普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

チャーリー・グリーン

2011-04-28 22:47:49 | 音楽にまつわる話<的>な
(J-CAST「音盤見聞録」での独占インタビューを再録します)

You Tubeで400万アクセス。イギリス発14歳の天才歌手

チャーリー・グリーン
『ア・フレンド・ライク・ユー』
OMCZ-1038
2000円
2010年9月22日発売
オーマガトキ/コロムビアレコード

エンタメ、ことに音楽の世界で、子どもたちの活躍が顕著だ。
古くは小林幸子も天才少女シンガーだったし、美空ひばりは戦後まもなくの8歳当時から亡くなるまでスターであり続けた。そうした系譜はいまも引き継がれていて、天才演歌歌手と言われるさくらまやなどは、歌だけでなく居ずまいも天才的だ。

海外に目を転じれば、古くはスティーヴィー・ワンダーもリトル・スティーヴィー・ワンダーとして11歳でデビューしているし、それこそあいつもこいつも子ども時代から天才だった、というようなアーティストばかりだ。
以前に本欄でも紹介したが、ジャスティン・ビーバー、ニッキー・ヤノフスキー、いまネットで話題のフィリピンのチャリス・ペンペンコなどは、まさに大人と遜色のない実力と活躍を見せている。
そして、ここに登場するチャーリー・グリーンもまた、希に見る才能の持ち主だ。1997年生まれの14歳。幼い頃から歌の才能を発揮し始め、8歳の頃には英王室のアン王女の前で歌を披露した経験を持つ。イギリスのオーディション番組から広く知られるようになった彼が、いま何を思うかじっくり聞いた。
(聞き手:加藤普)

わずか10歳でオーディションを勝ち抜き

チャーリー「歌を歌い始めたのは2歳くらいからだったと思います。父がプロのシンガーで、家には父のCDやヴィデオがありましたから、それを見たり聴いたりしながら真似をしたのが最初だと思います。一番初めに曲としてちゃんと歌ったのは、フランク・シナトラの『ニューヨーク・ニューヨーク』でした。さまざまなところで歌っていましたが、僕の出ていたショーを観た方が、アン王女サイドに話をしてくれて王女の前で歌うことになりました。アン王女の前で歌った最年少のシンガーということで、ボクとしてはとても光栄に思っています」

彼の才能が世界に知れたのはイギリスのオーディション番組『BRITAIN’S GOT TALENT(以下BGT)』出場だった。

チャーリー「1stシーズンからボクも夢中で見ていた番組で、ネットで『2ndシーズンが始まり、オーディションが開始される』とインフォメーションがアップされ、ボクも是非やってみたいと思ったんです。なにしろ視聴者が2000万人もいる番組で、僕自身を知ってもらうには絶好の機会だと思いました」

わずか10歳でオーディションを勝ち抜き、歌の上手さからセミ・ファイナルに進出したチャーリーだったが、その時歌った曲との相性の悪さを指摘され落選した。直後からYouTubeにアップされた番組映像へのアクセスが急増し、瞬く間に400万を越えた。そのことが、チャーリーを取り巻く環境を一変させたのだ。

チャーリー「とにかく良い経験でした。あの素晴らしい審査員ばかりでなく、他の出場者との出会いもエキサイティングでしたね。はじめてみんなの前で歌った時は、果たしてどんな印象をもたれるのだろう、どんな反応が返ってくるんだろうと緊張しました(笑)。残念ながらファイナルには進めませんでしたが、番組に出てからすぐにアメリカ、カナダのツアーに出ました。アメリカは2回、カナダは3回、アジア圏では中国、フィリピンにも行きました。UKはもちろんイタリアにも行きました。その間に、デビュー・アルバムのレコーディングを進めて……ほとんど家にはいませんでしたね」

母の母国語タガログ語で歌った曲

あれから3年が経ち、昨年の9月に13歳でCD世界デビューを果たした。デビュー・アルバム『ア・フレンド・ライク・ユー』は日本でも発売され話題になっている。アルバムにはジャズのスタンダードから、スティーヴィー・ワンダー、ビートルズまで幅広い曲が収められている。誰の選曲なのか?

チャーリー「レコード会社と、プロデューサーのクリスチャン・デ・ウォルデンと父との協議で決まりました。もし父とボクに選曲を任されていたら選ばなかった曲もあります。例えば母の母国語タガログ語で歌った曲は、レコード会社の意向で収められた曲です。フィリピンの著名なアーティスト=サラ・ジェロニモの作品でだいぶ前の曲だけれど有名な曲だし、アジア圏での販促のために『タガログ語で歌って欲しい』とレコード会社が収録に積極的だったんです」

チャーリーは、純粋に歌で自分の道を切り拓きたいと思っているのだ。
チャーリーのアルバムからは、筆者が子どもの頃ラジオで聞いていたフランク・シナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr.、アンディ・ウィリアムスなどと同質の、上質なエンタテインメント性を感じた。

チャーリー「とにかくデビュー・アルバムに収めたような音楽が、ボクは大好きなんです。若くてこういう音楽を歌う人はそれほどいないと思いますが、それがボクのアイデンティティかなと思っています」

「レコード会社も、はじめはチャーリーを見て、もっとモダンポップな、例えばジャスティン・ビーバーのようなイメージを思い描いたみたいだ」と語るのは父でありマネジャーとして同行するロジャー・グリーン。チャーリーには何千万人の視聴者を前にしてジャズ・スウィング系の歌を歌って認知されたという事実、実績がある。これを単純にイメージのために変えるのはおかしいと、ロジャー。「色んな音楽に触れて自然と変化していくというのなら分かるけれど、販売戦略としてイメージを変える必要はない」と続ける。その通りだろう。

気になる食べ物は「ステーキ」、「テンプラ」

「BGT」に出てからのこの3年の間に、当然のように変声期を迎えて、声そのものも変ってきた。「BGT」以来3年ぶりにチャーリーの歌を聴く人がいたらきっと驚くだろう。極々自然なことで、ヴォイストレーナーも「いい形で声変わりしている」と言う。「マイケル・ブーブレのような声に変化してきている」ということだ。
「日本は初めて? 日本の印象は?」と聞くと、こんな答えが!

チャーリー「昨日の夜(3月1日)に来て、今日は電車で移動して来ました。だから電車の窓から見た景色だけしかわかりません(笑)。それでも素晴らしい印象。清潔感があります。広告などの色合いもカラフルで、印象的です」

どうだろう! この大人な受け答え。なのに大人びた、すれたような感覚は微塵もない。極めて自然な受け答え。日本食で、なにか食べたいものはあるかと聞くと…。

チャーリー「プロデューサーのクリスチャン・デ・ウォルデンにステーキ・ハウスとテンプラ・ハウスには絶対に行けといわれているよ!」

無邪気で素直! この魅力的な少年の作品は、大人にも充分以上に楽しめるもの。最後に。日本のファンに向けてこんな一言を。

チャーリー「皆さんが温かく迎えてくれていることに感謝しています。僕自身、日本にこられて非常に興奮していて、日本という文化を直接体験できて喜んでいますが、皆さんには是非ボクのCDを聴いて楽しんでもらえれば嬉しい。本当に、アリガトウ」

なにか清涼感たっぷりの炭酸水を飲んだ、そんな風に感じたインタビューだった。
<加藤 普>

【ア・フレンド・ライク・ユー  収録曲】
1. ア・フレンド・ライク・ユー
2. オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート
3. マイ・シェリー・アモール
4. ゴー・アウェイ・リトル・ガール
5. フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ
6. マイ・ファースト・ラブ
7. レット・イット・ビー
8. トゥ・ヤング
9. ザ・ダイアリー
10. ユア・オールウエイズ・ゼア
11. オー・マイ・パパ
12. イワン(タガログ語)
13. ウッドゥン・ハート

音楽って、なに?

2011-04-20 23:44:04 | 音楽にまつわる話<的>な
 以前、J-CAST「音盤見聞録」で「閑話休題 ―大人音(OTO NA OTO)―」と題して掲載した原稿を再録します(少しだけ手直しをしています)。

音楽をどう読むか? 「音を楽しむ」か「楽しい音」か
音楽ってなに? こう大上段にいう場合は、まず「音楽」を文字としてどう読み取るか? 「音を楽しむ」のか? それとも「楽しい音」か? というあたりから入るといいかもしれない。
「音を楽しむ」ということであれば、楽しむ主体者は誰なのかが語られなければならない。それは聴き手でもあり、演奏者でもありうるけれど、いずれにしても「主体的」に音と関わる中心となる存在が前提にある言葉だと思う。
反対に、「楽しい音」ということになると、けっこう、放置プレー気味な言葉の印象。「誰にとって」という、むしろ客体者(こんな言葉あったっけ?)が問われる言葉だ。

いま音楽を生業にし、音楽と向き合っている人たちは、音楽との間にどんなスタンスを取っているのだろう?

「音楽」は、誰が書いたのかは不明だが“Wikipedia”によれば「人間が組織づけた音である」とある。うまい! 座布団でもあげたいくらいだが、これはどちらかといえば「音を楽しむ」という主体的な音との関わりが元になっているようだ。

「音楽」という言葉に込められた意味
ところで、「音楽」という言葉そのものは、中国で紀元前3世紀に成立した『呂氏春秋』に出てくる。そこには「音楽之所由来者遠矣、生於度量、本於太一」と表現されている。
「度量」とは音の規則つまり音律を指すらしく、「太一」は本源的な宇宙の根本法則を意味する。してみると、「音楽」とは宇宙根源の法則から生まれた音律ということになる。ならば、初出の文字としての「音楽」は、放置プレーである「楽しい音」に近かったのか。

基本的にはどちらでも良いことなのだろうが、音楽家であればその拠って立つ立ち位置で、できあがる音楽は根本的に違うものになるだろう。また、聴き手のスタンスの差は、音楽によって自分の中で沸き起こる"化学変化"の差になってでてくるだろう。

 雑駁な応援ソングばかりが耳につく今日この頃だが、東日本大震災の被災地域に多くのミュージシャンが入り始めている。おそらくは誰もが真剣に心の底から被災者支援を叫んでいることだろう。被災地に入ったミュージシャンにとって新しい音楽との向き合い方も生まれてくるに違いないと、期待している。

世の中には、一過性の音楽もあれば永続的な音楽というものもある。どちらが良いというものでもないが、いまこの日本で必要な音楽は、どちらなのかと考えることもまた、必要なことかもしれない。

<加藤 普>

20000PV突破!!

2011-04-15 09:26:19 | 普通な人々<的>な
 本当に、更新頻度が低いのにも拘わらず、多くの方が訪問してくださいます。ありがたいことです。
 そして!! 20000PVを突破しているではありませんか! 正直ビックリです。これがどんな数字なのかは、10000PVを突破した時にも書きましたが、正直わかりません。ただボクにとっては非常に驚きときめく数字です。
 一切いじることなく、皆さんに積み重ねていただいた数字です。
 これからもよろしくお願いします。

震災に思う

2011-04-13 00:07:24 | 普通な人々<的>な
 日本を襲った未曾有の災厄。
 どうしても思い出してしまうのが、眠れる預言者といわれたアメリカのエドガー・ケイシー(1877~1945)が残した、日本に関するケイシーにとってはとても希な予言の内容だ。それは予言したとされる年月の内には起こらなかった。したがって眉唾とされた過去がある。
 そもそもケイシーは予言によって名を残したのではない。リーディングと呼ばれる催眠状態での病気診療が彼を有名にした。アカシック・レコードと呼ばれる智慧の宝庫と催眠中にリンクし、そこにすでにある解決の方法を伝えるという能力こそが、ケイシーの能力であり、予言は副次的な産物といっても良い。
 その予言の詳細は省くが、1958年から1998年の間に、日本の大半が水没するという知る人ぞ知る予言だった。時期的にはまったく外れている。
 だがケーシーの予見した日本水没の原因は火山噴火、地震などの天災によって引起される地殻変動によるわけで、今度の東日本大災害が引起している各地で頻発する地震は、まさにケイシーの日本沈没予言をシナリオとして理解することも出来るほどに差し迫ったリアリティーを感じる。
 エドガー・ケイシーという稀有な能力者が本物か眉唾かなどと議論するつもりはない。ただ今回の地震、津波の被害を見るとき、ケイシーの予言と被る部分があるというに過ぎない。ただそれでも、こうした未来を見ていた人間がいたということには、なにか示唆的なものを感じるのだ。そして、その予言的言葉になにか未来への叡智が宿ってはいないか、検証してみる価値は充分にあるような気がしてならないのだ。

ある人からのメール

2011-04-09 01:22:28 | 普通な人々<的>な
晋さん

すいません、間違った所をクリックしてしまったようです。
ついでと言っちゃ悪いけど、少しの間お邪魔して、一言。

この東電と政府の一連の不手際を観ていると、終戦間際の沖縄が落ちた頃の陸軍参謀本部のエリート達や政治家達の狼狽ぶりにそっくりだなあー。
現場の将兵だけが、命がけで働いているところも、現地の人が逃げ回っているところも全く同じ。
消防隊ならぬ特攻隊もいたし、ついでに玉音放送まであったからなあ。
最後に原爆が落ちる、なんて事にならないように祈りましょう。

じゃーまた。

周○ from NY


ある人へのメール

2011-04-07 10:37:40 | 普通な人々<的>な
○○さん

久しぶりです。今メールが届きました。サンキューです。
が、以前にいただいているメールです? なにか深い意図あり?
それはそれとして。

いま日本では、連日福島第一原発の報道がなされています。
ブログにも少し書いたけれど、東京電力の事故への対応の姿勢は、腹立たしいものです。
この事故が、実は福島や、日本というローカルなエリアに留まらない地球規模の影響を及ぼすということがわかっていない。
それは実は日本の政府も同じです。力の限りとか、精一杯とか言ってる場合ではなくて、死んでも食い止めるという思いがなければ止まらない負の連鎖です。
良くやっている、というレベルでは実はもうなくなっています。
だからといって、僕等には何もできないのですが…。
僕等のような、もういい加減生きた人間にはさほどの問題でもないけれど、世界中の、ボクの子供達のような、これから先に生き続け世界を作っていかなければならない世代にとっては、現場での少しの気の緩みも、いい加減さも命取りです。際限のないマイナス要素を残したくはない!
日本という国は、良い国という印象が世界に伝わっています。それは大変に嬉しいことだけれど、じつはその裏に、責任の取れない、決断力のない指導者不在の姿が見え隠れしています。
日本人が行列が好きなのは、自分で決断することが「並ぶ」ということだからです。その先に何があるかは、決断の対象ではない。つまりその先に切り立った崖があって飛び込まなければならなくても、並ぶということです。要は簡単だからです。第二次世界大戦時の日本人がいい手本です。
そんなことを毎日のように考えさせられるこの一ヶ月です。
またメールします。



音楽遍歴<9> 90年代の空白

2011-04-03 23:34:32 | 音楽にまつわる話<的>な
 音楽を仕事にするという発想が、ない時代があった。
 それが90年代だった。ボクの仕事のフィールドは一般誌になっていて、その中で音楽に対する思いを語り書くという営為はなかなか難しかった。
 90年代のはじめは、ちょうどバブルの最後の時期で、針が負に振れるかもしれないという予感めいたものはあっても、実際に負に振れることには思いが至っていない、そんな時期。CDの売り上げは、誰かさんのCDが何百万枚売れたなどという話題が普通にあった。小室の時代とでも言えるかもしれない。
 音楽は聴き続け、常に身の回りにはあったけれど、そこに何の価値も意味も感じることなく、楽しんで聴いていた時代だったかもしれない。