近衛文麿と言えば、太平洋戦争前の昭和10年代に都合3度も組閣した首班。名前の通り天皇家に連なる貴族の出であった。
首班としての評価は、腰抜け呼ばわりで散々だが、戦前の軍部主導の政治環境下では、よくやった方だと評価する向きもある。
危うく太平洋戦争の開戦内閣の首班になるところだったが、その負の評価は東条英機が負うことになった。
その近衛の別荘・荻外荘が、荻窪にあった。近衛はここで日独伊三国同盟の策を練ったりもしている。また戦後にA級戦犯の汚名を着せられ終戦の年の12月には、この別荘で服毒自殺を遂げた。
ボクの住んでいた荻窪団地はこの荻外荘から5分程の所で、家からはうっそうとした荻外荘の森を抜ける坂道があり、良く通った。
ボクは20歳には家を出たが、あの道は今でも周囲の空気感を思い出すほど懐かしい。しかしそれから10年ほど経った頃には、荻外荘の樹齢を経た木々は切り倒され、素気もない駐車場に変貌していた。なにか心をがさついた風が吹き抜けたのを覚えている。
そこから歩いて5分もしないところに、日本で最初の音楽評論家と言われた太田黒元雄子爵(だったと思う)の別邸もあった。直角に折れ曲がる道の角に、どこだか忘れたが有名企業の社員寮があり、その尞と境を接して太田黒の別邸はあった。
ボクの知る限り昭和45年頃には、屋敷の庭に入ることができたと思う。ボクは庭の佇まいが好きで、良く遊びに行った。
公園になったのが何時か知らないが、ボクが通っていた頃は、ただの一人も訪れる人の姿を見ることなどなかった。
勾配の途中には東屋があり、中をのぞくとアップライトのピアノが置かれていた記憶がある。
昭和時代の荻窪には、妙な空気が漂っていた。なにか文教的で、上流階級然とした空気。
それを打ち壊したのは、多分ボクが住んでいた荻窪団地の住人などの新参住民だったのだろう。
平成の頃には、高齢社会を髣髴させる年老いた上品な方々の姿が目立つ街になっていた。
それでも子どもから青年時代を過ごした荻窪は、ボクの故郷ではある。
ただ、生まれ故郷の松江同様、荻窪にももはやボクの家族の残滓もない。