普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

音楽遍歴<その2>

2010-10-31 12:11:34 | 音楽にまつわる話<的>な
 ロッキンF以前の話を少々。
 1970年、ボクは20歳になっていた。学生運動と、カウンターカルチャーとしてのヒッピー的なるものとで、若者の意識はそれまでのものとはまったく別物になっていた。
 当時芝居をしていたのだが、芝居の世界も海の向こうのアメリカでは、60年代後半には舞台ミュージカルの王道であるブロードウェイ・ミュージカルから逸脱した、オフ・ブロードウェイ、オフオフ・ブロードウェイの舞台が批判されながらも脚光を浴びていた。「ヘアー」「ジーザス・クライスト・スーパースター」などの舞台はその代表格だった。
 日本では唐十郎の赤テント、佐藤信の黒テント、早稲田小劇場、変身、天井桟敷、自由劇場などがいわゆる小劇場運動を展開していた。
 映画でもハリウッドから逸脱したアメリカン・ニューシネマの潮流、ヨーロッパではゴダールなどの気鋭の監督が新しいムービー・ムーブメントを創りあげていた。
 当時のそうした文化的なるモノ、ことにヨーロッパでのバックボーンには、哲学があった。サルトルを筆頭とした実存主義哲学。アラバールなどの舞台脚本は、この実存主義の表象化だった。
 音楽の世界も同じようなバックボーンを抱えていた。実存主義哲学というのではなく、ベトナム反戦といったもっと具体的な政治課題、新しい宗教観といったテーマを抱えていた。
 ビートルズを筆頭とするブリティッシュ・インベンジョンの影響もあったのだろう、後のニューヨーク・パンク誕生に大きな影響を与えたヴェルヴェット・アンダーグラウンドや、やや遅れてニューヨークドールズなどが活動を開始していた。
 この時代の日本のロックは「日本語でロックは歌えるか」といった、海外とはレベルの違うところで進行していた。ただ、すでに60年代後半にはジャックス(掲載したジャケ写は彼らの1st『ジャックスの世界』1968)、70年にはハッピーエンドといった、突き抜けた存在はあった。
 この当時は、混沌だった。言ってみればなんでもあった。未分化のままに生まれてくるものがただただあった。
 カルチャー本流には触れていないが、若者は当然のように混沌の側にいた。ボクもまた混沌の側にいた。

ちょっと怖い話②

2010-10-30 23:51:41 | 超常現象<的>な
 7年ほど前の晩秋のある日。
 僕の乗降する都下の私鉄沿線・M駅は、おそらく都内で最も寂れた駅の一つだろう。M駅は結構夜中まで乗降客はいるのだが、駅前のコンビニで缶ビールを買って帰ると、この少しのタイムラグで、帰り道はまったく人気のないものになる。農道のような、車が一台通ればいっぱいいっぱいの道の両サイドには、林と呼ぶには空疎だが、十分に闇を感じさせる植栽用の「木の畑」がある。
 僕の前をやはり黒い服を着た女性が歩いていた。50mほど前を歩いていたのだが、突然ぴたりと立ち止まると、コートの前を掻き合わせているような仕種をした。
 振り向くでもなく、そこにやや猫背気味の姿勢でぴたりととどまっている。
 僕は歩くのを止めた。なにか、嫌な予感がしたのだ。だが、このまま僕が立ち止まっていたら、それこそ怪しい。やむを得ずややゆっくりと、彼女の様子を見ながら歩き始める。どんどんと彼女との距離は縮まる。彼女にはまったく動きがない。
 とうとう彼女の真横に並びかけた。
 女性は顔を背けるようにしながら「フフフフッ」と笑った。
 僕はその瞬間、走り始めた。走るしか能がなかったといっていい。後ろを振り返ると、真後ろに彼女がいそうな気がして、家の扉に飛び込むまで、ひたすら前を向いて走り続けた。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より>


ちょっと怖い話①

2010-10-29 10:59:13 | 超常現象<的>な
 17歳から32歳までのほぼ15年間、ボクは毎日のように「金縛り」にあっていた。
 こんなことを書くと、20年前には「精神に異常をきたした人」というレッテルを貼られたはずだが、最近では超常現象もオカルトもお化けもUFOも、普通に語られるモノになった。この20年でなにがどう変化したのかを検証するのは、また別の機会に譲るとして、この機に乗じてというわけではないが、ここで、これまであまり口にも文字にもできなかったコトを書こうと思う。UFOに続いて「金縛り」だ。
 金縛りにあい始めたきっかけは思い出せない。ただ17歳の夏休みに突然始まった。もしなにかそれまでと異なる状況があったとすれば、それは亡くなった母が新興宗教教団に入信したことだろうか。密教を標榜する教団だった。それはそれとして…。
 「金縛り」は、寝入りばなというより、寝るでもなく覚醒しているのでもない、非常にあいまいな精神状態にある瞬間に「ある種の恐怖感覚」と共に襲ってくる。背中を悪寒が走り一気に精神が覚醒し、身体が反応し硬くなる。動こうとしても動かない。動けない。そして恐怖感覚がつのってくる。それなのに、視覚だけははっきりと働く。夜目が利くかのようになんでも見える。
 よく極度の疲労が「金縛り」の原因などというが、それはあたらない。15年間も極度の疲労を抱えていたら、とうの昔に死んでいるだろう。
 そして「金縛り」にあい始めて3年間ほどは、ほぼ毎日、仰向けに寝たボクの腹の上に白装束の女性が座っていた。それが誰だかは判然としない。ただ「ある種の恐怖感覚」を伴ってその女性は顕れ、恐怖感覚がつのればつのるほど、輪郭がはっきりしたのを思い出す。
 実は、仰向けに寝るということが「金縛り」を助長すると気付き、ボクはうつ伏せに寝るようにした。だが、気付くと必ず仰向けになっていた。「しまった」と思うや否や「金縛り」は襲ってきた。とにかく怖かった。
 それでも徐々に慣れてくる。無理とに声を出せば「金縛り」は解けると気付きもしたし、なにか不都合なことがあるわけでもない。初期の頃は、夜中の突然死の原因は「金縛り」の延長線上にあるかもしれないなどと思ったが、しまいには「またきたか」と「金縛り」と共存するような感覚になった。
 32歳でなぜ「金縛り」から解放されたのか、その理由も判然としないが、その前年に結婚している。ただ、散発的には43歳まで「金縛り」は起きた。最後に「金縛り」にあったときボクの視界の中に、奇妙な生物がいてボクに向かって何かを投げつけていた。それはおそらく「その生物の排泄物」だったと思う。なぜなら強烈な匂いを感じたから。
 それが一体なんなのか? といわれれば「別になんでも」と答えるしかない。ただの思い出。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より>

クラクション?

2010-10-28 09:50:45 | 極端な人々<的>な
 車に乗るのを止めようかなと思っている。
 なぜかというと、車を運転していると、自分が本当に嫌な奴だと思えてくるのだ。それこそ、自分以外の誰も彼もの運転がド下手に思えてくる。そう思うと、わずか100m走る間にも突っ込みどころ満載で「何やってんだ!?」「おいおい…」「どうしてそうする?」「ド下手!」と、際限もなく口を吐いて出てくる。
 断っておくが、ボクは40歳過ぎて免許を取得した。いろいろいきさつもあって免許を取らなかったのだが、それは置いておいて…。たまにはスピードを出したりもするが、遅くに免許を取ったから、普段はあまり無理な運転はしない。それほど上手いとも思わない。
 それが、突っ込みどころのある運転手に出遭うと、性格も運転も荒くなり、アドレナリンが噴出するような気もする。ということは、いまの感じだとのべつ幕なし運転が荒いということになる。
 これは問題だ。自覚はあるが、止められない。
 この間、裏道の細い道と交差するやや太めの道に出る手前で、横丁から軽ワゴンがフワッと出てきた。慌てて急ブレーキを踏み込み、クラクションを鳴らした。軽ワゴンは何事もなかったかのように交差点の手前で右折のウィンカーを点す。その交差点に信号はない。左右の見通しも悪くない。その時、左右からの車の姿は見えなかった。右から自転車が来ていたが、交差点まで40mはある。ところが前の軽ワゴンは一向に動く気配がない。
 既にイラついている僕は、イラついたクラクションを鳴らした。それでも動かない。が、突然運転席の扉が開き、ピアスを3つくらいした若い小柄のお兄ちゃんが降りてきて、こちらに向かってくる。
 ボクは頭にきた。こちとら、急いでいるのだよ。お兄ちゃんは「なんだ? なに鳴らしてんだよ」とボクを威嚇し始めた。ボクもイラついている。「早く行けよ」。すると「自転車が来てるだろ?」「いま通り過ぎたところじゃないか。いくらでもいけただろう。とにかくさっさと行ってくれ」「降りろよ」「嫌だよ、急いでいるんだ。文句があるなら後で電話でもしてこいよ」「なんだ、この野郎?」「それなら、オレがいまから電話するから、警察に」といって窓を閉め、携帯に手をかけ電話をかける素振りを見せると、「馬鹿野郎」と捨て台詞を残して、自分の車に戻っていった。なんのこっちゃ? というやりとり。
 ここで問題は、どちらが悪いかとか言うことではない。ボクの態度だ。なんだか嫌な奴の感じがしないか? 自己嫌悪だ。
 とにかく車を運転していると、こうした自分のロクでもないファクターが顔を覗かせる。それが嫌でしょうがない。だから、運転を止めたいのだが、当分は止められそうにない。なんというか、運転そのものは、大好きなのだ。なにせ東京~神戸くらいならノンストップで運転できる。それも緊張感を失わずに。ようするに、運転が好きなのだ。
 どうしたらいいんだろうね、このジレンマ?

阿頼耶識 阿摩羅識

2010-10-27 10:33:50 | ちょっと宗教<的>な
 人の世の移ろいほど儚いものはない。人の世とは、一体なんなのだろう? と、最近になって細々と考える。そして行き着いた結論が、以下に記すことだ。

 人の世とは、生きとし生けるものの意識の数だけあるパラレルワールドであると言うこと。
 例えば彼女と同じ方向を向いて、道を歩いているとしよう。彼女と僕の距離は50cmほど離れている。すると、同じモノを見たときに、すでに見る角度が違っている。見たものについて二人で語ったとしても、二人は別の角度から見たモノについて語るわけで、決して同じモノについて語っているとは言い難い。簡単な例えだが、これが全てだ。
 もしそのモノが三角柱で三面の色がそれぞれ赤青黄であったとすれば、そのモノまでの距離がわずかであればあるほど、そのモノの色は別の色として二人に認識されることになる。僕が赤い物体について語るとき、彼女は黄色い物体について語っていると言うことになるのだ。これが世界の実相だろう。
 誰もが自分の感知できる世界の情報だけしか知らない。知らない情報はないも同然なのだ。
 突き詰めれば、実のところこの世は一人の人間のモノでしかない。そう、自分の世界しか自分には認識できない。
 だが人間は、必死に他とのコミュニケーション手段を求め、獲得してきた。
 それは、ひょっとしたら自分と他人は違うものを見ているのではないか? という懐疑がどこかにあったからに他ならない。
 別の言い方をすれば、一人で居続けるのは、怖い。恐怖だ。だから、一人なのではないという証拠が欲しいのだ。それは「共通認識」とでも言えば良いのか、ある種の言語化された、あるいは「20世紀少年」の「ともだち」の記号のようにアイコン化された、共通意識のフィルターを通過することで、一人という恐怖を払拭できるのだ。
 そのコミュニケーションの手段の究極が、宗教だと思う。
 例えば仏教は、人間の「意識の階層」を明確に説いている。それは「五感」という具体的な認識装置(目、耳、鼻、口、皮膚)からはじまり、「六感」という無意識領域の感知システムにいたり、「未那識(七識)」という自分自身の無意識領域の更にその奥を覗く覗き窓があり、「阿羅耶識(八識)」に至りはじめて個の意識・無意識領域を超えた西洋的に言えば「アカシックレコード」のような共通意識、共有できる智慧の蔵があると説く。
 そして、その先に「九識心王真如の都(阿摩羅識)」と呼ばれる森羅万象すべての根本淨識、つまるところ「正しく揺ぎない、変わることのない心の働く場所」、言い換えれば「仏」の居場所があると説いている。
 人の世は、確かに「生きとし生けるものの意識の数だけあるパラレルワールド」だと思う。
だが、そのパラレルワールドを貫く「阿羅耶識(八識)」「九識心王真如の都(阿摩羅識)」という軸がある。そこに収斂していくことで、人間はバランスを保ち生きている。
 ちなみに「阿羅耶識(八識)」はユング的に言えば「家族・国家無意識」であり「九識心王真如の都(阿摩羅識)」は「世界・宇宙無意識」とでもいえるかもしれない。
 宗教は、「一人である」という「差異」を超え、意識・無意識を統合する働きがなければ、宗教とはいえないと、最近とみに思う。
 そして、儚い人の世の移ろいに、宗教ほど必要不可欠なものはないとも思う。

音楽遍歴<その1>

2010-10-26 16:06:04 | 音楽にまつわる話<的>な
 60年以上生きてきて、その大半、およそ50年以上は音楽を聴いてきた。
 はじめは小学生の頃、ほとんどラジオで聴いていた。プレイヤーなどない時代で、音源はすべてラジオだった。当時は、敗戦後まだ十数年しか経っていない、それこそ米穀通帳があった時代。世の中は総じて貧しかった。
 それでも音楽の好きなボクは、ラジオを、主にFEN(810k)に合わせて聴いていた。ヨーロピアンポップスも人気だった。シャンソンやカンツォーネも流れ、もちろんプレスリー、チャック・ベリーなどのロックスターは、まさにスターにふさわしいかかり具合だった。シナトラやサミー・デイビス・Jr、コニー・フランシスなんてのも日常茶飯事にかかりまくっていた。
 その間に、日本のラジオ局に合わせれば青春歌謡、演歌、浪曲に俗曲となんでもかかっていた時代。それもすべて面白かった。
 音楽を聴くことの転機は、1958年に訪れた。1曲のカントリーというかフォークソングとの出合いだった。ボクは小学校4年生だったか…。ラジオでかかりまくったその曲は、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」だった。意味もわからず、それでもほとんど空で覚えた。本格的に洋楽というか、日本語以外の曲に興味を持った時だった。掲載のジャケ写が、キャピトルからのデビューアルバム。「トム・ドゥーリー」はシングルも出されたが、このアルバムにも収録されている。
 そして、中学に入るとキングストン・トリオのコピーバンドを結成する。好きな奴が何人かいたのだ。当時、フォークブームが始まった頃で、コンサートなどにも出演したが、ボクらは唯一の中学生バンドだった。もちろんこの頃ビートルズの洗礼は受けている。高校の頃はフーテナニーだのジャンボリーだの、大学生のバンドに混じってそれなりに出演した。
 それから大学進学するのだが、同時に役者を志望し劇団に入り、早稲田のⅡ文に合格したのは良いが、折からの学園紛争で、革マルにロックアウトされた学校には通えず、3年で中退だ。ボクはボクで役者仲間と「反戦青年委員会」(どちらかというと中核系)を組織しと、自分で演る音楽とは一線を画す。
 反戦フォークなども良く聴いた。岡林も、友部も、高田も、加川も、遠藤も好きだった。南正人なんてのにも惹かれた。「ジャン」!! 別に反戦でもないのだが…。
 一方で、頭脳警察や、村八分なんてメジャーではないが突出したロックにも惹かれた。
 そんなこんながあって、当時「加藤久明」で活動していたボクは、「ロッキンF」という雑誌を作ることになる。
第1話終了<続く>

UFOの正体見たり!

2010-10-25 10:20:16 | 超常現象<的>な
 10月21日にUPした「これもUFO?」という記事中に、第5番目の目撃例として「そしてちょうど一週間前の10月14日夜8時半頃、娘を八王子まで迎えに行き、16号と新滝山街道の交差点に差し掛かる時に、光を見た。それは白色の発光ダイオード的光で、まるで折れ線グラフのように空を走った。わずか数秒間」と書いたが、これはまさに「折れ線グラフのように並べられた発光ダイオード」だったことが判明した。なんのためのディスプレイなのかは判然としないが……。
 まったく人間の五感なんていい加減なもので、お騒がせしました。

 それはそれとして。UFOといえば最近の目撃例の中で結構な割合を示しているのが、ピラミッド型という四角錐を二つ重ねたような形をしたもの。ただこれはどう考えてもFAKE。「新世紀エヴァンゲリオン」の第五使徒ラミエルそのまんまだもの。

 してみると、エヴァは世界中で読まれているのだなと、その影響力に感心しきり。

死後の世界を 生きてみる

2010-10-24 01:04:25 | ちょっと宗教<的>な
【最近書き始めた原稿の冒頭部分】

人は死ぬとどうなるのか? という命題に誰も答えたことはない。
「これこれこうなのではなかろうか」という答えを、多くの宗教が導き出しているが、それとても仮定でしかない。
 なぜなら死んで何処へか去った生命の痕跡は、どうあがいても追尾不能だし、生と死の境を越えて戻った生命もいまだかつてない。
臨死体験といわれる生死の境界を見たという経験を持った人々ですら、死後の世界を見たわけではなく、その手前から舞い戻ってきたのであって、死後の世界へと足を踏み入れたわけではないのだ。どうしたって、答えの出ることはない。
 死後の世界は、そういう意味では人間という生命の抱えた、いくつかある不可知領域のひとつといってもいいのだろう。だから同じような不可知の領域、例えば宇宙の果てといった極大であるとか、分子レベル以下の極小の領域にしても、その物理的限界すら想像の範疇にしかないのであって、畢竟、宗教的意識の入り込む余地が残され、死後の世界のひとつの可能性として示唆する人々もいる。
 人間の生命は宇宙大、というような発想自体が不可知領域の抽象的な言語化にすぎない。それなのに、多くの人々はその不可知領域に惹かれて止まない。
 わかっちゃいるけどやめられない、である。

僕は見た!あっけない、頓死の瞬間

2010-10-22 13:50:36 | 超常現象<的>な
 もう優に20年近く前のことだが、忘れられない一日があった。
 当時僕はフリーの編集者・ライターとして(いまもだが)、現在はドンキホーテの傘下に入ってしまっているが、老舗のホームセンター「ドイト」で「ドイト・クラブ」という販促誌を作っていた。本部のある与野本町に、月に数回打合せで出向いていた。
 そんなある1日の出来事。
 与野本町駅から17号線バイパス沿いの本部に向かって歩くと、一本手前に17号と並行して走る道に出る。
 その道を渡るために、信号待ちをしていると、左手方向から1人の中年男性が両手に大きな紙袋を提げ、とぼとぼと歩いてくるのが見えた。見るでもなくその男性を見ていたのだが、彼が突然両膝をつき、前に突っ伏した。尻を突き上げ、顔面と膝でバランスを取って突っ伏している。顔がこちらを向いていて、よく観察すると目を見開いているではないか! 
「あれ、危ないな」と、信号が変わるのを待ち、突っ伏している彼に近づき「どうしました?」と声を掛けた。「もしや?」とは思ってはいたのだが、やはり彼はまったく無反応だった。
 死を迎えると瞳孔が開くというが、そんな事までは判らない。周囲には人影がなかったが、ちょうどバイクで通りかかった青年がいた。僕は咄嗟に彼に合図をし、停まってもらうと「この人、死んでいるようだから警察と消防に電話をしたい。車がくると危険だからここで車を誘導して。彼に触れちゃダメだよ」と告げ、ちょうど向かいの店先に公衆電話があったので、そこからしかるべきところに電話をした。
 それからしばらくして、警察も救急車もやってきた。やはりその中年男性は死んでいた。正直、驚いた。だって、彼が普通に歩いて来るのを僕は見ていた。それほど辛そうでもなかった。なにか、例えば急に心臓が苦しくなってというような素振りもなかった。ただ、糸が突然切れたマリオネットの人形のように崩れ落ちただけなのだ。
 種々聴取もされ、解放されたのは1時間半後だった。打合せには大幅に遅れた。一応遅れる旨の電話は入れておいたのだが、遅れた理由を正直に話しても、誰も信用しなかった。それはそうだ、信用できない類いの作り話みたいだもの。
 
 今日ここでこんな昔話を書いているのは、この日がこれだけで終わらなかったということを思い出し、確認し記録しておこうと思ったからだ。
 予定より1時間半押しで打合せを終えた僕は、次の待ち合わせのために新宿に出向いた。もう暗くなっていた。そして新宿通りからバスに乗り、早稲田方面に向かった。僕は横長の座席の、ちょうど昇降口の前に座っていた。僕の乗った停留所から二駅目で、1人のご婦人がバスから降りた。そして彼女がバスから降りきった瞬間、彼女が消えた。
「!?」
 一瞬なにが起きたか判らなかったが、嫌な予感がした。僕は慌ててバスステップを降りて、左右を見回した。すると、5mほど先の道端に、彼女は倒れていた。直ぐに近づくと、彼女は頭から大量に出血し、息をしている風もなかった。彼女の倒れていた場所からさらに15mほど先に、バイクが倒れたまま置かれ、ライダースーツを着た若い青年が、走りよってきた。
 バスが、バス停から離れて停車し、バスと歩道の間が広く開いていたせいで、バイクが突っ込んできたことによる死亡事故だった。
 まだ終わらない。ようやく都内での作業を終え、なにかモヤッとした感じを抱え、帰路に着いた。そして当時住んでいた中央線日野駅を降り、家まで戻るたった10分間の間に車同士の出会い頭の事故を見た。その事故で人死にがあったかは、見ざる聞かざるということにした。

「うめ吉」新譜に込められた 日本芸能の楽しさ、奥深さ

2010-10-22 10:37:47 | 音楽にまつわる話<的>な
うめ吉
ALL ABOUT UMEKICHI
OMCA-1132
3000円
7月21日発売
オーマガトキ

かれこれ30年前、初代の櫻川ぴん助師匠が倒れられる前に、運良く取材ができたことを思い出した。当時はまだお元気で、四谷の自宅にうかがい「最後の幇間」と言われた、味わいのある、枯れそうで枯れないお座敷芸のいくつかを見せていただいた。いまは娘さんが2代目ぴん助として活動されているが、おそらく芸風も醸し出す空気も、まったく別のものだろう。
このアルバムをもし聴かれたなら、「いよいよ、良い良い感じでげすな!」 と、初代のぴん助師匠は言ったことだろう。存命ならの話だが……。

日本の芸能の頂点には能だの狂言だのが君臨し、ちょいとあざとい歌舞伎や話芸の落語、そうした芸能を支える囃子方(はやしかた)、そこからそれぞれに派生する俗曲など多岐に渡るが、いま時は、伝統の灯を消すまいと、あるいは世襲のようにそれぞれを継承するようなで、言ってみれば一種の閉鎖社会が出来上がっている。
中には、歌舞伎の十八代目勘三郎や十二代目團十郎などの革命児もいるが、全体としてみると、やはり閉鎖社会と思わざるを得ない。

【芸能社会の片隅で独り気を吐く俗曲師】

そんな日本的芸能社会の片隅で、なんだか独り気を吐いているように見えるのが、うめ吉姐さんだ。落語芸術協会所属の俗曲師だが、活動は多岐に渡り、広く深い。
CDひとつとっても、小唄、長唄、都々逸はもとより明治・大正の流行り歌に、昭和歌謡、童謡に民謡……と、おそらくいまではうめ吉姐さんしか歌わない歌を、片っ端から聴かせてくれるのだ。
そのうめ吉姐さんが、2000年から「檜山うめ吉」として活動をはじめて10年。その10周年を祝って出されるのが、この『ALL ABOUT UMEKICHI』。
なにしろ全21曲、未発表のオリジナルから未発表の「お富さん」、フランス語、ドイツ語の曲、民謡から昭和歌謡まで、とにかく多種多彩な曲が並ぶ。余談だが、「お富さん」は僕がはじめて全部憶えた記念すべき1曲でもある。だから思い入れもある、正直いま聴けるのが嬉しく、楽しい。

この楽しさは、実に30年前、あのぴん助師匠を取材した時に感じた「いま生きている」日本の芸能の楽しさ、奥深さに通じるものがある。

とにかく無条件に楽しい。

(この原稿は、J-CASTニュースのコラム「音盤見聞録」に書いたものです。
→ http://www.j-cast.com/mono/2010/07/19071294.html)

【ALL ABOUT UMEKICHI  収録曲】
1. 雷ロック (オリジナル新曲)
2. 銀座ロックン
3. 五月雨恋唄 (オリジナル新曲)
4. SUTETEKO (クラブバージョン)
5. YAKKO・SAN (クラブバージョン)
6. ホームランブギ
7. ヘイへイブギ
8. ニャンニャン踊り
9. 三味線ブギウギ
10. 鹿児島小原節
11. 隅田ばやし
12. 祇園小唄
13. 買い物ブギ
14. お富さん
15. 東京音頭
16. 酋長の娘
17. セ・シ・ボン (フランス語)
18. ウィーン我が夢の街 (ドイツ語)
19. さよならを教えて (フランス語)
20. 都々逸
21. 山中節


これもUFO?

2010-10-21 15:47:41 | 超常現象<的>な
 最近ネットでは、尖閣諸島の問題の方が遥かに大切なのだが、中国の「飛ぶ皿」事件報道もなかなか賑やかだ。それはそれ。ここでは僕の「飛ぶ皿」体験。
 僕はこれまで、都合5回なんだかわからないものを見たことがある。UFOというにはあまりにもUFOの定義そのものが不鮮明で、なんともいえないのだが、最初は中学の遠足かなにかで富士山の五合目にバスで登った時だ。当時はまだ雪渓が残っていた時代で、雪渓を越え、少し歩いて先に行ってみたのだが、なにか妙な感じに襲われた。周りには誰もおらず、僕は一人だった。ふと上を見上げると、洗面器の底が見えた。直径は10cmくらいに見えたが、どうしても洗面器の底だった。慌てて逃げた。
 2回目は20歳頃のこと。時期は不明。東名高速を車で走っていた。夕方で、赤い空をバックに黒々とした富士山がはっきり見えた。その富士山の中腹辺りを、光の玉がゆっくりと横断していった。
 3回目はつい5年前の夏の夕方。いま住んでいる都下T市のMという私鉄沿線の駅を降り、道を歩いていると、上空の離れた2点に同じような赤い光が点滅するでもなく浮いていた。この辺りは飛行場もある、ヘリコの基地もある。だがその光は音もなく突然ほぼ平行に動き始めた。そして平行のまま急激にスビードを上げ北の空に消えていった。
 4回目は、おそらく巨大な火球だろう。3年前の春先の夜。娘を乗せて我が家の駐車場まで後50mというところで、急に空が明るくなった気がした。運転しながらフロントガラスから見上げると、いままさに、巨大な火の球が北の空に流れていくところだった。
 そしてちょうど一週間前の10月14日夜8時半頃、娘を八王子まで迎えに行き、16号と新滝山街道の交差点に差し掛かる時に、光を見た。それは白色の発光ダイオード的光で、まるで折れ線グラフのように空を走った。わずか数秒間。
 と、まあ、なんの論評もなく、僕のUFO体験。

アセンションという言葉

2010-10-17 00:08:02 | ちょっと宗教<的>な
2012年に起こるとされるアセンションという概念に、最近少しだけ惹かれる。

精神の昇華(次元上昇? ← これは意味不明ですが)といった意味らしいが、この端緒になったのは、1995年に起きた阪神淡路大震災だったような気がする。

この地震が起きて、最初の7日間、被災した人々は自分のことを忘れ周囲の人々を助けようと必死に行動したという。その思いと行動は一週間しか続かなかったというが、まさに奇跡の7日間だったと神戸の人が言っていた。

そして今回のチリ鉱山落盤事故への世界の対応こそ、もうすでにアセンションが始まっていることをはっきりと予感させる出来事。

アセンションはある意味宗教用語なわけで、眉唾物という理解もあるだろうが、人類の思考すべきひとつのガイドと思えば、眉唾でもなんでもない重要な提言といえなくもない。

拝金主義から心を大切にする時代への転換を求められているのは確かなことで、その意識の転換ができさえすればアセンションは叶ったも同然。

だからといってお金が重要ではないということではないのだが…。


歩行者 マナー

2010-10-12 12:14:12 | まあまあ社会<的>な
家の近所は、何もない。

何もなさを説明すると、最寄駅前はコンビニが100m離れて2軒、その間に小規模なスーパーが1軒。半径1km圏内に他の店はない。

駅から家まで約700m。その間の道は、車が行き交えない道幅で農道を舗装しただけのもの。

そんな環境のくせにマンションが林立、世帯数は地域で優に2000世帯は超える。

だから地域内の車両数はハンパなく多い。車が道で鉢合わせすると、慣れている住民は下がったり脇の際際まで寄せたり、それなりに工夫もするが、通りがかりの連中は殺気立つ。「お前が下がれ」というわけだ。イラッとするのはする。

朝の小中学生の通学時間帯は、地域内の道路を走る車の運転手は災難という他ない。

なにしろ学生だけでなく通勤の歩行者も湧き出して無法地帯と化し、道はカオスが支配する。

しゃきしゃきと歩いてくれればまだしも、てれんてれんと進む。数人で道幅一杯に広がり話をしながら歩く。

ときどきクラクションを鳴らしたい衝動に駆られるが、我慢する。
それでも事故は起きない。だが、いつか重大事故が起きそうな気もする。

それでは遅いのだが、道を囲む農地や造園業者の地主が、道幅の拡充に協力しない。

そういう意味では、家の近所には、不便さと、カオスと、無関心はある。




今日から、僕も~。

2010-10-10 09:01:51 | 普通な人々<的>な
ブログ・デビューです。

物書きです。音楽系のライターでもあります。

長いこと生きてます。

書くこともたくさんあります。

で、書きます。

今日は、この「宣言」で終了。

毎日、一文だけは積み重ねていきます。

よろしくお願いします。