普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

190000PV OVER!

2014-05-31 00:13:59 | 普通な生活<的>な
また気付くのが遅れました。

PVが、190000 Overです。

ありがとうございます!

あまり更新できずにいますが、それでもこんなに大勢の皆さんが、ここを訪れてくれているのかと思うと……(涙が出ます)……チーン(洟かんでます)。

というわけで、まだまだ続きます!

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無差別殺人の衝動

2014-05-28 16:06:03 | 極端な人々<的>な
世界中から、無差別殺人のニュースが聞こえてくる。

例を挙げるのも煩雑で嫌になるほどだ。

シリア、クリミヤ半島、新疆ウィグル自治区などに端を発するそれは、極めてポリティカルで、はっきりした動機があるように思えるが、それ以外の中国、アメリカやヨーロッパ、そして日本でのそれは、詳細は不明だが動機らしい動機もない。

「殺したいから殺す」と言われて殺されるのは、あまりの不条理に殺される側としては、どうにも納得がいかない。

最悪の結果にならなくてまったくよかったが、AKBの握手会でのノコギリ男の蛮行は、犯人の意識は、あたかも何者かにコントロールされているのではないかと思えるほど、男を通しては、何一つ鮮明に見えるものがない。

「誰でもよかった」という言葉には、動機を裏付ける何の糸口も見つけられない。

言い方を変えれば、殺意は溢れるほどあるが、殺意を向ける対象を見つけられなかったということになるが、その溢れるほどの殺意は、どこから生まれたモノなのか?

根拠のない殺意は、どこから生まれてくるのだろうか?

誰でも、生涯に一度くらいは「殺してやりたい」相手に巡り合うことはあるだろう。具体的な相手がいないとしても、理不尽な出来事、例えばセオウル号の沈没事件の報道を見ていて、意味もない殺意が湧き上がった人もいるかもしれない。

だがそうした意味のない殺意は、妄想のものであって、具体的な殺意を完遂するための端緒・プロセスにはならない。それ以前に自制がある。

だがその自制というバリアが、あっけなく外れるシチュエーションがないとは言えない。

戦争だ。

一つだけ思い当たるのは、少し荒唐無稽なことかもしれないが、そうした殺意のコントロールができない、する術を知らない人間が多くなっているのは確かだということ。理由は、何者かの意志で、敢えて誰も教えなかった、伝えなかった、教育しなかったということなのではないか? ということ。

逆に言えば、そうした人間をむしろ積極的に作り出す環境を整えているのではないかということ。それぞれにトリガーは違うのだろうが、何かに触発された瞬間に、殺意というヒキガネを容易に引くことのできる人間が、敢えて生み出されているのではないか? ということ。

無差別殺人などに対しても、精神病理学的・社会病理学的な考察もかつてほどには行われなくなった。異常な出来事も、案外普通のことととしてスルーされる。

要するに、悪いのはその犯人だけという単純化が行われていて、人が人を殺すことに対して、誰も彼もが昭和の時代ほどには興味を失っている。

これは、本当は恐ろしく怖いことなのだが……。戦争が近いのかもしれない……などと穿った見方をしてしまいそうで、それも怖い。

ノコギリ男に、例えば戦争という、殺意を具体的に発揮できる場・方向性を与えれば、良い兵士になるだろうと、何時か誰かが考え、初めはやんわりとだが言い出しそうな気がして仕方ないのだ。

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アメリカ映画

2014-05-20 23:16:44 | こんなことを考えた
2008年に、ある出版物に書いた、アメリカ映画へのレクイエム。

アメリカン・ニューシネマ
ROLLING 60's & 70's


 1950年代、日本人にとっての映画と言えば東映の時代劇だった。毎週毎週新しい作品が2本ずつ系列の映画館で上映されていた。日本映画の一番良い時代。

 洋画は、なだれ込んできたハリウッド製アメリカ映画のほとんどは戦争モノと西部劇で、どちらかといえばイタリア、フランスを中心としたヨーロッパ映画が日本人の心象にマッチしていた。

 そうこうするうち、フランス映画の中にヌーヴェルヴァーグと呼ばれる潮流が誕生してきた。イタリアのシネマ・ヴァリテなどを起点として世界各地で同様の、新しい映画作りの芽が噴出していたのだが、フランス映画の影響が日本では顕著で、大島渚や羽仁進などの若き才能が日本のヌーヴェルヴァーグともてはやされたりした。

 この流れは、フランスの思想家=サルトルなどが唱えた実存主義などとも無縁ではない。

 第二次世界大戦後の、国家から個への価値転換に伴う精神的柱を模索していた中で、勧善懲悪といったドラマトゥルギーが崩壊して、人間存在を見つめなおす意味合いとしての哲学を背景に持った映画が次第に人々に受け入れられていったのだ。

 その流れ、映画制作の基盤となるテーマ設定などがアメリカにも流れ込んでいった。アメリカと言えばハリウッドを頂点としたエンタメ国家だが、60年代に入って舞台演劇の世界でもブロードウェイからオフ・ブロードウェイ、オフ・オフ・ブロードウェイへとシフトしたのと同様、ハリウッド的手法とは無縁の映画が作られ始める。そこには、国家的価値観としてベトナム戦争へなだれ込んでいったアメリカという国家への不信、反逆というテーマがあった。ドラッグやセックス、暴力といった直截な個の反逆の姿が、新しい映像のモチーフ、美意識としてあふれていた。

 アメリカン・ニューシネマと言えば、真っ先に「俺たちに明日はない」を思い出す。主人公の男女が乗る車にぶち込まれた無数の銃弾の弾痕が映し出されるシーンは、国家によって圧殺される個の象徴として、脳裏に刻まれている。ただ、主人公はギャングなのだが……。

 他にも「ロング・グッドバイ」、「明日に向かって撃て!」、「フレンチ・コネクション」、「イージー・ライダー」、「バニシング・ポイント」、「スケアクロウ」、「ファイブ・イージー・ピーセス」などなど秀作が、わずか10年足らずの間に数多く作られた。

 アメリカン・ニューシネマと呼ばれる潮流には、戦争という深い病理を抱えたアメリカという国家に対する、若者の苛立ちや憤りが映し出され、なおかつ映像も美しい。今のアメリカを知る上でも、一度は見ておきたいワンシーン(時代)なのだ。

 という原稿。自分で言うのもなんだが「悪くない」。ただ、なんで今? と聞かれると、なんとなくとしか答えようもないのだが……。

 日本映画は、この10年で音を立てて変わった。

 その一つの要素は、エンターテインメントへの傾斜。

 その陰で、哲学は薄れた。何も考える必要のない映画は爽快だが、すぐに忘れる。
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疲れが、今さら…。

2014-05-16 00:10:56 | 普通な人々<的>な
信じられないことに、あの1626㎞走破の強行軍の疲れが、今頃ご登場あそばしている。

腕が痛い。首が固まって頭が回らない。右足が突っ張っている。云々かんぬん……。

正直なところ、体の変調の理由に、すぐには思い至らなかった。なにしろ1週間以上前のことだから。

若い頃は、翌日。40歳代までは、翌々日。60歳までは、3日後。それが今や、無理をしたことによって疲労を覚えるのは、実感としては1週間後となった。

そのうち、この体の疲弊した感じは何だろう? と、原因に遡れなくなるほど間が空くようになるのだろうな。

これから先、体が辛い日が来ると、年齢からくるものと思い込んで、少しずつ弱っている自分を自覚し始めるのだろうが、実のところは、10日も前に、何か無理をしたツケが回ってくるだけなんだろうな……。そこのところは、はっきりと自覚しておこう。

自分の肉体・精神の崩れていくような感覚は、まだ味わいたくないからな。

それにしても。意外に直後はしれっとして自覚もなかったが、1626㎞の移動は、そりゃ結構疲れるわな。
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末法万年尽未来際

2014-05-15 21:55:39 | ちょっと宗教<的>な
未来は明るいものだと、大方の人は信じている。

未来は、決して明るいばかりでもないと言えば、まるで悪鬼のように罵られる。

「なぜそんな悲観的なことばかり言うのか? 明るい未来だからこそ、今日を頑張って生きる価値があるのに!」

そう言うのだ。その通りかもしれない。

ただ、暗い未来予測も確かにあるのだ。

明るい未来と信じている大半の人の未来は、概ね自分もしくは自分の周辺に関わりある人の未来という場合が多い。

暗い未来予測は、そうした身近な環境下の未来ではない。

それは、過去を俯瞰して言えば、1999年や2012年を終末の時とした未来予測などとして、結構華々しく脚光を浴びて登場した。こうした未来予測には、明るい未来などほとんどない。

そして、そうした未来予測は「科学的根拠を持たない」という、まるで万能ナイフのような一言で一刀両断される。大体が、嘘つき呼ばわりされることになる。

だが本当にそうなのかと、首をかしげる。

仏教では、今ボクらが生きている時を、末法であると言う。末法とは仏の教えが衆生の機根に全く入らなくなくなる、仏の法が空文化どころか、あることすら忘れ去られる時代だと説く。そしてそれは末法万年尽未来際=永劫とも思える時間続くという。

もちろんそうした時代ですら、仏の法で救済されると説く経典もあるが、基本的に末法は仏の教えが失われた、暗い時代と説く。

時ばかりでなく、仏教では今ボクらが生きているこの場=空間も、穢土と言う。穢土とは穢れ汚れた土地と言う意味だ。人々の機根すら穢土に相応しく穢れたモノであると説く。

法を忘れた穢れた機根の人々が、穢土に暮らしているのが、今の世界なのだ。そしてそれは、永遠に続くのだ。

そうした器の中今を生き、人々は近視眼的に見通す未来を「明日は明るい」と思い込んでいる。いやいや、ひょっとすると思い込まされている。

それが現実。

この世界の支配者は、世界中の人々が近視眼的にしか未来を見ないでくれる方が、どれほど支配しやすいか良く知っている。だから時に、支配の道具に成り果てた宗教は、歪んだ現世利益的なものだらけになっている。

未来を明るくするのは、心の奥低の真実を照らしだす真の宗教のみ? と言うことにしておく。
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国家的規模の利権の喪失 小保方さんvs理研では終わらない

2014-05-09 07:58:30 | まあまあ社会<的>な
以前にもここで指摘したが、小保方さんの作り出した「スタップ細胞」は、国家的規模の利権を生むプラチナの卵。

4月10日にここで、以下のように書いた。

「~少し翻って、世界中からのバッシングの根底にあるものを考えてみるに、それはSTAP細胞のもつ圧倒的な利権と大きく関わるのではないかと思えてきた。
諸論あるだろうが、巷間言われる小保方さんサイドの利権ではなく、強大な別の組織(国?)あるいは研究機関の利権を、小保方さんの論文発表が先行することで侵したのではなかろうか? 俗に『虎の尾を踏んだ』ということなのではないか?
そうでなければ、一人の女性研究者を叩くにしても、これほどのバッシングにはならなかっただろうと思えるのだ。しかも、研究成果まで『捏造』呼ばわりだ。単純に考えれば小保方晴子(の研究)は存在してはならない。従って、その研究成果もあってはならない、と誰かが言っているように思えて仕方ない。
これはボクの推論だが、近い将来、小保方さんの研究によく似た、イージーな万能細胞作成技術が、(国家の利権を代表するような)製薬会社の息がかかった研究者(あるいは、別組織に移った小保方さん本人)から発表されるに違いない」

理研が今回、小保方さんに下した「不正、捏造」の文言そのままの、再調査要請への却下措置は、前述した視点から見れば、この勢力に組するものとしか思えない。ひょっとすれば、理研は小保方さんを「敵」に売り飛ばしているのではなかろうか?

理研は「すべての利権を、理研によこせ。そうすれば許したる」と言っているようにも思えるが、実のところ小保方さんを切り捨て「『敵』に自主的に下るよう仕向けている」ようにも見える。できないことをしろと言っている。

その証拠に、小保方さんが新たに提出していた研究ノートの抜粋に関しても、再調査に結びつくはっきりとした証拠にならないと言うが、再度言わせてもらえれば、あれ以上出すことは小保方さんが自分の正当な権利を放棄することと同じことだ。

理研は、日本の国益より他の何物かの利益を優先しているのではないか? 「敵」はどういう形でか、理研に金を出していそうな気もする。

このままいけば、訴訟沙汰にもなるのかもしれないが、その先を見れば小保方さんは自分の「レシピ」を頭の中に仕舞い込んだまま、短期間とはいえ学んだ母校でもあるハーバード(共同執筆者のハーバード大医学大学院のチャールズ・バカンティ教授に招かれてもいる)に行くことになるのではないか。

そしてそれこそが、理研が結託し小保方さんとその研究成果を売り飛ばす先である「敵」の、思うつぼなのではないだろうか?

さらにもう一つ。

この問題に、日本という国家はあまりにも無関心、無策ではないか? そこが一番問題で心配なところだ。
コメント (1)
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1626km走破!!

2014-05-06 15:01:01 | 普通な人々<的>な
GW真っ最中というのに、さしたる渋滞にも遭遇せず、岡山―東京間(途中往復とも神戸に立ち寄り)1626㎞を無事走破! 行きは息子クン中心の運転で、ボクは500㎞ほど。帰りはボク中心で600㎞ほど。ほぼほぼボクが運転した感じ(彼は、「いや、おれの方が運転している!」と言うだろうな!)。

なによりなのはその日程で、いつものことながら目的のイベント(今回は法事)やらに間に合うためにはどうしても夜中の運転になる(だから渋滞にも巻き込まれないのだが…)。今回は3泊4日だったのだが、車中2泊。

なにやら、貧乏ロックバンドのツアーのような塩梅だが、それでもやっぱり楽しいのだな、車の運転は。

そういえば、今回集合した親戚の中で、義兄の息子が関西を中心にするロックバンドのボーカル(ベース)で、ツアーを繰り返している。

驚いたのは、名神・吹田SAで朝方ガソリンを補充してしていたら、娘が「なんだかアキラ(甥っ子の名前)によく似た人がいるものね」というから、隣りで給油中のワゴンの運転席を見たら、フードを被っているが確かに甥っ子そっくり。

「ほんとうだな」と言いながらもう一度見ると、どう見てもアキラ。こちらの車内は「どう見てもアキラだ!」と大騒ぎ。

彼は、なにやら運転席でスマホをイジクっていたが、窓を開け、起きている全員で「アキラ!」と呼ばわると、きょとんとした顔で、周囲をきょろきょろし、こちらの車の中のメンツの顔を見つけると、「ウォ~~!」と叫ぶ。

早朝の4時頃に、吹田SAなどという普段なら通り過ぎる場所、しかも何年振りかに通った場所で、何年もあっていない甥っ子と、隣り同士で給油するなんぞは、なんの差配か!? と感じ入ってしまった。

彼も当然、ツアーの途中で法事に参加するために強行軍でとりあえず実家に戻る途中だった、と、後で会って聞いた。

そんな万に一つの偶然で始まった珍道中だったが、岡山の温泉で朝風呂を楽しんでいたら、「東京で大きな地震があったらしいぞ」と義兄に言われ、飛び出して部屋でテレビをつけたら、なんだか幸せそうな番組ばかりで、それほどでもなかったかと安心した。実は、出かける前に、娘と「なんだか行っている間に地震が来そうな感じだ」「私もそう思う」なんぞと軽く話していたから。



また、写真をUPした通り、墓参りをしている最中天を見上げると、太陽をそれは美しい巨大な真円の虹が取り囲んでいるではないか! 吉瑞なのか凶瑞なのか!? (これは決してレンズの光学的作用などではありません)

岡山のお宿も、GWなのに1か月前に取れる宿って、どんなだよ? と思いながら期待せずに行ったところが、なんだかそこそこに立派なホテルで、食事もおいしゅうございました。

というように、なかなか刺激的で楽しい、3泊4日。

ただ今、無事戻りました。


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6日まで、ほぼ車上生活。

2014-05-03 12:24:38 | 普通な人々<的>な
昨日ここで書いた通り、関西方面に行ってまいります。

あと何回遠出できるか、想像もつきませんが、まぁ、行ってきます。

従って、少なくとも3日はブログを書けません。

スマホで、という手もありますが、その時間があるかどうか……。

旅の途中、何かあれば認めます。

というわけで、しばしご無沙汰でよろしく。

<3日間の車上生活者(内1日は温泉!)>
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13回忌。義父の法事で兵庫に走る。

2014-05-02 23:55:51 | 普通な人々<的>な
久しぶりに、車の運転。

義父の13回忌の法要。もうそんなになるのかと、あきれるくらい年月の経つのは早い。

我が夫婦+娘+息子夫婦+お孫くん。それに茶色い短毛・胴長の異種の娘を引き連れ、総勢5人と1匹。

まだ明日の話だが、少し緊張気味(本当のところ、そうでもないのだが…)。そのくらいの方が、安全運転できそうだ。

エスティマのハイブリッド。レンタカー。

目的地は兵庫県の日本海側。そこに義父の墓がある。

墓参りと法要の後は、もう少し足を伸ばして、岡山の湯郷に行く予定。

きっと体はしんどいだろうな。でも楽しいだろうな。

なんだか、緊張とウキウキ感が「ハーフハーフ」。




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