普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

みのもんたさん

2011-11-30 22:20:52 | 普通な人々<的>な
 あれはまだ、みのさんが文化放送のアナウンサー時代だったと記憶している。
 1975年頃、すでに放送メディアの中では「みのもんたあり!」と知られた存在だった。
 当時ボクは廣済堂出版の月刊誌「マネーライフ(隔週誌の「週刊時代」だったかもしれない)」の編集者で、みのさんを取材することになった。
 ボクは、すでに「みのもんたあり」といわれている方でもあり、かなりの年配かと思っていたのだが、後で知ったことだが、実はたった5つしか違わなかった。
 そして本当に面白い取材になり、取材の延長で銀座に流れた。みのさんの行きつけのクラブに案内され、ご馳走になったのだが、サービス精神旺盛で、かつ豪快。それなのに一軒の店にいる時間の短いこと! 一杯呑んだらあっという間に次の店へと案内され、結局3件ほどのハシゴにお付き合いした。
 その時思った。
 「この人は、大変な人になるだろう」と。
 その根拠は、フットワークの軽さ、笑顔、そして、話の切り上げ方のうまさ。
 あれから30年以上が経つ。みのさんは日本で最も成功したアナウンサーの一人になっている。

 今日、そのみのさんの朝の情報番組「朝ズバッ!」から、S堂経由で取材の申し込みがあったという。
 残念ながら、そのことをボクが知るのは夜になってからで、お受けできなかった。
 もし次の機会があれば、今日の分も籠めて話をさせてもらおう。

市民オーケストラの原点がここに。群響と群馬音楽センター

2011-11-29 00:00:45 | 音楽にまつわる話<的>な
 太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で、日本はおよそすべてを失った。
 すでに敗戦の色濃くなってきた1943年頃からは、もはや文化などというものは日本から駆逐され、ただただひたすら戦争遂行のための精神と道具だけが必要で、音楽すら戦争遂行の道具でしかなかった。
 戦争前まで、人の心を歌っていた歌手も、戦意を鼓舞する歌しか歌えなくなっていた。否、歌うことすら「軟弱な精神」と批判された時代だった。「歌う前に戦え」。それが戦時国家の国民の正しいあり方だった。
                  
 ただ、どれほど規制が厳しかろうとも、迫り来る空襲の中でも、人の目を盗むようにしてでも、音楽を愛し続けた人々はいた。それが判れば「非国民」と謗りを受けるのは当たり前のことだったが、こっそりと蓄音機に針を落とし、シャーシャーと竹針の擦れる音の向うで鳴り響くピアノの音に耳を澄まし、オーケストラの作り出す音空間に耳をそばだてた。そんな人々はたくさんいた。
 戦時中はオーケストラの楽団員も、皆、ラジオ放送での演奏、大陸や南方への慰問で楽器を奏でることがあるくらいだった。敗戦近くには、海を渡ることもできず、出征兵士を送るための威勢の良いマーチを演奏するのが関の山だった。
 そして太平洋戦争の終結。
                  
 敗戦という、まったく予期せぬ結果に、国民の動揺は激しかった。戦争中の価値基準、規範、国家の意味……すべてが一瞬にして崩れ去った。昨日まで純粋に信じていた至高の価値が、ぼろくずのような価値しか持たなくなったのだ。
 政治・経済の大枠すらマッカーサーの極東軍事政策の傘下に置かれ、日本人は我先に新しい為政者の示す価値を受け入れざるを得なかった。
 だが、敗戦からたった3ヶ月でオーケストラを立ち上げ、敗戦に沈む人々の心に音楽という希望の灯を点した人達がいた。
                  
 群馬県の高崎市。現在の高崎市のHPにこんな一文がある。
「昭和20年(1945)11月、敗戦直後の荒廃した世相の中で高崎市民オーケストラは誕生しました。戦前から音楽活動をしていた丸山勝廣が中心となり、戦後のすさんだ心を音楽で癒し、生活に潤いのある文化国家を目指して結成され、井上房一郎が会長になりました。指揮者には、井上の仲人・画家有島生馬の甥の山本直忠を招きました。長男の直純は当時12歳でした。当初は、楽員8人のアマチュア楽団で、練習場は、東小学校わきの消防団の二階でしたが、まもなく田町の熊井呉服店の二階に移りました。昭和21年9月、その一階に喫茶店『ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック』(音楽の家)が開店、高崎の新しい文化活動の拠点になりました~(山口聰)」
                  
 そしてこの市民手作りの楽団は、昭和21年3月には第一回定期演奏会を市立高等女学校講堂で開催、「モーツァルトのセレナーデ」などを演奏、超満員の盛況だったという。5月には「群馬フィルハーモニーオーケストラ」(群響)と改称し、翌昭和22年からプロの交響楽団として出発した。
 市民レベルでのオーケストラ運営など、行政の支援があったとしても困難な時代に、ほとんど奇跡と言って良い出来事だった。この群響の戦後の苦闘の歴史は、昭和30年2月に封切られた映画「ここに泉あり」(監督・今井正 出演・岸恵子、小林桂樹、岡田英次他)で活写されている。
                  
 この群響の本拠地が「群馬音楽センター」だ。アントニン・レーモンドの設計になる、日本のモダニズム建築の代表作とも評される音楽ホールだ。
 1961(昭和36)年7月に市制施行60周年を記念して落成した同ホールは、まだ市財政も苦しい時期でおよそ3億円の予算のうち寄付金を1億円募り、うち3千万円を市内の一世帯平均1,200円の募金で賄うという、まさに官民一体となって建設された音楽ホール。1961年を記念して1960の座席数(現在は1932席)とし、最後の1つをステージとしたという。落成時の記念公演には、市の全3万世帯から一人ずつを招待した。
 いまでもホールの前には「ときの市民之を建つ」と刻まれた碑が建っている。
 築50年を越え老朽化も目立つ。すでに改築、建て直しの話しなども出始めている。潰される前に、是非日本のオーケストラの黎明期を支えたホールに足を運んでみて欲しい。



酷く面白くない、テレビ

2011-11-27 11:45:10 | 普通な人々<的>な
 先に一言断っておけば、ボクは人後におちないテレビ小僧だった。大好きだ。で。

 馬鹿馬鹿しいほどチャンネル数が増えて、面白くもない酷い番組ばかりが並ぶようになった、デジタル化以降のテレビ。
 ドキュメンタリーすら、自主制作番組は旅モノ(世界遺産!)ばかりで、BGM選びすらなんの想いも感じられないし、ドラマは安物の韓国モノか、古い番組の再放送。それとモノを売りつけるばかりのチャンネルが並ぶ。消費こそ美徳とでもいいたいのだろうか? このご時世にそんな余裕はコチトラにはない。

 視聴者を最も馬鹿にしていると思うこと。
 きっとわざとなのだろうが、総体的に番組のクオリティが限りなく低い。いまのテレビ番組を見ていると、まるで「お笑い」が日本のすべてを取り仕切っているような気さえしてくる。
 お笑いタレントが悪いと言うのではない。ボクもお笑いは好きだ。お笑いタレントの中に優れた見識を持った人、頭のいい人、政治向きの人、さまざまいるのも承知だ。

 だがいまのテレビ番組は、政治家や法曹界の人間、大学教授、政治評論家、その他さまざまの社会のリーダーまでが、「お笑い」化している。そして、お笑いタレントと同じ土俵で笑いを取り合っている。見ていて馬鹿馬鹿しさの極みだと思ってしまう。
 問題はそこだ。

 なぜなら、本来心底真剣に語られなければならない問題すら、お笑いのオブラートに包まれて、別の問題化してしまう。つまり笑えるか笑えないか、面白いか面白くないかのような。

 完全な日本国民「総愚民化」のプロセスのような気がしてならない。

 真剣に話をする人は、面白くない人、で一蹴される。これを「総愚民化」と言わずなんと言えばいいのか? 

 60年代の終わり頃だったか、できたばかりの放送局・TBSのテレビマン3人が「お前はただの現在にすぎない~テレビになにが可能か」という本を上梓した。優れた情報メディア論であり、テレビというメディアの持つ多くの危うさや可能性を提示していた。

 あそこに立ち返ることはできなくとも、もう一度検証してみる価値はあるのではないか、と思う。

 きっとこんなことを書くと、「じゃあ見なけりゃいいじゃないか」という声が聞こえてくるだろう。
 基本的に酷いと思えば見ない。だがすべてを見ないと拒絶すればものも言えないので、時々見ることにしている。
 そんな程度だ、最近のテレビは。

凄いもの見つけた!!

2011-11-26 17:12:32 | 普通な人々<的>な
 それは、空気中の放射性物質を吸着(きっと薬事法やら何やらで「除去」とは書けないのだろう)してくれる空気清浄機だ。

◆「レイノAT-2000」放射性物質吸着用空気清浄機◆というもの。(詳細は http://reino.co.jp/ で)
 
 インターネットの情報の中で、埋もれかねない些細な露出しかしていない。だが、こうしたものが出てくるのは必然であり、また「待望の」というところ。
 なぜなのか理由は分からないが、千葉県の柏や松戸といった地域を含む、東葛地域限定で販売されるらしい。ホットポイントなのは確かだが……。

 とことん国が動かないこんなご時世で、各地方自治体、あるいは個人でしか対応できない福島第一原発の垂れ流した放射能対策だが、決定的な対応策ではないが、少なくとも家の中でのそこそこの安全は確保できる優れもの。

 それにしても、この国はなんとも無責任な政治家と官僚が運営しているものだ。放射能の除線作業すらまともにできない。できないならできないで、立ち入り禁止区域を特定し、半永久的に入ってはいけない土地として放棄する旨を通達すべきだ。だらだらと希望を持たせ、ずるずると国民を危険に曝す。こんな国家運営があるのか疑問に思う。

 どんなものでも、少しでも効果があるのなら試してみたい。ことに放射性物質に対しては。

月旦評④ 今週最も輝いていたこの人 大王製紙前会長・井川意高さん

2011-11-25 09:30:35 | 極端な人々<的>な
 この人のニュースを見聞きするたびに、浮世離れした感じがして事の善悪を語る気になれない。まぁ、そんな必要もないのだが、どうなんだろう? こんな世の中でこれだけ自由に(奔放だったかは分からない)、三桁の億と言うお金を使うことができた井川さんに、なにか特別なオーラかなにか、感じます?

 正直ボクは感じないのだけれど、一つだけ。おそらく緊張のあまりなのだろうが、表情がない。魂が抜けたような顔をしている(魂の抜けた人の状態って、見たことはないのだが、イマジネーションを膨らませてください)。根の部分に怯えも感じるのだが……。

◆井川意高◆
 「顔」は意外にいい男じゃないだろうか? 女性にはもてそうな甘い顔。
 基本的にいい男は、それだけで得をしている、そう思われがちなのだが、人生を長い目で見ると必ずしもいい男が良い人生を送っているとは限らない。

 むしろ、ブ男だとか背が低いとか、なにかコンプレックスを抱えた男ほど、大きなことをやりとげていたりする。ナポレオンのように。それは、努力、懸命さでいい男に勝るからだ。

 生まれつき裕福な家庭に生まれ、娑婆の苦労を知らないいい男は、大半が身を持ち崩すことになっている。井川さんは目に隙がある。生き馬の目を抜く、といわれる娑婆ではあっという間に肝まで抜かれかねない。報道の映像には明らかに目に力がない。

 おそらく、現役の社長、会長時代は、周囲を睥睨するような威圧感も持っていたのだろうが、こうなると「弱り目に祟り目」ということになる。

 彼から感じる怯えのようなものは、なにに対するものなのか不明。一つは自分がやったことにストレートに警察権力が介入してきたことへの怯えか(おそらくそんなことは絶対にありえないと思っていたのだろう。誰かが自分を守ると思っていたに違いない)。一つは自分の周囲から、引き潮のように人がいなくなったことへの怯えか。なんにしても、大きな喪失感があることだけは確かだろう。

 「居ずまい」もさすが育ちの良さを感じさせるものだが、文字通り「バカ殿」だったわけで、目同様、やはり抜けた感じがある。ことに歩き方からは自信を感じられない。

 大王製紙の創業者一族の頭領だったわけだが、きっと札束を見てもティッシュと同じようにしか見えなかったんだろう。目が悪かったのか!?

 創業から三代目は、なぜ上手くいかないのか? 簡単で、苦労を知らないからということに尽きる。先代、先々代の苦労を言葉でいくら話したところで、本人はなにも苦労していない。言葉で教えられても、身にはつかないのだ。

 こんなことになる前に、井川さんの周辺には「肝まで抜こう」と、取り巻いていた連中が数多いたに違いない。

 付け加えれば、人を見る目もなかったということになるだろうか。それにしても……。

 これは想像だが、井川さん、ギャンブルを仕事だと思っていたんじゃなかろうか? ちやほやされながら、自分の決断で金の流れを決済するわけで、こんなに気持ちよく経営者然としていられる場は少ないのではないか? まぁ、金がすべてというだけの意味においてだが……。それなら三桁の億の金の意味も、少しはわかる。

伊吹留香、やっぱり好きだわ!

2011-11-24 22:29:54 | 音楽にまつわる話<的>な
(2011年7月に、J-CAST 音盤見聞録に掲載した伊吹留香のインタビューを再録します。彼女は、良い! 長いけれどほぼ全文を掲載します。)



決まり文句の人生応援歌いらない 心に潜む痛み、嘆き歌う

伊吹留香というシンガー・ソングライターがいる。最近、関東圏の小さなライヴハウスで見かけるようになった女性だ。

彼女の経歴はというと、2003年2月にシングル「序の口」でCDデビュー。2004年12月には詩集『生存未遂』を刊行、詩人としても一歩を踏み出した。2005年8月、2ndシングル「二の舞」をリリース。2006年5月には、webサイトで公開していた回顧録、散文詩をまとめた書籍『時は世紀末、僕は未成年』を上梓し、6月には1stアルバム『課外授業』をリリースした。

2007年5月には、04年刊行の詩集『生存未遂』に新作の詩、発言集などを加え、改めて書籍として刊行したのが『生存未遂1987-2007』。2008年、ライヴ会場限定販売でラフ音源集をCD化し販売して以降、ライヴ音源のCD化作業を2009年、2010年と継続し、今日に至る。

「永久的思春期の芸術的失敗例を歌い続ける」

これだけの表現を作品化しているのだから、きっと大勢のファンがいるのだろうと、普通なら思う。だが伊吹留香は、テレビに出るわけでもないから、世間一般的な言い方で言うところの「有名」ではない。

なにせ、僕の手元にもCDはない。彼女に言わせると、「図書館にあるかもしれない」。だが、おそらくどんな有名アーティストも描くことのできない、生きることに痛みを伴うような、早熟な少女の深い心の奥底にいつの間にか誘われ、抗うことのできない唯一無二の作品群を、伊吹留香は生み落し続けている。

そういう意味では、間違いなく彼女はスターだ。

「7歳の頃から作詩や作曲を始めた、表現者の端くれ。主に、永久的思春期の芸術的失敗例を歌い続けている」

こう彼女は自分自身を表現する。思春期には「不登校」「リストカット、OD(Overdose) などの自傷行為」、「摂食障害」に「引きこもり」……。今どきの、およそ生きることに付き纏う「負」のイメージのほとんどを自分の中に取り込んでいたようだ。

自信満々で押し通すほど、孤独に落ち込んだ

なにが彼女をそうさせたのか? 僕が一番気になっていたことでもある。

おそらく自分自身を微にいり細を穿って分析したとしても、彼女自身にも分からなかったことなのだろう。もろもろのすべてが、ことに初期の作品には、「苛立ち」のように色濃く反映されている。だが、それとても、言葉として見事に昇華し作品化されているのがすごい。歌詞には、痛みを伴いながらも、生に寄り添うような言葉の数々が並んでいたのだが、「2005年頃、変化した」と彼女は言う。

「10代の頃の自分は、ありのままの自分を許したい、正当化したいと思っていたと思う。傍からみれば自信満々で、結果的には反抗してるように見えたに違いないですね。でもそれを押し通そうとすると、周りはついてこない。むしろ弊害が生まれてきて、精神的な孤独に落ち込んで……結局、独りじゃ何もできないと気づかされてしまった。支えられて生きてたんだなあ、支えられなければ生きていけないんだなあと、心底思ったのが、2005年」

そこから、作品の質も目に見えるほどに変わった。自分以外のところにある人間関係への憧れにも似たアプローチが生まれたような感じなのだ。つまりは、一人称の独りよがりから、二人称、三人称の社会性に目覚めたとでも言えるか。だからといって、つまらぬ社会性への迎合ではない。

「人生と音楽は一緒のものなんです」

 その証拠に、歌と自分の人生との距離も関わり方も変わってはいない。

「私にとって、人生と音楽は一緒のものなんです。生き様とか性格とか、まんま全部歌声にも曲にも出てしまっている」

それはまったくその通りだ。取材した日のライヴでも、彼女は感情を抑え切れなかったのか、歌を泣いた。泣くために歌うという人は多い。だが、歌を泣く人は少ない。その時のことを、彼女はツイッターでこうつぶやいていた。

「昨夜も、お会いできた皆様に感謝。最後の曲『ネグレクト』では、久々に感情が大暴走。いやはや、どうにか歌いきれて良かった。今、一番 伝えたい思いが、あの曲の中にある」

「ネグレクト」は、愛を歌っている。こんな風に。

「~君の、君なりの愛は
そこに確かにあったのに
今や吹き返しそうにない
二度と、その息は二度と

だけど、その様を前に
言いたい
言わずにいられない

君の、君なりの愛よ
生まれてくれて ありがとう」

魂の奥深いところの痛みや嘆きを歌える才能

「君」という言葉は、伊吹の歌には滅多に登場しない言葉。それがこの歌には、何度も出てくる。伊吹はこの実在の「君」に涙したにちがいない。

だが、彼女にとってこんな話題は本位ではないだろう、最近のライヴで歌われる曲のタイトルをいくつか紹介したい。「トラジコメディー」「サジ投げ日和」「惚れ込め詐欺 2011」「欠乏不足」……ある種の言葉遊びがそこにある。実はここにこそ、伊吹留香というシンガー・ソングライターの真骨頂があるように思う。

たしかに、「言葉遊び」ではあるが、どの曲でも実は遊びどころではない。この娑婆世界での真剣な彼女の在り様が歌われていて、その重さを、この「言葉遊び」はいくばくか、軽やかにしてくれているのだ。その作用を、彼女は決してギミックとしてではなく、ある意味、「本能」として知っている。

今回、「伊吹留香」を取り上げているのは、誰も彼もが決まり文句の応援歌を歌っているようなこんな時代に、そんなことは考えもせず、魂の奥深いところの痛みや嘆きや、人生への揶揄を言葉にして歌ってしまう伊吹を、是非聴いて欲しいと心底思ったからなのだ。

ミュージック・クラウド

2011-11-23 21:20:40 | 音楽にまつわる話<的>な
 前にJ-CASTの音盤見聞録でも書いた記憶がありますが、音楽配信は、新たな地平に踏み出した感があります。
 
 米国でのクラウド・ミュージックへのグーグルの参入が発表されましたが、アップルのiクラウドとガップリ四つという感じでしょうか。

 それにしても、レコードメーカーとの提携を進め、クラウド内の楽曲数は1300万曲だそうです。なんのこっちゃな数字です。

 2万曲まで無料でアップロード可能という数字も、やはりなんのこっちゃです。およそ4GB相当でしょうか。アップルは5GBまででしたか。

 ボクラのような古い人間にとっては、2万曲をセレクトすることすら難しい。死ぬまでに終わらない。クラウドなんぞ必要ないという感じですか。良い曲を繰り返し聴くというスタンスですから…。死ぬまで無料で使えそう。日本語対応はいつになるんでしょうか?

 それにしてもものすごい時代になっています。そろそろ「追いつかない感」がヒシヒシとします。

 あと何年、こんな話題についていけるのか、ちょっと心配です。

 

西武拝島線!

2011-11-22 09:28:11 | 普通な人々<的>な
ボクの棲み家は、立川の北の外れの西武拝島線沿い。

駅前になにもない、とは言え、まぁ普通の東京都下の町。

それが! ビックリなことに!

西武拝島線をレッドアロー号が走るそうだ。

記憶が正しければ、レッドアロー号って、完全に観光列車だった、昔は。

我が棲み家は、どれだけ観光地やねん!

55,000 PV!

2011-11-21 23:35:43 | 普通な人々<的>な
 とうとう55,000PVを突破しました。
 こうして、数を報告するのは、10万までにしたいと思います。
 なぜというのは自分なりの思いがあります。それは今は明かしませんが、いずれにしても、凄い数です。本当にありがたい!
 これから先への力になります。ありがとうございます。

◆アヌーナ◆ 生命のカタルシス!!

2011-11-20 21:52:57 | 音楽にまつわる話<的>な
最近、最も聴いた音源がこれです(J-CAST「音盤見聞録」10/16掲載)。

アヌーナ
神秘のケルティック・コーラス~ベスト・オブ・アヌーナ
VIVO-260
2625円
2011年8月28日発売
プランクトン・レーベル

 

アイルランドと言えば、エンヤ、ケルティック・ウーマンなど世界的な評価を得ているアーティストがいる。
今回紹介するアヌーナもまた、日本ではさほど知られていないのだが、世界的には高い評価を受けている。
"ケルトの遺産を受け継ぐ神秘のコーラス「アヌーナ」"と評される。
それは、彼らの音楽性に、古くは千年以上も前のアイルランド中世宗教音楽が息づいているからかもしれない。

◆「中世のアイルランドの音楽を現代に蘇らせる」
アヌーナは1987年、ダブリン在住の作曲家マイケル・マクグリンによって、「中世のアイルランドの音楽を現代に蘇らせる」というコンセプトのもと結成された男女混合のコーラスグループである。
当初から流動的で、常にメンバー交代を繰り返し、ケルティック・ウーマンのメイヴやリン・ヒラリーも在籍していたことがある。これまでに100名近い歌手が参加してきたといわれる。
現在は10~17名のメンバーで編成され、それもはっきりと男女何人ずつというようなものではなく、曲によってもツアーなどの状況によってもフレキシブルに、その都度その都度メンバーが変わる。
マイケルは、中世アイルランドの聖歌を発掘し、アイルランドに息づく大衆的な伝統歌、さらにはオリジナル曲など多彩な楽曲を、ラテン語、英語、ゲール語を組み合わせ駆使し、大胆に現代的なアレンジ、時にシュールなアレンジを施して聴かせる。その荘厳かつ、時に不安を覚えるようなアレンジの妙を、広がりのあるコーラスが見事に表現する。
こういう音場は、教会音楽で聴くことしかなく、日本では評価の仕方がわからないというのが本当のところだろう。

◆年末に来日、被災地訪問も
その彼らは、3月11日の東日本大震災に心を痛め、日本のためにサイトへ映像「Pie Jesu」(亡くなった人々に想いを馳せる古い歌)をアップし、赤十字への募金を呼びかけてくれた。
そして年末には「ケルティック・クリスマス2011」に参加するため来日、12月10日(土) のすみだトリフォニーホール 大ホールでの公演を皮切りに、12月18日(日)の滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホールまでの全国ツアー全6公演にプラスして、「アイルランド大使館主催東北復興支援プロジェクト」として、彼らの希望通り東北訪問が実現することになった。
ツアーの始まる前の12月7日(福島県いわき市 小学校訪問コンサート)、8日(宮城県仙南芸術文化センターえずこホール 被災地の子どものためのクリスマスコンサート)。詳細はプランクトンまで。

今回の来日メンバーは、音楽監督のマイケル・マクグリンと12名のコーラス隊。
そして本作品は、来日記念盤として発売されたベスト盤。本国では1991年以降ほぼ毎年音源を発表してきているアヌーナの代表的な楽曲全22曲が網羅されている。
「癒し」などというレベルではない「魂のカタルシス」を感じさせる。


【神秘のケルティック・コーラス~ベスト・オブ・アヌーナ  収録曲】
01. 8月
02. 愛する人よ、お行きなさい
03. キリストはよみがえれり
04. ガウデーテ
05. 輝く水
06. アイランド
07. 万歳、輝かしき王
08. キリストと聖母マリア
09. 自然の歌
10. ドゥラマン
11. 高潔な謙虚さ
12. 楽園の囁き
13. 愛しき黒髪
14. エルサレム
15. 慈悲深きイエスよ
16. グレンシーの娘
17. 生の只中にありて
18. 日の出
19. 海を渡る風
20. 楽しい歌
21. 海
22. おお、マリア様


月旦評③ 所ジョージ

2011-11-20 01:38:33 | 極端な人々<的>な
 なぜ所サンなのか? 自分でもよくわからないのだが、同時代の人間として非常に親しみを感じるのだ。
 フォークシンガー(フォークシンガーコメディアンが正式だったかな?)としてデビューしたての頃に、ナント面白い人だろうと思って、以来ずっとファンな訳だ。
 
 同世代の政治屋どもが、悲しいほどの影響力のなさを露呈している時に、所さんは飄々と、子供達を相手にしようが、天下の北野武を相手にしようが、同じように生き方のロジックを展開する。特殊ではあるけれど、納得できる、説得力のある論理を開陳してくれる。

◆所ジョージ◆
 所さんの「顔」には裏表がない。のっぺりした感じの中に、分け隔てのない、壁のない自然な成り行きが読み取れる。最近のトレードマークになりそうな金髪も、見事な差別化、アイデンティティの表明になっている。

 とにかく誰も太刀打ちができないほどの知識と、自分を救うロジックで身を守っている。そういう意味で言えば、ひょっとすると怖がりかもしれない。自分が批判の対象になるのは我慢できないタイプかもしれない。だからこそ、人の悪口もいわなければ、人をくさすこともしない。淡々と飄々と生きている。

 無理はしない。これが一番の特徴かもしれない。

 「声」は決して良くない。だが声のトーン、ニュアンスが良い。嫌な感じがしない。

 おそらくそれほど運動神経は良くないのではないかと思う。

 それにしても日本の芸能界のトップすべてと対等に渡り合えるのは所サンしかいない。誰も彼もが所サンを嫌いではない。好きだ。これは人徳というしかない。

 好きなことをして生きるのは、勇気がいる。それをすべての根底に据えている所サンは、やはりすごいというしかない。

 音楽も活字も、その表現のスタンスは変わらない。それは日常生活も変わらない。自由で闊達。
 
 所ジョージ! なんだか褒めちぎっているような気がしてきた。でも、まあ、いいか! 適当で。

 

孤独死

2011-11-18 13:43:17 | 普通な人々<的>な
昨晩、地上波のゴールデンタイムで、孤独死をテーマの番組が放映されていた。

東国原前宮崎県知事、タレントの岡本夏生さんをナビゲーターに始まったのだが、その奇妙な感覚を受け入れきれず、ナイナイの番組に切り替えてしまった。

なにが奇妙といって、まずゴールデンタイムに、例えバラエティー色を濃くしたとしても、取り上げにくいテーマだろう。思春期の子供も、実際孤独死に怯える人も見る時間帯であり、引っ掛かりがあった。

 正直なことを吐露すれば、ボク自身孤独死に怯える年齢になっている。耳から入ってくる「こどくし」という音にも、視覚に飛び込んでくるそれらしい事共にも、ゾクッと身の竦む思いがした。

それとナビゲーターの2人が口をそろえて「自分も孤独死予備軍」的な発言をしていたのも、気になった。

孤独死は、ある意味コミュニケーション障害を伴っているとボクは思うのだが、ナビゲーターお2人には、その心配はなさそうだもの(岡本さんはちょっと心配かも…)。

結局、ボクは番組を見なかったわけだが、番組としてどこを落としどころにしたのかは、知りたいとは思った。

なにか違和感を伴った、昨日のテレビ番組でした。

真っ先になくなるもの。

2011-11-16 23:07:44 | 普通な人々<的>な
 日本が太平洋戦争に突入し、ミッドウェー海戦での敗北を境に亡国へまっしぐらに突き進んだのは、誰でも知っている(日本人なら知っておかなければならない)話だ。 

 そうした中で、国はさまざまな統制、規制を強めた。
 
 当時の状況から判断すれば国策として間違いではなかったのだろうが、いまのような平和ボケした環境から眺めれば、「アホちゃうの?」「アッタマ悪ゥ!」「ウザッ!」みたいな反応が出てきそうだ。
 まぁ、平和ボケしていなくとも、当時の軍部主導の国家運営はやはり異常で、人間の尊厳などといったものは、物事の判断の最低基準としてすら語られることはなかった。

 知る権利は情報(言論)統制にあい、食料といった人間が生きる上で最も基本的で根源的なものでさえ統制されたわけだが、真っ先に人々の生活から消えたのは、いわゆる文化だった。

 もしあの時代にいま流されているテレビ番組を投げ込んだら、おそらく放送できるのはニュース、それもNHKニュースのほんの一部、時間にして数分だろう。

 中でも最も規制の対象になったのは、文字と音楽(いわゆる流行歌)だ。文字は言論の統制で、表現の自由を完全に奪われた。翼賛思想の中で、なにかが言えないのではなく、言いたくもないことを言わされたのだ。

 音楽は、戦意高揚を目的としたものだけ。愛や恋などといった内容は完全にシャットアウトされ、親子の情愛でさえ規制の対象だった。

 まぁ、そんなことはどうでもいいのだが、TPPのことなどを考え、これから日本に襲い来る最悪の予測を立てるならば、真っ先に消えるものは、やはり歌と文字なのだろうかと思う。
 武力を行使した戦争が起こるとは思えないが、それに近い緊張感は味わうことになりそうな気がする。
 その時に、人々の生活の中からなにが消えていくのだろう?
 ボクの予測では歌、文字だが、考えてみればそうした状況が眼前に顕れたら、その時点でこの国は終わっているということだね!!


月旦評② 野田佳彦

2011-11-13 15:44:28 | 極端な人々<的>な
 行きがかり上、野田総理を書くことにする。
 本当はあまり書きたくない。なぜなら、良くも悪くもまだそれほどの事績を残しているわけでもなく、そんなもんかなと言った程度のことしか書けないと思ったからだ。

 だが昨日、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉へ参加する方針を表明し、日米首脳会談で米国産牛肉の輸入 規制緩和に向けた手続きを始めたと寝耳に水の発言をするに及んで、ボクの中で野田佳彦は一気に「悪漢」ということになって、書くことにした。

◆野田佳彦◆

 人間ではなく、千葉県産の泥鰌(どじょう、鰌、ドジョウ)であると自称している。1957年生まれというから、54歳。若い。泥鰌にしちゃ長生きか?

 野田佳彦の「顔」は、菅直人が半島系とするならば、大陸系の顔をしている。おそらく三国志に中堅政治家として登場しそうな顔立ちだ。融通の利かない顔をしている。
 泥鰌というわりに、目は爬虫類的な、なにを考えているのか判らない、怖い眼をしている。
 人の話を聞いているようで、実は聞いていない。
 「声」は倍音を含んだ好い声である。菅のよう人をイラっとさせる、人を遠ざける声ではない。これは人を騙すのに恰好の武器である。
 「居ずまい」も悪くない。姿勢が好いのは良いことだ。ただ、相手がフランクな態度で接しても、その姿勢を崩さないという態度は、なにか姿勢そのものも「作り物の一部」のように受け取れる。ぬいぐるみを着ているみたいにも見える。

 総じて何事かをやってくれそうな雰囲気は漂わせるが、最終的にはなにも結果が出ない、出ても国民の望む形ではないという気がする。
 消費税もそうだが、自分の持論を前に出しすぎるきらいがある。そして今度の牛肉ではないが、まさに「どこからそんな話が出てきたんだ?」的な思いにさせられることが、これから先も多々あるに違いないと思う。
 
 要は、独善的な体質ということになるだろうか。

 実はこういう感じの政治家が最も結果として悪辣なことをしてみせる。悪辣というのは、意外に自覚がないまま、むしろ人のために良かれと思った結果が大失敗的な感じだ。
 きっとそんな感じの引き際になりそうな気がする。
 どう転んでも、大物の風格はない。こじんまりした官僚的な空気感を持っている。

 オバマが「一緒に仕事ができる」と言ったのは、言い換えれば「俺の言うことはなんでも押し通せそうだ」ということに他ならない。誉め言葉ではないな。

月旦評① 菅直人

2011-11-11 00:56:50 | 極端な人々<的>な
 後漢の許劭というわけにはいかないかもしれないが、気になる人物をボクなりに腑分けをしてみようと思う。気になる人物というのは、きっと批判の対称になることが多いだろうが、そこはあまり気にせずに。

◆菅直人◆

 まだ存命である。1946年生まれというから戌年か。65歳だから年金受給資格者ということになるか。
 資格放棄すればいい!

 菅直人の「顔」から読み取れるのは、不満と猜疑心。そして決定的な自信のなさ。
 「居ずまい」から読み取れるのは、落ち着きのなさと、人に負けたくないという奇妙な自信を伴った(顔には自信のなさが溢れているのに)高慢さ。
 「声」から読み取れるのは、やはり不満と、疑り深い威圧的な心根。
 「歩き方」には一国の宰相たる品もなかった。
 残念なことだが、この人物に国の舵取りを任せれば、国は国としての品格を失い、他国から信用されることはなくなる。
 なぜなら、ご本人が疑ってかかるわけだから、誰も本音で話そうとはしない。それは国家元首同士とて、一般人と同様だ。

 なにか自分の身を捨ててかかって、物事に対処しようという発想は感じられない。どちらかといえば自己保身が強い。

 結局、「俺はこれほどのことをした」と言いたいためだけに、エイズのこともかいわれのこともあったわけだが、本当に気の毒なことに、3.11東日本大震災が起こり、福島第一原発事故が起きた。どちらも菅直人には荷のかちすぎたことだった。

 結局なすすべなく、菅直人は舞台袖に引っ込んだ。

 小人極まれりといったところだ。

 皆さんは、菅直人をどう判断しますか?