普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昔むかしの」百物語<その77>こんなことしてたか!

2024-03-31 16:51:08 | 東京「昔むかしの」百物語
3カ月ぶりの投稿は、昭和のボクの生業の話。

昭和45(1970)年前後、ボクは芝居の世界にいたが、いかんせん当時は芝居では暮らしていけなかった。

そんなこんなで、声の仕事をしていた時期があった。つい最近、昔の写真を漁っていたら、この写真が出てきた。その頃のボクを切り取った一枚。右から3人目がボク。スカした(これもとんでもない死語だな)野郎だった。仕事も仕事だし、スーパーで買い物する奥様相手ということで、こんな格好をしていたのだと思う。時代だなぁと思う。

金鳥というメーカーが、化学雑巾と称して水を使わない当時としては画期的な不織布の紙雑巾を発売、そのラジオキャンペーンを担当した。

TSというそこそこに大きな広告代理店の仕事で、毎週各地のスーパーや百貨店(いかにも古いな)に出向いて、ライブ(のような体)で、その場にいるお客を相手にサッサを使ってもらい感想を引き出し、最後に「サッサで一言でした」で、締めるというキャンペーン。3カ月くらいやったかな。

当時はこの類のCMが結構あって、シャンプーだったかのテレビCMで石坂浩二が出演していたものが大人気だった。そのラジオ版といったものだった。

写真の通り、車でディレクター、キャンペーンガールの皆さんとワイワイ出かけては、約2時間程度の実働で5万円位のギャラだった記憶がある。良い時代だった、と言うしかない。

この時のディレクターが、東雲(しののめ)さんと言う方で、ボクはこの漢字の読み方を、その時は初めて知ったのだった。



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東京「昔むかしの」百物語<その76>立川という町 南口編

2023-11-03 21:38:47 | 東京「昔むかしの」百物語
立川駅北口の話を、前回したわけだがまだまだ言葉足らずで言いきれていないが、今回は南口に目を向ける。

正直、昭和・平成前期の立川南口はごちゃごちゃとした飲み屋街と、なにか猥雑な感じのする一帯の広がる未開発の地域だった。これといっためぼしいビルもなく、小口の雑居ビルがいくつかある程度で、他は小さな商店が軒を連ねていたような印象がある。

まぁ、あくまで印象で記憶が挿げ替えられているかもしれない。ただ、20年ほど前に何年間か地域のローカル新聞の取材記者をしていたことで、なぜ南口が北口のように再開発されずにいたのか、その理由はわかっている。

とても簡単な話で、まとまった土地の地権者がおらず、ほとんどが小口の地権者であり、それぞれの思惑から再開発が進まなかったということで、現在のような景観はやはり、モノレールの敷設を契機にできあがったものだった。

南口を降りると、駅前から飲み屋があり、多くのサラリーマンが管をまく光景が日常茶飯事だった。そして特筆すべきは立川の競輪場が北口側にあり、市に莫大な財政的バックアップを与えていたのだが、その車券が外れた競輪ファンが、南口の飲み屋に足を運んだ。買った連中は北口側で飲んだ。要するに、南側の飲み屋の方が安上がりに飲めたわけだ。

その棲み分けというか区分けは、今でも残っている印象だ。

そして南口には、もう一つの顔があって、それが極めて特異なものだった。それは柴崎町側に広がっている(いまでもまだ残っているが)真如苑という新興宗教団体の存在だった。今では主だった祈祷施設は北口側に移動しているが、全国に勢力を広めた真如苑の本部は昭和30年代から柴崎町の諏訪神社に隣接してあり、多くの信者が立川駅南口を闊歩していた。昭和の頃は町を挙げて真如苑をサポートし、町ぐるみ真如苑という印象だった。その代わりと言っては何だが、真如苑の信者が決まった日時の早朝から、立川駅南口周辺の掃除をやっていた。それは立川駅南口の風物詩的な捉えられ方までしていた。

実を言えば立川駅南口は、それしかなかった。そう言い切ってもいいエリアだった。
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東京「昔むかしの」百物語<その75>立川という町、まず駅北口

2023-10-27 17:51:33 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和の頃、よもや立川で暮らすことになるとは思ってもいなかった。

とはいえ7~8年の間、川を越えた日野に住んでいたから、それほど意外なことでもなかったのだが、平成になってすぐの1993年だったか、立川の北のはずれの現住居に移転した。乗降駅の駅前には一軒、当時の感覚では「万屋」的なコンビニがあるだけで、駅前だけでなく自宅の半径1キロ以内にはマーケットも食べ物屋も全くなかった。車がなければ生きられない辺境の地という印象だった。そこで唯一嬉しかったのは、自転車で一走りすれば国営昭和記念恩賜公園をまるで自分の庭のように散策できたことだ。それ以外は、不便この上なかった。

今でこそ立川を代表する国営昭和記念恩賜公園だが、その頃は、まだできたばかりで訪れる人もあまりなかった。現在は整備されて公園に沿って立派な南北道路が走っているが、当時は米軍から返還された土地だったにもかかわらず未整備で、不思議な景観の野原だった記憶がある。

JR立川駅はそこそこの地方都市的賑わいがあった。ただし北口方面だけ。駅ビルは、確か「WILL」と言っていた記憶があるが、いつのまにか「ルミネ」になっていた。北口に出て西側には老舗の第一デパートがあり、道を挟んで髙島屋があった。中央通りの東側には伊勢丹があり、FROM中武もすでにあった。丸井もあった記憶がある。百貨店の屋上には当たり前のように遊具施設が並び、大勢の親子連れで賑わっていた。

北にワンブロック歩くと川が流れていて映画館が何軒か並んでいた。

その辺りまでは、割合に地方都市然としていたが、シネマストリートと呼ばれた辺りはどこか青線的なイメージが残る一角だった。狭い道の両脇にバーなどの飲食店が軒を連ねていて、戦後の米兵相手の飲み屋街といった風でさびれているがモダンな印象もあった。伊勢丹やFROM中武の裏手も、飲み屋がひしめき合っていた。

今のようなペデストリアンデッキができたのは、平成になってだいぶ経った頃。多摩都市モノレールが開通したのと同じ頃だったと思う。その頃から一気に今の立川のように少しあか抜けた街になっていったと思う。放置されていた米軍から返還された土地にも開発の手が入り、多くの公共施設が建ち並ぶ副都心的な景観に様変わりしていくことになる。
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東京「昔むかしの」百物語<その74>渋谷

2023-05-25 15:31:39 | 東京「昔むかしの」百物語
渋谷は、おしゃれな街だった。昔からおしゃれ。

かの有名なスクランブル交差点は昭和48年頃にできたと思うのだが、その頃にはあちこちに同様の交差点があり、それほど話題にも上らなかった。

それより、渋谷にはかつて駅前にどぶ川が流れ、ロープウェイがあったということの方が驚きだ。

渋谷にはよく行った。国電はもちろん、都電でも荻窪から新宿、新宿から渋谷と乗り換え出かけた。トロリーバスでも行った。

昭和50年代になるとNHKには取材でよく出向いた。ジャンジャンというライブハウスが西部の裏手にあった。シャンソンや浅川マキをよく聴きに行った。

急な階段を昇るLIVE HOUSE屋根裏ではよく羽目を外した。頭脳警察の解散ライブも屋根裏だった。

東急ハンズができて、話のタネに見に行った。PARCOができてやはり話のタネに出掛けて行った。

今はなくなってしまったが東急本館も地の利は良くなさそうだったが、なにか孤立感が半端なく逆によく行った。

忘れられないのが、東急のプラネタリウム。よくできた天体観測施設だったよな。なんということもなく夜空を見に出かけた。

個々の飲み屋や飯屋には言及しないが、イタ飯屋から立ち食いソバ屋まで、雑多にあって飲み食いには不自由しなかった。

そうそう。京王井の頭線が良かったな。短い路線だけれど、なにか気分の良い路線だった。渋谷~吉祥寺という流れがボクにはマッチしていてよく乗った。

神泉にはうまいスパゲティー屋があった。

渋谷はこんな感じの箇条書きでしか表現できないかな。




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東京「昔むかしの」百物語<その73>思い出横丁

2023-05-25 14:07:35 | 東京「昔むかしの」百物語
その昔、今インバウンドで海外の旅行客が溢れる新宿「思い出横丁」を、ボクらは様々な思いを込めて「小便横丁」と呼んでいた。

戦後すぐの頃は「軍隊キャバレー」なる風俗店があり、新宿から大久保方面の車窓から派手な看板が見えていて、昭和の中頃まで存続していて、客は女性従業員に敬礼しながら酒を飲んでいた。なんのこっちゃよく分からないが、太平洋戦争を良しとする多くの客でにぎわった。聞いた話では彼の地は安田組というやくざ組織が関与していた一帯だったという。

小便横丁という名の由来は、トイレなどない一帯(あるにはあったが行くのが面倒だった)で、線路沿いの壁に誰も彼もが立小便をしたことが由来と理解している。

ボクがこの辺りに出没していたのは10代の終わり頃から20代の前半だったが、今でもあると思うが「菊屋」や中通り沿いの2、3件ほどの一膳飯屋と飲み屋だった。「菊屋」は、当時飲みなれなかった焼酎を飲んで、のべつ飲みつぶれていた。

既に安田組などのやくざの影響力は薄れていたとは思うのだが、それでもボクの知る東京のダークゾーンの一つだった。他には歌舞伎町、センター街、ゴールデン街、池袋の西口裏や、渋谷のセンター街、東の線路沿いの一帯などなど。なにせ、ダークゾーンこそが最高におもしろかったから。

ボクの出没していた1970年前後には、まだヒロポン(今でいう覚醒剤だが、錠剤で売っていた時期があったそうだ)中毒の親父や、今でこそ普通に売られている戦後闇市のホッピーやカストリ焼酎、電気ブランなどという、言ってしまえば代用アルコールの類で酔っ払った親父たちがゲーゲーと吐き戻しながら飲んでいた。

あの頃は、「アウトローしか勝たん」と言うような時代だった。ボクもまたアウトローには憧れた。

こうした一帯は、戦後の闇市がベースになっていて、その闇市は前述したような安田組、和田組などの的屋が統括していた。やがて、その一帯に三国人(この言葉もいまでは差別用語なのだろうが、日本に居残った朝鮮人、中国人、台湾人をそう呼んだ)のアウトローが進出し、歌舞伎町などでも日本のやくざ、中国系のやくざ、そして韓国系、ベトナム系の闇組織と、統括勢力が変わっていったという。今はどうなのか知らない。聞くところによれば、歌舞伎町を追い出された組織は、立川、八王子へと都落ちしたとかしないとか。

思い出横丁を通るたびに、あの頃を思い出す。店の佇まいは変わらないのだが雰囲気はまるで別物で、危険な香りなど一つもない。聞こえてくる呼び込みの声もどこか中国なまりがある。そういう意味では別の危険な香りがするというのは、言いすぎかな。
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東京「昔むかしの」百物語<その72>明治神宮

2023-03-22 23:08:19 | 東京「昔むかしの」百物語
明治神宮は、遊び場だった。叔母の家が代々木の北参道(後に表参道に転居)にあって、小学生の頃は毎週のように明治神宮で遊んでいた。

明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする、1920年の11月(明治天皇の崩御後)にできた比較的新しい神社で、なにより他の神社と異なるのは、あの鬱蒼とした森が実は、植林によってできた人工の森であるということだ。全国青年団の勤労奉仕で造苑整備されたものなのだ。

元々は肥後藩主であった加藤家(加藤清正公!)の別邸だった。神宮の内苑と呼ばれる一角には「清正の井戸」と言われる湧水が今でも滾々と湧き出している。

明治神宮は終戦間際の空襲で焼失している。戦後の昭和33年に再建されたが、創建時と同じように国民の浄財を原資に再建された。屋根瓦の1枚には、ボクの名が刻まれていると、幼い頃亡父に聞いた。

そんなこともあって、僕は明治神宮が好きだったのだ。

内苑の躑躅や花菖蒲の季節には、決まって出かけた。見事な花々とその庭園美は幼心にも常に鮮烈な印象だった。

ボクのもう一つのお気に入りは青山練兵場跡の馬場で、馬を見ることだった。それと絵画館(あそこも外苑に含まれるらしい)で、日清・日露戦争を描いた絵画(だったと思う)を見ることだった。

明治神宮にまつわる話は、文化の日や正月の初詣の表参道の賑わいなどについて書いた記憶がある。原宿駅の御料列車(御召列車)のことも書いた。

最近では明治神宮もそれほど宗教施設としての認識もないようだが、ボクにとっては殊更に遊び場であって初めから宗教施設などではない。だが、ある種の静謐とした空気感は、他では感じることのできないものがあった。それも原宿と言う流行の最先端を任ずる都会の、真っただ中にあることが、不思議でならない。いや、不思議と言うより奇跡のような気もする。

それはそれとして、ボクにとって明治神宮は、今ではない。幼い頃の思い出として、大きな存在だ。

時として訪れたいと思うのだが、なかなか足が向かない。近いうちに足を運びたいと思う。どうせなら躑躅や花菖蒲の季節が良いかなと思う。もうじきだ。

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東京「昔むかしの」百物語<その71> 海水浴

2022-08-13 16:30:51 | 東京「昔むかしの」百物語
小学校低学年の頃、海水浴ではないが、二子玉川に従弟たちと良く泳ぎに行った。

二子玉川は今でこそ、おしゃれな高級住宅地然としているが、昭和30年代はまだ避暑地の様相だった。叔母や母も一緒だった。お弁当を持って出かけ、ボクたちは川崎側の川べり(もちろんまだ護岸工事はされていなかったと記憶する)に茣蓙を広げ、昼過ぎから日の沈むまで遊びつくした。

川遊びは危険と、今のご時世ではライフジャケットを付けたりしながらの川遊びで、二子玉川で泳ぐことなどもちろんできないだろうし、せいぜいラフティングでもするといったところだろう。

そういう意味では、あの頃はただただワイルドだったという外ない。

二子玉川での遊泳は、ある時突然禁止となった。川の水の汚染、水難事故、様々の要因があったのだろうが、ボク個人としては、ある時泳いでいて息継ぎをしようと顔を合上げたら、目の前に干からびたウ〇チが浮いていて、慌てて皆のいる土手に戻った。その時、ボクの中で二子玉川は、終わった。

海水浴は湘南が定番だった。由比ガ浜や葉山、要するに湘南と言われる一帯はどこでも泳げた。日帰りでも十分遊べた。夜になると、どこの浜でも夜光虫が淡く青い光を放ちながら、波とともに岸辺を縁取っていた。

湘南ではないが、追浜で遊んだ記憶が鮮明だ。だいぶ大人になって追浜を訪ねたことがあるが、ボクが遊んだ当時の面影はなく、埋め立てられているというのではないけれど、夏の遊び場としては全く不適な場所になっていた。

ボクが海水浴に行っていた当時の追浜は、子どもの胸のあたりの深さがどこまでも続く遠浅の海で、波も穏やかだった。だから、何の心配もいらずに海水浴を楽しんだ。浜の裏手には丘がありその麓には太平洋戦争時の防空壕が放置されていた記憶がある。母に「入るな」と言明されていたが、従弟と少しだけ足を踏み入れたが、すぐに見つかりこっぴどく怒られた。

今でも思い出す追浜の海だが、前述の通り海水浴には全く不向きな海になっていた。何かの養殖なのか何だか分からないが、浜から相当の沖合まで葦というかなにかは不明だが、細い枝がおよそ1m置きに突き立てられ、泳ぐどころか歩くこともできなさそうだった。

今どうなっているのかは、あいにく知らない。

他には千葉の勝浦に、家族で海水浴に出掛けたことを覚えている。珍しく父も一緒だったことで、少し緊張していてあまり羽目を外せなかった記憶があるが、宿の裏手が用水路で、水はほぼ足首までしかなかったが、麦わら帽子を落とし父が水路まで下りて拾ってくれたことを覚えている。

夕飯に出たアワビだったかトコブシだったかが苦味はあるものの、やたらにうまかった記憶がある。

もう一つ。小学校の臨海学校で冨浦に行った。その年は梅雨の長雨、悪天候続きで一泊二日の臨海学校初日まで雨が降り続き、海で泳げたのは二日目の午前中になってだった。

そんなこんなで皆我を忘れるとでも言えるくらいに無我夢中で遊んだ。少し沖まで泳いでいくと、目の前にぷかぷかと浮いているものがあった。よく見るとくちゃくちゃに丸まった、聖徳太子の描かれた千円札2枚だった。すぐに海から上がり、宿のガラス窓に張り付けて、宿を出るまで乾かし、何人かの仲間と土産を買う足しにした。

さすがに交番に届けるなぞ、全く頭に浮かばなかった。教師に届けるなぞも思いつかなかった。悪天候で半分以上楽しめなかった臨海学校を哀れんだ、神様の贈り物だと思ったものだ。
その時のボクと友人の世界では、それが一番妥当だった。
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東京「昔むかしの」百物語<その70> 広告の形 2

2021-07-04 14:12:55 | 東京「昔むかしの」百物語
以前に、昭和の広告の形という原稿を書いたが、一つ忘れていた。
技法や技術的な広告の形として、空の広告を取り上げたが、実は地上にまごうかたなき広告の最高度の表現形態があった。

チンドン屋さん。

今でも活躍するチンドン屋さんはいるのだが、昭和20年代から40年代にかけては、どこの町の商店街にもチンドン屋さんはいた。

数人の編成で、鳴り物をライブで演奏しながら街中を練り歩く。商店街のセールは言うに及ばず、映画館の出し物の交代時期や、パチンコ屋、新装開店の店があれば、いつでも彼らの名演奏を聴くことができた。

ボクたちは、ハメルーンの笛吹き男を追った子どもたちよろしく、どこまでもチンドン屋さんの後を追ったものだ。

鳴り物の編成は、チンドンという通り、いなせな遊び人風のいでたちをした(という印象が強い)打楽器奏者が大小の和太鼓を縦に並べたチンドン太鼓に、摺鉦(四助といったような気もする)という鐘を「こんこんちきちんこんちきちん」と鳴らし、それに加えて鳥追い姿の三味線(これも記憶の中の印象)、ピエロの格好(こちらも同じ)をしたクラリネットやサックス、たまにはフィドルなどもあり、和洋混交の編成で、それはそれは目も耳も楽しませてくれるパフォーマンスだった。一人はクライアントのお店の名前やセール品目、日付などを大書した旗指物を振ったり、体の前後に看板をぶら下げたりしながらビラを撒く役目だった。

そして、一番よく演奏されていたのは哀調溢れる田中穂積の「天然の美」ではなかったか。単に思い込みかもしれないが…。曲目はわからないが元気の出る曲も多かったと思う。

チンドン屋さんの存在感は、子どもの頃に見たサーカスとなぜかダブル。それはピエロがいたからというだけでなく、なにか「天然の美」という曲の印象や、圧倒的な非日常感が近似で、心のどこかに刷り込まれて忘れることのできない感覚としてあるのだ。

今度チンドン屋さんに遭遇することがあれば、子どもの頃のようにしばらく後を追ってみたいと思う。
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東京「昔むかしの」百物語<その69> なるようになる~Que Será, Será~

2021-06-27 15:03:42 | 東京「昔むかしの」百物語
1980年、ボクはカメラマン・生井秀樹氏とデザイナー・唯野信廣氏との3人で事務所を立ち上げた。事務所といっても、当時住んでいた荻窪のマンションの一室を、それらしく改装しただけのものだった。

生井氏と唯野氏は、それまでボクが編集者として携わった仕事を共に協働してくれたどちらも信頼に足る盟友であり、友人だった。ボクが営業して仕事を取り、テキストはボクが担当し、写真は生井氏、デザインを唯野氏が担当した。

雑誌のページはもちろん、レコードジャケットや、アーティストのコンサート・パンフレットなど、結構それらしいものを製作し、そこそこに皆に喜んでもらったが、長くは続かなかった。

それというのも、2人は自分の仕事にプライドがあり、ボクが期待したほどに営業的な戦力にはなってくれなかったのだ。2人をよく知るボクも、端からそれほど期待はしていなかったが、斯く言うボクも営業は大の苦手で、いつの間にか事務所を維持するほどの仕事を獲得できなくなっていったのだった。

結局2年も持たずに、事務所は元のようにボクの居室になった。

それでも仲違いをするでもなく、ボクたちは良い友人であり続けた。それはついこの間まで続いた。

昭和という時代は、何度か書いたかもしれないが自由度の高い時代だった。お金の為というより、やりたいことをやりたいという思いが強かった。

だから、たとえ事業に失敗しても、「Que Será, Será」だったのだ。とりあえずやりたいことをやったから、「ま、いいか!」といった感じ。それは、言葉を変えて言えば、明日には明日の仕事が必ずあると、確信できる環境だったからだ。つまり、社会はそこそこにうまく回っていたのだ。

バブル前は、どこか社会が健全だったように思う。人が生きることのできた時代であり社会だった。

やがて社会はバブルに突入し、優先順位は思いより金の方が高くなった。社会は浮かれ倒していたが、バブルがはじけた瞬間から、生きるためには完全に金が最優先の社会構造が作られていった。

その流れに乗り損ねたのが、ボクと唯野氏。生井氏は仕事柄流れに乗るもくそもなく、くる仕事は拒まずのスタンスで、良い仕事をし続けていた。

年を経るとともに、ボクを支えてくれていた人たちは引退し、仕事の一線から姿を消していった。ボクも唯野氏も生井氏も、取り残された老人めいていった。

今年に入って唯野氏の訃報を聞いた。この10年ほどは良い話を聞かなかった。酒が唯野氏の唯一のマイナス点で、結局酒が彼の命を縮めたようだ。

そして、生井氏の訃報は6月15日に聞くことになった。闘病に入った経緯もすべて知っていたし、余命を宣告されていたのも知っていた。それでも急だった。

ボクは、元気だ。もちろん体力の衰えはある。仕事や人間関係での精神的な部分でのもろもろの喪失感もある。だが、すこぶる元気だ。

かつての盟友は、もういない。だが、彼らを背負ってもうひと花咲かせようと思った。

それこそ「Que Será, Será」の思いで。

なにをするかは、だから、これから考えることにする。
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東京「昔むかしの」百物語<その68>象のはな子

2021-06-10 17:15:33 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和20、30年代、日本中にアジア各国から像が寄贈された。

太平洋戦争の敗戦から10年も経たずに日本の子どもたちに喜んでもらいたいという、アジア各国からの信愛の使節だった。

子ども心に、日本は世界(アジア)から好かれているのだなと思った記憶がある。

戦中の日本が、アジア各国で悪行を行ったという風説からは、想像もできない日本への信愛の情溢れる事実だ。

ボクの子どもの頃は、上野恩賜公園の動物園と、井の頭公園の自然文化園に像がいた。井の頭文化園の像は、タイ生まれのはな子といった。それまで上野動物園にいたが、井の頭に引っ越した。上野には確かインドから来たインディラという象がいた。当時のインド首相ネルーの娘さんの名前だった。

はな子は、二度の事故で二人の飼育員を死なせている。そのせいで殺人象と言われたこともある。



この写真は、ボクが小学1年生の遠足の写真(だと思う)。手前の白い帽子がボクだが、奥にいる像は記憶は定かではないが、多分井の頭のはな子だ。リンゴを投げてはな子が食べてくれたのを覚えている。

ボクは象が好きだった。見ているだけで心がほっこりした。なぜだろう?

そういう意味では、アジア各国が日本の子どもたちのためにと像を寄贈してくれたことは、少なくともボクに関しては、アジアの人々の思いのままに受け止めていたことになる。

ボロボロになったアルバムを眺めていたら、こんな写真が出てきた。当時のわくわく感が心の奥底から湧きだしてきた。

65年などという月日は、まるでなかったかのようなものだと思った。

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東京「昔むかしの」百物語<その67> 少し角度を変えて、音楽

2021-05-11 09:39:07 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクにとって、音楽が生活の一部だった時期もあったが、今となっては寸毫も生活とは関係がない。そういう意味でいえば、純粋に個人的な好き嫌いで音楽を聴ける環境にあるといって良いのだが、昔のように、音楽に対してそれほどの意味を感じることがない。

昔むかし、ボクにとって音楽が生活の一部だったのは、1970年代=昭和の後半にあたる。音楽雑誌を作っていたということはもちろんのことだが、それだけではなく、音楽に大きな可能性と意味を感じていたのだ。簡単に言えば、音楽は世界を変える可能性すら秘めた、変革の道具とさえ思えたのだ。

1960年代後半から80年代前半の約20年、昭和40年頃から60年頃までが、ボクにとって音楽は生活の一部だった。毎日のように歌い、ギターをかき鳴らし、自分の表現欲求を満たしていた。そして他の「彼ら」の歌や音に、耳を傾けていた。

海外からは、驚くほど斬新で革命的と思えるほどの音楽が、毎日のように姿を現し脳髄を刺激した。フォークという潮流が現れ、ロックへと移行していった。そしてそれは、世界の政治動向とまったくリンクしていた。

今の音楽とは違って、当時の音楽は確かにすべての同時代人に共通するカルチャーだった。だから政治にも敏感に反応した。アメリカのベトナム戦争遂行という、今から考えれば暴挙としか言えない戦争行動に、世界中の若者が音楽でも対抗しようともがいていた。それはヒッピームーブメントや、学生運動と連動していった。

当時、保守的な社会と右翼的政治傾向がベトナム戦争遂行の主体者であり、それを阻止するのは左翼的政治傾向の標榜する革命的な行動しかないと、多くの若者が信じ行動した。

音楽そのもので何かができるわけではないとは知っていたが、音楽は確かに次の行動を見定め決定付ける指標にはなり得たように思われた。

1970年前後まで、音楽は革命的だった。というより左翼的だった。だがそれは瞬く間にエンターテインメント業界に取り込まれていった。「金の成る木」として「大人」が認めたのだ。そこから生れる「金」は、本来革命的だった「彼ら」を「大人」に変えた。それですべては終わった。1970年代前半は、その移行期で玉石混交とした時代だった。

だがそこに、レゲエとパンクという、まったく「大人」とは縁のないカウンターカルチャーの代表格が現れたことで、音楽は一変した。右翼だの左翼だのと言うステレオタイプの思想傾向ではなく、存在意義を問うかのような音楽たち。たちまちこの潮流は若者を、音楽を変えていった。だが、結局レゲエもパンクも、たちどころに「金の成る木」として「大人」の認知するところとなった。5年も持たなかった。

形だけのレゲエとパンクがもてはやされることになり、それはポップスの一つの形に過ぎなくなった。

ロック・ミュージシャンが、何億という「金」を稼ぐなどと言うのは、1970年頃まではあり得ないことだった。ここで書いてきた通り、ロックも含め音楽は意味のあるカルチャーの一つだった。だから「金」とは無関係のものだった。「金」は結果として付いてくるものであり、目的とするものではなかった。だから意味が持てた。「金」が目的になった瞬間に音楽の意味は消え失せたのだ。

したがって現在は、ボクにとって音楽は「寸毫も生活とは関係がない」のだ。

2020年のアメリカ大統領選挙で、アメリカのミュージック・スターたちが、選挙動向に影響力を行使しようとしていた。ことに女性ミュージシャンたちにその傾向が強かった。

だがボクの目には、肌を露わにし煽情的なダンスで何十億という金を稼ぐ彼女たちが、まるで街娼のようにしか見えない。つまりは「金」を目的とし、手段の一つとして身を売った女性のようにしか見えないのだ。

その彼女たちが、巨万の富を背景に政治を語ることの陳腐さを、はっきりと見せてくれたのが今回のアメリカ大統領選挙だった。

そう、音楽はボクの知るそれとは、まったく別のものになり果てているのだ。

それは日本でも同じことなのかもしれない。ボクの肌感覚では、そうなのだ。
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東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その66>金縛り

2021-03-01 17:21:33 | 東京「昔むかしの」百物語
原稿の前に。
先週、FBのメッセンジャーが乗っ取りに会い、多くの皆さんにご迷惑をかけました。改めて陳謝します。
ボクからのメッセンジャーメールのyoutube画像は、決して開けないでください。よろしくお願いします。

一応収束はしていますのでご安心を。

さて、ボクは以前にも書いた記憶がありますが、17歳から34歳になるまでの17年間、ほぼ毎日金縛りにあっていました。

それは昭和の時代に生きた40歳までの半生の、ほぼ半分にあたります。毎日寝付く前の通過儀礼のように、金縛られていました。それは恐怖がボクを包み込むという瞬間で、ぞわっと背筋に悪寒が走った時から、振り絞るように声を発するまでの数分間続きました。

歩いていて金縛りのような状態になったこともあります。店先で動けなくなったこともありました。

と同時に、ここでは詳しく書きませんが、様々な霊体験もしました。霊夢も見ました。

ものの本によれば、子どもの頃からの金縛りは社会人になれば収まるそうですが、結構な歳行きまで続いたものです。

それが、ある瞬間にパタッとなくなりました。憑物が落ちたようにと、よく言いますが、まさにそんな感じです。

いま思うのですが、昭和という時代には、どこか思想・哲学・宗教という所謂内省的な生命の方向性があったようです。言い換えれば生命の負の傾向性とでも言いましょうか。

それは、多くの青年の生命の脚を引っ張り続けていたようにも感じられます。

演歌も暗く淀んだ生命を歌っていました。死と言う言葉が普通に歌われていました。

ベストセラーではないけれど、多くの青少年に影響したのは、深く内省した挙げ句、死を選んだ青年の著作だったりしました。右翼でも左翼でも、戦争と言う巨大な生命の坩堝から抜けだせずにいた青年も多かったように思います。戦争は色濃く時代の通奏低音を奏でていました。

そんな背景があって、ボクは金縛られていたのではないかと、最近になって思うわけです。

なぜなら、金縛られなくなったのは、ボクが結婚し子どもが誕生した、まさにその時だったからです。

それは、後ろ向きではいられない時間軸の中にボクが身を置いた瞬間でもあったのです。

気が付けば、平成になり、沈思黙考するような局面などなくなりました。明るく前を向いて、楽しく生きることがどれだけ大切か、あの人もこの人も口にするようになりました。良いことです。

歌は、どれもこれも人生の応援歌のようで、カラオケではひたすら盛り上がることが良しとされました。おじさんが昔の曲など歌えば、その場の空気はカッキーンと氷付きそうでした。

どっちがいいという問題ではなく、時代が生み出すアトモスフェアは、確かにあるということでしょうか。

今でも鮮明に覚えていますが、ボクが最後に金縛りにあった時に見た幻は、なぜか狸になった母が、ボクに汚物を投げつけるという幻影でした。

それをどう紐解けばいいのか、ずっと考えていましたが、はっと気づきました。

もう10年以上も前に亡くなった母ですが、当時、ボクは宗旨替えをしたのです。

17歳の時に母がさる宗教団体に入信し、ボクも連れられて出入りしていましたが、特段熱心に勤めたわけでもなく、ある種の親孝行でした。

しかし結婚を機にすっぱりと止め、法華経を自分の芯に据えました。

よく考えると、ちょうど母が信心したある宗教団体に、出入りしていた間だけ、ボクは金縛られていたことになります。

どんなことにも何かしらの因と果がまとわりつきます。それがうっすらわかりました。
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東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その65>恋・愛・出会い

2021-01-29 23:34:19 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの初恋は、成就した。しかしすぐに破局した。

一歳年下の、高校時代は同じ演劇部の後輩だった。小学校時代も人形劇クラブで一緒だった。嫋やかで美しい少女だった。その頃から恋心を抱いていたが、中学・高校と同じ学校で、なおさらに恋心は募った。彼女の家の近くの電信柱の陰から、彼女の姿をじっと見つめる日もあった。

高校を卒業して、改めて告白をし付き合い始め、彼女が高校を卒業してすぐに同棲した。それは結婚も同様だった。仲間に祝福されて江古田のスナックで披露宴を開いた。金もない実力もない何もないままに、阿佐ヶ谷のオンボロアパートでのままごとのような同棲生活が始まった。

ひとつも彼女が幸せを感じることのなかった同棲生活だったろう、と思う。三年で別れが訪れた。ままごとのような同棲生活の当然の帰結だった。

二人目の恋人、三人目の恋人、そしてそれまでのどの彼女とも異なる、ボクにとってはまったく得難い四人目の恋人が現れた。今の奥さんだ。

奥さんとの出会いは言葉にできないほど、不思議で奇妙で強烈なものだった。

ボクは当時音楽雑誌の編集者だった。その日はフリートウッドマックというイギリスのブルースバンドのインタビューで大阪に出向いていた。魅力的な女性ヴォーカルが加入して、一気に世界的な人気に火が付いたバンド。その時は『ルーモア(噂)』というアルバムが売れていた。

万博ホールでのライブの後に、楽屋でインタビューという予定だった。

12月4日の寒い日だった。当時デンスケと言う大きな録音用のカセットを肩からぶら下げ、ボクは万博ホール最寄りの地下鉄・千里中央駅で、タクシーを待っていた。

ところがいくら待っていてもいっかなタクシーに乗れない。すると、後ろから「どちらに行かれるんですか? それではいつまでもタクシーは捉まえられませんよ」と、うら若い輝くような少女が声をかけてきた。

彼女は「私も万博ホールに行く」と言い、ボクをタクシー乗り場から少し離れたところに連れて行き、さっさとタクシーを拾い、同乗して目的地にも向かったのだった。

タクシーの中で彼女は「並んで待っていても、乗れないの」と言った。彼女が言うには「順番を守る文化ではない」ということだった。

ボクはとりあえず礼を言い名刺を渡し、インタビューが終わるまで待ってくれるとは思わなかったが「もしよければお礼にご飯でも食べよう」と、彼女に言った。彼女は笑顔を見せたが、ボクの申し出には答えなかった。

それでも、その時すでにボクは彼女に恋をしていた。だが、それ以上の話はできなかった。もし待てるのであれば、万博ホールの入り口で待っていて欲しいとだけ彼女に伝えた。

ライブが終わりインタビューを終え、ボクは急いでホール入口に向かったが、彼女の姿はなかった。当たり前だ。

東京に戻り、編集部でそうしたいきさつを同僚に話したりもしたが、彼女に会うためのなんの手掛かりもない。名前も知らない。もう二度と会えないのかと思いながらも、忘れられずにいたのだが、年末進行で忙しいある日、レコード会社回りをして編集部に戻ると、「加藤さんお客さんがみえました。また後で来られるそうです」と言われた。若い女性の二人組だという。心当たりもないまま、デスクワークをしていると「加藤さんお客さんです」と、事務の女の子が言う。

言われるまま入り口付近を見ると、彼女が立っていた。まぎれもなくあの万博ホールの彼女だった。ボクは「アッ」と声を出したと思う。どぎまぎしながら彼女に近づき「どうしたの?」と、わけのわからない問いかけをすると、彼女は「タクシー代を返しに来た」と言うのだ。

確かにあの時タクシー代はボクが出した。当たり前の話だ。だがボクは、その一言でサクッと気持ちが肝に落ちた。近くの喫茶店に彼女を誘い、席に着くなりボクは「ボクと結婚しよう」と言った。まったくとんでもない発言だった。馬鹿じゃないのと言われても仕方ないと思った。

だが彼女は「はい」と応えた。

それがボクたち夫婦の馴れ初めである。

その時同席していた彼女の友人がいる。彼女はボクたちの話を、あっけにとられて聞いていたと言う。こんなことってあるの? と思ったそうだ。

それから神戸在住の彼女と、音大を卒業して上京するまでの2年間の遠距離恋愛を含め5年に及ぶ付き合いの後、結婚した。

気が付けば、もう44年経った。まだボクはあの時のことを鮮明に覚えている。

これは、噓としか思われないけれど本当の、「昭和の恋の物語」だ。

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東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その64>タクシー

2021-01-12 16:53:16 | 東京「昔むかしの」百物語
大晦日から元旦にかけての国電(いまのJR)は、夜通し電車を走らせていた。

初詣客への配慮。そうした配慮が必要なほど誰も彼もが、初詣に出かけた。大晦日の夜にいったん休んで出かける初詣はなんとなく邪道のようで、正月が来た瞬間に神々に挨拶を済ませたいと、多くの日本人は思っていた。だから夜中に人々の大移動が行われた。

ボクは、子どもの頃は明治神宮、社会人(まともではなかったが)になってからは、あちこち出向いた。

神仏混交というか、本来なら神社に出向くのだが、そばが食いたくて深大寺などにも行った。調布の大國魂神社や、荻窪時代は家の傍の小さな田畑神社で済ませたこともあった。

何処へ行くにも、基本は電車で済んだ。

ボクが小学校に入るか入らないかの頃、どんな場合でもどんな時でも、移動の基本は電車(都電も含む)で、次がバス。他の交通手段はほとんど使わなかった。というよりなかった。

都内ではトロリーバスが走り、池袋、新宿、渋谷の移動はすこぶる便利だった。この間の移動だけはトロリーバスを使った。

そんな中、親戚の家での新年会やお盆の寄り合いなどで、少し時間が遅くなると、タクシーを利用した。

本当に1年に1度か2度程度しか利用しなかったが、なぜかよく覚えている。

街を流すタクシーの数は少なく、なぜか、ほぼすべてがフランスのルノーだった。もしかしたらすでに日野がライセンス生産していたかもしれない。料金はどこまでも80円だったような記憶がある(昭和30年前半頃の話だ)。そしてウインカーはいまのような点滅するライトではなく、オレンジ色の矢印形状の跳ね上げ式だった。そのウインカーを見るのが楽しかった。

<こんな感じのものだった↓>


ウインカーと言う言葉は、その頃はなかったのかもしれない。言った通りアナログも良いところで矢印様のモノが跳ね上がるだけで、ウインクはしなかったから。

タクシー以外では、ワーゲンも多かったが、アメ車の印象はあまりない。

戦後すぐのフランス製のルノーが、なぜ日本のタクシーに採用されていたのか、わからない。ただ、狭かったのは覚えている。一度、運転手が小さかったボクを膝の上に乗せて、走行中の町の景色を見せてくれたことがあった。その印象はいまでも思いだすほど強烈で、きっとボクは目を見開いて乗っていたのだろうと思う。

少し後に「神風タクシー」と言う言葉がはやった。客の意向とは無関係に交通法規を無視して飛ばす、阿漕なタクシーのことを言った。「雲助タクシー」と言う言葉もあった。これは飛ばすのではなく、ただただ法外な料金を吹っ掛ける輩を意味した。江戸の駕籠かきの名残りだ。



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東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その62>正月

2021-01-04 18:23:49 | 東京「昔むかしの」百物語
小・中学生の頃、毎年初詣は明治神宮に出かけた。

例年2百数10万人の参拝者が押しかける中、夜通し運行していた電車に乗っていくのが楽しみだった。中学の頃は友達と連れ立って行った。

今ではトンと観なくなった「紅白歌合戦」を眺め、「ゆく年くる年」で一休みし、多分元旦の2時か3時頃に放映された「キングコング」を観て、おもむろに明治神宮に向かう。

5~6年は毎年同じパターンだった。夜深しどころか、夜通し起きていられるのが、なにしろ楽しくて仕方なかった。

そして代々木、原宿と居を構えていた親戚の家に押しかけ、お年玉を受け取り帰るのだ。

2日には改めて家族と原宿の親戚宅へと出かけ、親戚何家族かが集まって正月を祝った。

中央線で荻窪から新宿に向かうのだが、東中野を過ぎ大久保に差し掛かるあたりは、線路が高架(と言っても土手の上だったような気がする)になり、街を見下ろすような景色だった。その風景が大好きだった。その目線から小型のトラックが「初荷」の幟を立てて道を走る様を見かけたのをよく覚えている。

同じ場所は、宴会を終え帰宅する夜になると、闇の中に仄かな明かりが点在し少し高い建物の陰が、なに魔物めいて胸が高鳴った。

昭和の正月はおせちも手作り、松飾も手作り(気の置けない職人が作ったもの)。

正月に許された遊び道具と言えば、トランプ、花札、凧揚げ、羽子板と相場は決まっていた。花札、トランプは本当に一年の正月、それも松の内だけに許された遊びだった。

家族4人で遊ぶことなど、正月だけだった。

みかんを食べながら、炬燵(初めの頃は、電気炬燵などというものはなく、「ねこ」と呼ばれる行火に炭や練炭、豆炭などを入れたものだった)に入り、ぬくぬくと遊ぶカードゲームは、何とも言えず楽しかった。みかんは炬燵の中で温めるとよりおいしさが増した。

そんな正月は、もうない。

ただ我が家は、代替わりした今でも、おせちだけは相変わらず手造りだ。




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