普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

80万アクセスです。もちろん10数年がかりです。

2023-05-25 16:20:56 | 普通な生活<的>な
ありがとうございます。長い間、投稿することもなく、ただただ放置していたのに、いつの間にか80万アクセスを記録していました。

本当にありがとうございます。まだまだ、続けます。間は空くかと思いますが、まだまだ続けます。

東京「昔むかしの」百物語<その74>渋谷

2023-05-25 15:31:39 | 東京「昔むかしの」百物語
渋谷は、おしゃれな街だった。昔からおしゃれ。

かの有名なスクランブル交差点は昭和48年頃にできたと思うのだが、その頃にはあちこちに同様の交差点があり、それほど話題にも上らなかった。

それより、渋谷にはかつて駅前にどぶ川が流れ、ロープウェイがあったということの方が驚きだ。

渋谷にはよく行った。国電はもちろん、都電でも荻窪から新宿、新宿から渋谷と乗り換え出かけた。トロリーバスでも行った。

昭和50年代になるとNHKには取材でよく出向いた。ジャンジャンというライブハウスが西部の裏手にあった。シャンソンや浅川マキをよく聴きに行った。

急な階段を昇るLIVE HOUSE屋根裏ではよく羽目を外した。頭脳警察の解散ライブも屋根裏だった。

東急ハンズができて、話のタネに見に行った。PARCOができてやはり話のタネに出掛けて行った。

今はなくなってしまったが東急本館も地の利は良くなさそうだったが、なにか孤立感が半端なく逆によく行った。

忘れられないのが、東急のプラネタリウム。よくできた天体観測施設だったよな。なんということもなく夜空を見に出かけた。

個々の飲み屋や飯屋には言及しないが、イタ飯屋から立ち食いソバ屋まで、雑多にあって飲み食いには不自由しなかった。

そうそう。京王井の頭線が良かったな。短い路線だけれど、なにか気分の良い路線だった。渋谷~吉祥寺という流れがボクにはマッチしていてよく乗った。

神泉にはうまいスパゲティー屋があった。

渋谷はこんな感じの箇条書きでしか表現できないかな。





東京「昔むかしの」百物語<その73>思い出横丁

2023-05-25 14:07:35 | 東京「昔むかしの」百物語
その昔、今インバウンドで海外の旅行客が溢れる新宿「思い出横丁」を、ボクらは様々な思いを込めて「小便横丁」と呼んでいた。

戦後すぐの頃は「軍隊キャバレー」なる風俗店があり、新宿から大久保方面の車窓から派手な看板が見えていて、昭和の中頃まで存続していて、客は女性従業員に敬礼しながら酒を飲んでいた。なんのこっちゃよく分からないが、太平洋戦争を良しとする多くの客でにぎわった。聞いた話では彼の地は安田組というやくざ組織が関与していた一帯だったという。

小便横丁という名の由来は、トイレなどない一帯(あるにはあったが行くのが面倒だった)で、線路沿いの壁に誰も彼もが立小便をしたことが由来と理解している。

ボクがこの辺りに出没していたのは10代の終わり頃から20代の前半だったが、今でもあると思うが「菊屋」や中通り沿いの2、3件ほどの一膳飯屋と飲み屋だった。「菊屋」は、当時飲みなれなかった焼酎を飲んで、のべつ飲みつぶれていた。

既に安田組などのやくざの影響力は薄れていたとは思うのだが、それでもボクの知る東京のダークゾーンの一つだった。他には歌舞伎町、センター街、ゴールデン街、池袋の西口裏や、渋谷のセンター街、東の線路沿いの一帯などなど。なにせ、ダークゾーンこそが最高におもしろかったから。

ボクの出没していた1970年前後には、まだヒロポン(今でいう覚醒剤だが、錠剤で売っていた時期があったそうだ)中毒の親父や、今でこそ普通に売られている戦後闇市のホッピーやカストリ焼酎、電気ブランなどという、言ってしまえば代用アルコールの類で酔っ払った親父たちがゲーゲーと吐き戻しながら飲んでいた。

あの頃は、「アウトローしか勝たん」と言うような時代だった。ボクもまたアウトローには憧れた。

こうした一帯は、戦後の闇市がベースになっていて、その闇市は前述したような安田組、和田組などの的屋が統括していた。やがて、その一帯に三国人(この言葉もいまでは差別用語なのだろうが、日本に居残った朝鮮人、中国人、台湾人をそう呼んだ)のアウトローが進出し、歌舞伎町などでも日本のやくざ、中国系のやくざ、そして韓国系、ベトナム系の闇組織と、統括勢力が変わっていったという。今はどうなのか知らない。聞くところによれば、歌舞伎町を追い出された組織は、立川、八王子へと都落ちしたとかしないとか。

思い出横丁を通るたびに、あの頃を思い出す。店の佇まいは変わらないのだが雰囲気はまるで別物で、危険な香りなど一つもない。聞こえてくる呼び込みの声もどこか中国なまりがある。そういう意味では別の危険な香りがするというのは、言いすぎかな。

何年振りかで、新宿歌舞伎町に行った

2023-05-04 23:51:42 | 普通な生活<的>な
5月3日。娘夫婦と出産準備で新宿に。出産と同時に新居に引っ越すということで、クーラーなどの家電を買いに出かけたのだ。それはそれとして。その脚で歌舞伎町に出向いた。
もう何年も歌舞伎町には足を踏み入れていなかった。行く用事もなかったのでおそらく20年はくだるまい。

ゴジラが顔をのぞかせるTOHO BILDINGと、KABUKICHO TOWERという高層階ビルが建っていた。ボクの知っている歌舞伎町とは、まるで別の世界がそこにあった。

昭和の時代。歌舞伎町はアウトローの生息するエリアだった。地回りのやくざが幅を利かせ、一般客はおそるおそる飲み屋の扉を叩いた。歌舞伎町を象徴したのはコマ劇場とミラノ座だった。そこは今も変わらないのか、コマ劇場跡がTOHO BILDINGに、ミラノ座跡がKABUKICHO TOWERになっていた。

昭和の時代。歌舞伎町は表向きは芝居と映画と音楽の街だった。ただ、夜の歌舞伎緒は昼間と一変、男と大人のための歓楽街に変貌した。

名物の一膳飯屋も、人気のスナックも、こじんまりとしたライブハウスも劇場も、それはそれは魅力的で、ボクは何度も小さな劇場で芝居をした。ボクらが芝居をしている小屋の上層階では、まだ売れる前の「レディ・ジェーン」のつのだ☆ひろが、ライブをやっていたりした。

ある時、いつものように気心の知れたカップルと、ボクと彼女の4人で酒を飲み夜中近くなった。その日はカップルの旦那のライブがあって、その打ち上げを4人でやったというわけだ。4人とも帰る方向は同じで、新宿通りに出てタクシーで帰るつもりだった。

歌舞伎町をふらふらと4人で歩いていると、地回りのチンピラ3人と絵に描いたように肩がぶつかり口論になった。酒を飲んでいるせいもあって強気のボクは、チンピラを怒らせるようなことを言ったのだろう、暴力沙汰になりそうな気配が漂った。女性2人を先にその場から遠ざけ、男2人でさも「やったろうかい」といったそぶりを見せて、次の瞬間、脱兎のごとくその場から逃げた。

酔っている割には、素早く逃げおおせた。おおよそ歌舞伎町を半周するほどは走ったろうか。タクシーをみつけ、飛び乗って帰った。他の3人もうまくその場を切り抜けたと後で知った。彼女にはしこたま怒られた。「私を放っておいて何をしているのだ、あなたは」というわけだ。

歌舞伎町の思い出は、この話以外にも腐るほどある。

5月3日に足を踏み入れた歌舞伎町は、おそらく走ることなどできないほどの人の波。まあ、走ることもないだろうが。

こんな昔話をしても、誰の耳にも届かない時代になったということだけは、はっきりしている。