんでした。ネットで調べてみてください)を参考にしていただきたいが、戦後の栄典制度の大きな特徴であり、勲章好きといわれる日本人を作った大元である。
すなわち、戦前は武功のあった軍人、および国家の中枢を担った貴族・華族を中心にそのステイタスを公認するという色合いを持っていた勲章の授与先が、戦後にいたって民間人にまで拡大され、ことに経済人を中心とした「勲章病患者」が色めき立ったのだ。
戦後の叙勲制度復活の、直接の引き金を引いたのが「経済宰相」と呼ばれ「所得倍増」を叫び「貧乏人は麦飯を食え」の迷言を吐いた池田勇人だったことは、決して偶然ではない。彼は高度経済成長推進のため、経済人への「飴」「人参」として、勲章制度を据えたのである。
そしてそれが、効果覿面だったことは、ご存知の通りである。
それまでは江戸時代の士農工商という身分制度ではないが、最も下位にランクされ卑しいとされた商行為、経済行為であった。どれほど頑張っても縁の無いものと諦めていた勲章が自分たちにも授与されることになったのである、我も我もと受勲希望者は増大した。
それでは戦後の叙勲がいかなる基準で決定され、授与されているかを見てみよう。
叙勲決定の基準は、かつてはベールに包まれていたが、いまではほとんど明らかにされている。
その前に、叙勲決定の経緯を説明しておこう。結論から言えば、栄典に関する有識者会議が作成した「候補者推薦要綱」を元に各省庁からの推薦を受け、最終的に総理府賞勲局が決定する。
各省庁は推薦にあたって、地方自治体や他の公的機関・関係団体に推薦を求めその結果を総理府に推薦する。推薦にあたっては候補者の社会への「功績」「履歴」「戸籍抄本」「刑罰等調書(犯罪歴、破産宣告・禁治産・準禁治産宣告の有無)」、それに叙勲審査表などの書類を期日までに提出し総理府と協議・決定する。
総理府賞勲局は、最終決定の前に候補者に関する最終審査を行い、内閣官房長官、内閣法制局長官、内閣官房副長官で構成する「叙勲等審査会議」での協議を経て、最終的に内閣総理大臣の了承を得て総理府案を決定するという経緯をたどる。
決定後は、各省庁に対し案が内示され、本人の受諾確認、再度にわたる本人の経歴・犯歴確認調査を経て、各省庁大臣から正式に内閣総理大臣へ候補者の推薦を行うという、厳正な手順を経ることになっている。
そして「勲章受賞者及び受拝者名簿」が作られ、叙勲等の閣議決定を経て、春は「みどりの日(4月29日)、秋は「文化の日(11月3日)」の年2回、宮中において内閣総理大臣から天皇へ上奏の後、裁可を受け発令されることになる。
逆に何をすれば叙勲対象になり得るのか、という問いかけもある。
叙勲基準には公・民それぞれの基準(昭和39年に閣議決定されたもの)がある。
はじめに公務功労者の叙勲基準から見ていこう。公務功労者とは、有体に言えば三権(司法・行政・立法)に携わった者という意味である。
内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁判所長官職にあって功績のあった者には、初叙を勲一等瑞宝章とすることに始まり、国務大臣、衆参両院副議長、最高裁裁判官、内閣官房長官クラスは、初叙を勲二等瑞宝章にと定め、末は都道府県議会議員、市区町村議会議員の初叙は勲六等瑞宝章とするまでをレベルごとに規定している。
一方、民間功労者の叙勲基準は、次の通りである。
一・学術及び芸術等の分野において業績を挙げ、文化の発展に寄与した者
一・新聞その他報道の業務に従事し、公益に寄与した者
一・学校教育または社会教育に従事し、教育に寄与した者
一・社会福祉事業または納税に尽力した者
一・発明発見その他の創意工夫により、公衆の福祉の増進に寄与した者
一・治山治水事業、砂防事業及び土地改良事業等公共事業に尽力した者
一・地方鉄道事業、軌道事業、海上運送事業、道路運送業、航空運送業、電気事業及びガス事業等公共的事業に従事し、公衆の福祉の増進に寄与した者
一・意思及び薬剤師等の業務に従事し、国民保健または環境衛生に寄与した者
一・弁護士、弁理士及び公認会計士等公共的職務に従事し、公益に寄与した者
一・調停委員、人権擁護委員及び民生委員等の職務に従事し、公共団体の業務に寄与した者
一・農林業、畜産業、水産業、商工業、鉱業、貿易業、銀行業、保険業、信託業、倉庫業、建設業及び観光事業等の業務に従事し、経済もしくは産業の興隆を図り、または公益に寄与した者
一・労働界において経済の興隆と国民生活の安定に寄与した者
一・前各号に掲げる以外の者で、公益に寄与した者
これらの該当者に対しては、勲六等瑞宝章、著しい功績のある場合は勲四等瑞宝章以上、特に顕著な功労が認められれば勲二等瑞宝章以上を授与するとしている。
早い話しが、およそ犯罪歴も無い、破産歴も無い人間であれば、誰でも勲章をもらえるというに等しい基準なのだ。ただしもらえる勲章には限度がある。別表の勲章にある大勲位菊花賞頚飾はわが国最高の勲章であり、戦後これまでに吉田茂、佐藤栄作の両首相と、アイゼンハワー、イギリスのエリザベス女王などにしか授与されていない。
民間人の最高位は勲一等瑞宝章が一応の努力目標であり、狙ってあがいて勲一等旭日桐花大綬章が限度だ。こうした官民格差を問題視する向きもある。
日本の叙勲制度の問題点は大きく二つに分けて論じられることが多い。一つは叙勲制度そのものへの疑義である。
それは「人間に等級をつけて勲章を授けるというのはいかがなものか」という平等論、
被差別論である。これはテロにより刺殺された旧社会党の書記長だった浅沼稲次郎などが急先鋒で、長い間、社会党の反勲章論のベースになっていた。
反体制政治家に限らず勲章嫌いは多く、ジャーナリズムに携わる者、文筆家などにことに多い。ノーベル文学賞受賞者である大江健三郎が文化勲章を辞退したのは記憶に新しい。その理由は「社会の木鐸」と自認する彼らにとって、国家的顕彰は権力に屈した姿と映るからかもしれない。
今ひとつの問題点を指摘するのは、叙勲制度そのものは許容するが、運営上の問題があるとする人たちだ。彼等の言い分をまとめると「官に厚く、民に薄い。誰がどんな基準で決めているんだ」ということになる。
こうした意見の最新版は自民党の亀井静香代議士(懐かしいなぁ!)が「人間の一生を等級に分けて評価するのはおかしい。美空ひばりや石原裕次郎に勲一等をなぜあげられないのか」と問題提起した発言に集約されている。
この発言を受けて、自民党で等級制度廃止も視野に入れた見直し作業が始まっている。こうした論議が活発に行われていることが知れれば、勲章論議に弾みもつくのだろうが、いかんせん日本の叙勲制度は法制化されていない。昭和21年5月3日に『叙勲制度の一部停止』を閣議決定し、GHQ指令に従ったが、以後の法制化のための議論はことごとく頓挫し、結局「閣議決定で停止したものだから、閣議決定で再開すればいい」と、前述の通りに昭和38年、39年と閣議決定し叙勲を再開した経緯がある。
曖昧な閣議決定という枠組みの中で浮遊している叙勲制度であるから、運用上の疑義となって出てくるのは、当然といえば当然で、『官に厚い』ご都合主義的な運用がなされているとする論難も、あながち的外れとはいえないのである。官:民=7:3という比率を妥当だと考えるのには無理がある。
ちなみに憲法には第七条に天皇の国事行為の一つとして「栄典を授与すること」と明文化されているだけで、他に記述は無い
戦後日本の叙勲制度は、民へその適用を広げた。その結果として勲章を受けるということが、己の人生の集大成、すなわち他に抜きん出た功績を遂げたと公に認められることであり、かつ己の存在が他と一線を画したものだと自画自賛するような、きわめて日本的な捉え方をされるにいたった。
日本では叙勲の対象年齢が、例外は除き70歳以上という人生最晩年の顕彰であり、受賞したとたんにへたり込んでそのまま起き上がってこない人も多い。無神経な自画自賛を聞かされる期間が短くてよかった、と思う向きもあるだろうが、いうなればそうした人々のために、国が与える最後の褒美が日本の叙勲なのだろう。
諸外国での勲章の受け止め方は、顕彰されたからには、さらに己を高めるステップにするという考え方がほとんどだから、受け止め方に大きな差がある。
かつての金鵄勲章などには、年金という名目で大枚の報奨金(少なくとも、管理職の一年分程度の金額)がついていたが、現在の勲章制度には特権を廃する目的で、報奨金の類は無い。唯一の例外は文化勲章(文化勲章は総理府ではなく文化庁の担当)で、現行の金額は定かでないが、10年程前には年額400万円近い年金がついていた。
もし勲章に年金が付きモノだったとしたら、叙勲議論はもっと激しく燃え上がったろう。
一応、名誉称号のような位置付けであるから、議論が発展しない。「まあ、いいか」という程度の議論で収まっている。
だが、現行の叙勲制度が、21世紀の日本にとって無条件に有益であると考えることは難しい。功労を顕彰することは決して過ちではないが、現行のような天皇から拝受するような形式である必要もないだろうし、老人の名誉欲を満たすための叙勲であっても先の無い話しではある。
勲章制度そのものを見直す時期にきている、ということなのかもしれない。(了)
ある雑誌だったかに書いた記事。誌名等は残念ながら覚えていない。適度に斜に構えたところもあるが、叙勲制度全般をよく調べて書いているなと、自分でも感心する。
「勲章制度を検証する」
日本人ほど勲章の好きな民族はないといわれる。官も民もなく勲章を欲しがるというのだ。しかも日本には官にも民にも行き渡る叙勲制度がある。その結果、定期的な春秋叙勲だけでも年間一万人近い人々が叙勲を受け、これが毎月行われる、死亡叙勲、高齢者叙勲、緊急叙勲・危篤叙勲といったものを含めると、どれほどの数になるか。
日本のみならず、世界中に勲章制度というものはある。スイスなどは例外的で、国家としてこうした制度を持たないが、ほとんどの国家が勲章制度を持つ。だが、大半は軍人への叙勲であり、日本も戦前までは軍人への顕彰である金鵄勲章が勲章のほぼすべてであり、それ以外は、簡単に言えば貴族あるいはそれに準ずる華族に与えられる位階とほぼ同義だった。唯一、平民が軍人になることで受けることのできた金鵄勲章も、与えられる勲章は軍の階級によって区別され、明らかな階級差別の、すなわち戦前の体制である天皇制強化の補完材料として機能していたとも言える。それらはすべて、栄典大権を持った天皇から拝受するものであったからだ。
ここでは戦後の叙勲制度に的を絞って検証していくことにするが、そもそもの叙勲という顕彰制度の成り立ちを見ておかなければ、その本質的な意味を捉えることにはならない。
日本の叙勲制度は、聖徳太子の定めた冠位十二階がその発端と考えられる。律令制下の「官僚の序列」を位階によって決めたのである。この制度を、明治政府がほぼ同じ目的で二十階位の等級として定めた。やがて位階制度の形は変わるが、この位階と密接な栄典制度として叙勲が登場し、戦前日本の天皇制、階級制度強化の材料として機能していった。
戦後にいたって、天皇制強化の補完材料として機能した勲章制度はGHQの介入によって一旦は文化勲章を除き廃棄されるが、昭和38年7月に『生存者叙勲について』が、また翌39年4月には叙勲基準が閣議決定され、『勲章等着用規定』を総理府が告示第十六号として公示し、叙勲制度は復活する。
今の若者にとっては、ファッションのワンアイテムとしての、単なるバッジや、ワッペンに見えるであろう勲章も、爺さん世代にとっては光り輝く「水戸黄門の印籠」並みの力が備わった、垂涎の的なのだ。
国家への功労を認められた者の栄誉を表彰する制度を、総じて栄典制度というが、わが国の現行の栄典は文化勲章、外国人への勲章、そして生存者叙勲がある。
ちなみに、叙勲とは「勲等を授け、勲章を与えること」という意味だが、大きく勲章と褒章とに分けられる。勲章は位階を含んだステイタスだが、褒章は文字通り「ご褒美」と考えればいい。褒章に関しては、戦前から民間人に対しても授与されていた。
生存者叙勲とは、読んで字のごとく生きた者に与えられる勲章・褒章の類だ。どのような種類があるかは、別表(見つかりませんでした。ネットで調べてみてください)を参考にしていただきたいが、戦後の栄典制度の大きな特徴であり、勲章好きといわれる日本人を作った大元である。
すなわち、戦前は武功のあった軍人、および国家の中枢を担った貴族・華族を中心にそのステイタスを公認するという色合いを持っていた勲章の授与先が、戦後にいたって民間人にまで拡大され、ことに経済人を中心とした「勲章病患者」が色めき立ったのだ。
戦後の叙勲制度復活の、直接の引き金を引いたのが「経済宰相」と呼ばれ「所得倍増」を叫び「貧乏人は麦飯を食え」の迷言を吐いた池田勇人だったことは、決して偶然ではない。彼は高度経済成長推進のため、経済人への「飴」「人参」として、勲章制度を据えたのである。
そしてそれが、効果覿面だったことは、ご存知の通りである。
それまでは江戸時代の士農工商という身分制度ではないが、最も下位にランクされ卑しいとされた商行為、経済行為であった。どれほど頑張っても縁の無いものと諦めていた勲章が自分たちにも授与されることになったのである、我も我もと受勲希望者は増大した。
それでは戦後の叙勲がいかなる基準で決定され、授与されているかを見てみよう。
叙勲決定の基準は、かつてはベールに包まれていたが、いまではほとんど明らかにされている。
その前に、叙勲決定の経緯を説明しておこう。結論から言えば、栄典に関する有識者会議が作成した「候補者推薦要綱」を元に各省庁からの推薦を受け、最終的に総理府賞勲局が決定する。
各省庁は推薦にあたって、地方自治体や他の公的機関・関係団体に推薦を求めその結果を総理府に推薦する。推薦にあたっては候補者の社会への「功績」「履歴」「戸籍抄本」「刑罰等調書(犯罪歴、破産宣告・禁治産・準禁治産宣告の有無)」、それに叙勲審査表などの書類を期日までに提出し総理府と協議・決定する。
総理府賞勲局は、最終決定の前に候補者に関する最終審査を行い、内閣官房長官、内閣法制局長官、内閣官房副長官で構成する「叙勲等審査会議」での協議を経て、最終的に内閣総理大臣の了承を得て総理府案を決定するという経緯をたどる。
決定後は、各省庁に対し案が内示され、本人の受諾確認、再度にわたる本人の経歴・犯歴確認調査を経て、各省庁大臣から正式に内閣総理大臣へ候補者の推薦を行うという、厳正な手順を経ることになっている。
そして「勲章受賞者及び受拝者名簿」が作られ、叙勲等の閣議決定を経て、春は「みどりの日(4月29日)、秋は「文化の日(11月3日)」の年2回、宮中において内閣総理大臣から天皇へ上奏の後、裁可を受け発令されることになる。
逆に何をすれば叙勲対象になり得るのか、という問いかけもある。
叙勲基準には公・民それぞれの基準(昭和39年に閣議決定されたもの)がある。
はじめに公務功労者の叙勲基準から見ていこう。公務功労者とは、有体に言えば三権(司法・行政・立法)に携わった者という意味である。
内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁判所長官職にあって功績のあった者には、初叙を勲一等瑞宝章とすることに始まり、国務大臣、衆参両院副議長、最高裁裁判官、内閣官房長官クラスは、初叙を勲二等瑞宝章にと定め、末は都道府県議会議員、市区町村議会議員の初叙は勲六等瑞宝章とするまでをレベルごとに規定している。
一方、民間功労者の叙勲基準は、次の通りである。
一・学術及び芸術等の分野において業績を挙げ、文化の発展に寄与した者
一・新聞その他報道の業務に従事し、公益に寄与した者
一・学校教育または社会教育に従事し、教育に寄与した者
一・社会福祉事業または納税に尽力した者
一・発明発見その他の創意工夫により、公衆の福祉の増進に寄与した者
一・治山治水事業、砂防事業及び土地改良事業等公共事業に尽力した者
一・地方鉄道事業、軌道事業、海上運送事業、道路運送業、航空運送業、電気事業及びガス事業等公共的事業に従事し、公衆の福祉の増進に寄与した者
一・意思及び薬剤師等の業務に従事し、国民保健または環境衛生に寄与した者
一・弁護士、弁理士及び公認会計士等公共的職務に従事し、公益に寄与した者
一・調停委員、人権擁護委員及び民生委員等の職務に従事し、公共団体の業務に寄与した者
一・農林業、畜産業、水産業、商工業、鉱業、貿易業、銀行業、保険業、信託業、倉庫業、建設業及び観光事業等の業務に従事し、経済もしくは産業の興隆を図り、または公益に寄与した者
一・労働界において経済の興隆と国民生活の安定に寄与した者
一・前各号に掲げる以外の者で、公益に寄与した者
これらの該当者に対しては、勲六等瑞宝章、著しい功績のある場合は勲四等瑞宝章以上、特に顕著な功労が認められれば勲二等瑞宝章以上を授与するとしている。
早い話しが、およそ犯罪歴も無い、破産歴も無い人間であれば、誰でも勲章をもらえるというに等しい基準なのだ。ただしもらえる勲章には限度がある。別表の勲章にある大勲位菊花賞頚飾はわが国最高の勲章であり、戦後これまでに吉田茂、佐藤栄作の両首相と、アイゼンハワー、イギリスのエリザベス女王などにしか授与されていない。
民間人の最高位は勲一等瑞宝章が一応の努力目標であり、狙ってあがいて勲一等旭日桐花大綬章が限度だ。こうした官民格差を問題視する向きもある。
日本の叙勲制度の問題点は大きく二つに分けて論じられることが多い。一つは叙勲制度そのものへの疑義である。
それは「人間に等級をつけて勲章を授けるというのはいかがなものか」という平等論、
被差別論である。これはテロにより刺殺された旧社会党の書記長だった浅沼稲次郎などが急先鋒で、長い間、社会党の反勲章論のベースになっていた。
反体制政治家に限らず勲章嫌いは多く、ジャーナリズムに携わる者、文筆家などにことに多い。ノーベル文学賞受賞者である大江健三郎が文化勲章を辞退したのは記憶に新しい。その理由は「社会の木鐸」と自認する彼らにとって、国家的顕彰は権力に屈した姿と映るからかもしれない。
今ひとつの問題点を指摘するのは、叙勲制度そのものは許容するが、運営上の問題があるとする人たちだ。彼等の言い分をまとめると「官に厚く、民に薄い。誰がどんな基準で決めているんだ」ということになる。
こうした意見の最新版は自民党の亀井静香代議士(懐かしいなぁ!)が「人間の一生を等級に分けて評価するのはおかしい。美空ひばりや石原裕次郎に勲一等をなぜあげられないのか」と問題提起した発言に集約されている。
この発言を受けて、自民党で等級制度廃止も視野に入れた見直し作業が始まっている。こうした論議が活発に行われていることが知れれば、勲章論議に弾みもつくのだろうが、いかんせん日本の叙勲制度は法制化されていない。昭和21年5月3日に『叙勲制度の一部停止』を閣議決定し、GHQ指令に従ったが、以後の法制化のための議論はことごとく頓挫し、結局「閣議決定で停止したものだから、閣議決定で再開すればいい」と、前述の通りに昭和38年、39年と閣議決定し叙勲を再開した経緯がある。
曖昧な閣議決定という枠組みの中で浮遊している叙勲制度であるから、運用上の疑義となって出てくるのは、当然といえば当然で、『官に厚い』ご都合主義的な運用がなされているとする論難も、あながち的外れとはいえないのである。官:民=7:3という比率を妥当だと考えるのには無理がある。
ちなみに憲法には第七条に天皇の国事行為の一つとして「栄典を授与すること」と明文化されているだけで、他に記述は無い
戦後日本の叙勲制度は、民へその適用を広げた。その結果として勲章を受けるということが、己の人生の集大成、すなわち他に抜きん出た功績を遂げたと公に認められることであり、かつ己の存在が他と一線を画したものだと自画自賛するような、きわめて日本的な捉え方をされるにいたった。
日本では叙勲の対象年齢が、例外は除き70歳以上という人生最晩年の顕彰であり、受賞したとたんにへたり込んでそのまま起き上がってこない人も多い。無神経な自画自賛を聞かされる期間が短くてよかった、と思う向きもあるだろうが、いうなればそうした人々のために、国が与える最後の褒美が日本の叙勲なのだろう。
諸外国での勲章の受け止め方は、顕彰されたからには、さらに己を高めるステップにするという考え方がほとんどだから、受け止め方に大きな差がある。
かつての金鵄勲章などには、年金という名目で大枚の報奨金(少なくとも、管理職の一年分程度の金額)がついていたが、現在の勲章制度には特権を廃する目的で、報奨金の類は無い。唯一の例外は文化勲章(文化勲章は総理府ではなく文化庁の担当)で、現行の金額は定かでないが、10年程前には年額400万円近い年金がついていた。
もし勲章に年金が付きモノだったとしたら、叙勲議論はもっと激しく燃え上がったろう。
一応、名誉称号のような位置付けであるから、議論が発展しない。「まあ、いいか」という程度の議論で収まっている。
だが、現行の叙勲制度が、21世紀の日本にとって無条件に有益であると考えることは難しい。功労を顕彰することは決して過ちではないが、現行のような天皇から拝受するような形式である必要もないだろうし、老人の名誉欲を満たすための叙勲であっても先の無い話しではある。
勲章制度そのものを見直す時期にきている、ということなのかもしれない。(了)
ある雑誌だったかに書いた記事。誌名等は残念ながら覚えていない。適度に斜に構えたところもあるが、叙勲制度全般をよく調べて書いているなと、自分でも感心する。