普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

50000PV突破!

2011-10-30 13:12:04 | 普通な人々<的>な
 つい2日前に「訪問者数が25000人を越えました」と書かせてもらいましたが、今日は50000PVを越えていました! 本当に感謝です。
 これからも一層、書かなければならないことは書き、見なければならないことは見、聞くべきは聞くというスタンスで、ブログと向き合っていきたいと思います。

 よろしくお願いします。

25000人の方々、ありがとうございます!

2011-10-27 12:44:37 | 普通な人々<的>な
 気がついたら、またまた当ブログの訪問者数が、25000人越えとなっておりました。昨日までで25384人。一昨日には25000人を越えていたことになるのでしょうか?

 いつも同じ事を書きますが、それにしても凄い数字だと思います。数の概念で十羽一からげにするのもどうかと思いますが、やはりわかりやすい共通言語ではありますのでお許しを。
 そして本当にありがとうございます。

 訪問いただいたお一人お一人に、感謝のハイタッチ!!
 あ、芦田愛菜ちゃんじゃないから……誰も喜ばないか……。

 ということで、未来へと続く。

父母の夢

2011-10-26 19:02:11 | 普通な人々<的>な
 父も母も、90歳を過ぎての大往生となった。

 幸せだったのか、聞いてみたかったがどちらにも聞きそびれた。
 最後は聞いても応えられない状態だったし。

 「その通りだ」と言われるのを覚悟の上でも、ボクが親不孝だったかも聞いてみたかった。
 親孝行とは心配をかけないこと。親より早く死なないこと。
 後者に関しては親孝行できたかもしれないが、前者に関してはまったく心配をかけどおしだった。

 父と母の夢を見た。にこやかだった。

 合掌。

音楽の原稿

2011-10-25 20:46:27 | 音楽にまつわる話<的>な
 いま必死で音楽に関わる原稿を書いている。

 詳細は出版社のある種「マル秘事項」でもあり書くわけにはいかないのだが、できあがれば相当面白い、というかこれまでになかった類の出版物になりそうだ。

 その原稿を書くので、昔のことを思い出し思い出ししている。

 考えてみれば、昔どこの町にもクラシック喫茶だとかジャズ喫茶だとか、ロック喫茶も、遡れば歌声喫茶などというものもあった。そのすべてに行っているわけだが、歌声喫茶以外は、なにかそれぞれの音楽ジャンルに相応しい客層というものがあった。
 
 ロック喫茶は、もう絵に描いたようなヒッピーだったし、ジャズ喫茶は前髪をたらして目が悪くなりそうなシニカルな印象を与える連中が多かった。クラシック喫茶は、基本は良いところの坊ちゃん嬢ちゃんで、たまに何かを思いつめたような奴がいた。

 なぜそんな喫茶店が流行ったのかといえば、皆金がなかった。だからレコードを聴くためのオーディオなぞ買えるはずもなかった。初任給2~3万円の時代に良いオーディオは20万円ほどもした。それにLP(音盤)1枚が3000円位はしたと思う。それこそ家で自分ひとりで音楽を楽しむなんて無理な相談だった。だから喫茶店の店主は、客を呼ぶために先行投資で良い機材を入れLPを仕入れた。ただ、LPを買うにしても結局のところ自分の好きな音楽の傾向性に引きずられるのはあたりまえで、店の店主は店で流す音楽のことは、誰よりも詳しくなければならなかった。
 だからあちこちに名物店主がいた。

 1960年代~70年代初頭までの話だ。

 歌声喫茶は、それより少し遡り、ちょうど共産党の民主青年同盟(ボクも当時は民コロさ!中学生だったが)が元気だった時代で、もうそんなタイプの連中が店で元気に歌を歌っていた。コーラスの練習場のようなものだった。しかもかの共産中国で毛沢東がカリスマに祭り上げられていた文革前夜。さらにソ連ではスターリンが死に、集団指導体制の中で巨大な「北方の白熊」として、社会主義的一つの到達点にたどり着いた時でもあった。
 歌声喫茶は雨後の筍のようにあちこちにできた。新宿にも何軒かあった記憶がある。
 そこではお決まりのようにロシア民謡が歌われていた。あの総じて暗いロシア民謡は、共産主義的なるものの一つの表象だったのかもしれない。
 
 文化は時代時代で異なる様相を見せるのだが、それはあくまでも枝葉であり、太い幹の部分は形を変えずにあり続けているようにも思う。
 それは、なにかといえば、哲学であり宗教かな。一時は政治思想だというような時代もあったが…。
 哲学にしても流行りはあるが、真理にアプローチしようとするという営為そのものが哲学であり、宗教という気がする。その部分が形を変えずに幹として残っているように思う。

リビア カダフィ リンチ OK?

2011-10-22 14:39:03 | 普通な人々<的>な
 フセインの時もそうだった、そして今回のカダフィも。
 傾向性は異なるがビンラディンもそうだった。

 共通項は、負の要素を持った指導者(テロ指導者、独裁者。本人達、あるいはその取り巻き連中は、そうは自覚していなかったに違いないが)が殺されたということ。
 誰にどうしてという、理由や意味は別にして、殺されたと言う事実があり、そしてその殺される現場を、世界中が見た、見せられた。

 だがこれは、よく考えればあってはならないことなのではないのか?

 自由主義の代弁者のようなスタンスでアメリカが関与する。そして、公然と人を殺す。あるいは人を殺すことを「是」とする。認める。世界にその事実を当たり前のことのように伝える。
 そして世界中のメディアは、それがあたかも当然のことのように伝える。
 なんだか怖くないか?
 人を殺すということが、まるで正義のように伝えられる。

 目には目を、歯に歯を。ってか?

 だが、一方的とも思える価値観を根拠に、「殺す」と言う方法論で他方を断罪するなどと言うことが、本当の意味での自由主義世界で許されることなのだろうか? よしんばそうするにしても、裁判、法廷という、弁明の場や主張の場を、断罪される側にも与えてきたのが自由主義社会ではなかったか?

 論理的正当性も理由もなく一切の弁明すら与えずにユダヤ人を殺戮したかのナチズムに対してさえ、ニュールンベルグ裁判と言う、是非はともかくも裁判が行われたことは、人類の誇るべき歴史なのではないか?

 いまやそうした手続は面倒とばかりに「世論操作された世論」をバックに、国家が直接手を下し、人殺しをするまでになった。そしてその現場を世界に発信し、そのことで世界を共犯者に仕立て上げている。ビンラディンのことなどは、世界中の人々が完全にアメリカの一人芝居の観客にさせられた。
 そしてそのことにあまり疑問も感じない。
 人類の動物種としての蛮性が甦っている。

 はっきり言って今回のカダフィの死は、見せしめのリンチにしか見えなかった。
 ウェスタン映画でロープを木に掛け、自分の敵と思しき相手を縛り首にするのと同じ手法。正義もクソもなく、首のロープが緩むか絞まるかの分水嶺は、敵か味方か。
 もとより国家を壟断したと思しき人物を裁くという、当事者として当然の冷静さに欠けていた。
 むしろ、国家あるいはその萌芽を握り締めている後に続くものたちが、国民の勝手にやったことという粉飾を施しているようにさえ見える。

 フセインの時も、今回のカダフィも、煽るだけ煽り民衆のなすがままするがままにして殺させている。そこには政治的、軍事的統制などまったくない。それでありながら、次の瞬間に臨時政府がコメントを発表したりする。

 馬鹿げて恐ろしいことだと思わないか?

 「おまえたち一体どうしたんだ?」
 「私がお前達になにをしたというのだ?」

 カダフィの最後の苦痛の叫びだ。
 自分のしてきたことを、この程度にしか考えられない指導者だったというだけのことではあるのだが、カダフィが本気で国民が自分を慕っていると、つい一瞬前まで信じていたことの証明にもなる言葉だろう。そういう男ではあるが、弁明の場も与えず、しかも国民に殺させる……。

 人が死ぬことを、これほど無神経、無感動に見ることができるようになっている自分も、恐ろしい気がする。少なくとも、どんな人の死も尊厳が備わっているはずなのだ。その尊厳を剥奪した姿を見せしめとして世界に見せるなどということは、やはりあってはならないことのような気がする。

 この星の人々は、一体どこへ行くのだろう?

アカシアオルケスタ!

2011-10-20 23:18:39 | 音楽にまつわる話<的>な
 今日は久しぶりに音楽の話。

 昨年末にメジャーデビューしたアカシアオルケスタ。
 いろいろ評価のあるところだろうが、ボクの評価は「ただひたすらカッコエエ!」というところ。

 今日はアカシアのメッセンジャーでもある、ヴォーカル・岬嬢(こういう書かれ方は厭かもしれないが)のインタビューだった。
 18日にカンパケした2ndアルバム『メカシドキ』(2011年11月30日発売)を聴かせて貰ったうえでのインタビューだったのだが、これがまた1stアルバム『タイクツシノギ』をはるかに上回るポテンシャルを持ったアルバムで、カッコイイどころの騒ぎではなく、「カッコエエねん!!」
 
 インタビューの模様は、またJ-CASTなどで掲載してもらえるようお願いすることになるわけだが、時期がきたらこのブログでも紹介しようと思う。

 そうそう、このブログといえば、ビックリたまげたことに昨日突然順位がついていた。
 一年間続けてきて始めてのこと。
 「へぇ~、順位が付くんだ?」と思ったのだが、考えてみれば凄いことじゃないか?

「ランキング 7371 位/1645151ブログ 」

 だそうです。
 チョッとクリビツでした。それもこれも皆さんのおかげです。
 
 ありがとうござ候。

仏教の世界観

2011-10-18 20:09:01 | ちょっと宗教<的>な
昨日、旧約聖書について書いたが、仏教について書いてみようと思う。

そもそもキリスト教などの死生観には、仏教の説くところの生命の永遠性が語られていない。

実はただこの一点に仏教が他の宗教と、異なる点が集約されるのではないかと思う。

そもそも生きることにどれほどの価値を感ずるかは、様々に異なる。

人によってそれぞれ違うと考える人もいるだろうし、そうではなく万人に等しい価値があると考える人もいるだろう。

ある意味、仏教以外の宗教は刹那的だ。今世の只今にこそ価値があると考える。

それは生命には限りがあり、限りあるものであるなら今を大事に生きることこそ、理にかなっていると誰でも思う。それは決して間違いではない。

一方仏教では生命は永遠であると説く。永遠であるが故に、今を大事に生きろと説く。因果であるとか、因縁であるとか、輪廻であるとかいう考え方は、そこに因する。

生命は永遠であるがゆえに、正しく大事に使わなければならない。それは言い表せないほどの価値と輝きを放つ宝のようなものだと、仏教では言う。

だから生命こそを至極のものとして、すべての価値基準をそこにおいて、物事を見、聞き、考え、語り、行動する。

同じように今を大事に生きると言っているのだが、その根本の部分が違うのだ。
どちらが良いかなどという議論をするためにこの文を書いているのではない。

アジアで生まれアジアで育った仏教の、底知れぬ哲学の一端を垣間見ただけ。

刹那的とも言えるキリスト教的世界観は、それほど遠くない将来に、駆逐されるのではないか、とちょっと思ったりしたわけです。

ユダヤ教 旧約聖書

2011-10-17 13:12:37 | ちょっと宗教<的>な
旧約聖書を読む機会があった。
もちろんあのインディアンペーパーみたいな紙に、ビッシリと印刷されたものではなくて、言ってみれば解説書の類。
それでも読み応えはあったが、読めば読むほど、これは宗教書だろうか? と思えて仕方なくなった。
創世記はまだよいのだが、徐々に民族の自慢話というか、非常に狭いエリアの出来事を記述し続けるだけで、なんの宗教的カタルシスもない。記述された内容から生活の規範を学ぶことはできるが、荒れ地の民のものであって、農耕民族には馴染まない。
神はわがまま一杯で、ちょっとイラついたし…。
それでもこれが、世界中の人々の半数近くが信仰の基礎に据えているのだと思うと、なにか有り難いもののような気がしてくるから不思議だな。
こんなことを書くと、信ずる人々には批判されるかもしれないが、くさしたりバカにしたりするつもりはない。
ただ読み物としては、記紀などよりはるかに面白いものなのだろうとは、思う。一度はあの一冊を読み通してみたいと思ってもいる。

加藤千代三のこと

2011-10-16 15:29:09 | 父・加藤千代三の短歌
 島根の中尾さんへ送らせていただこうと、父・加藤千代三の残したものを整理しているのだが、遅々として進まない。

 中尾さんには申し訳ないばかりだ。今にも崩れそうな単行本もあれば、変色した中性紙で組まれた本、中性紙の原稿用紙かと思われるほどに変色した原稿などなど。

 このまま送って良いものかと思えるものがほとんどだ。

 時間切れになりそうで、申し訳なさで一杯だ。

今日は息子と

2011-10-15 17:32:17 | 普通な人々<的>な
 なぜか息子が連絡をしてきて、晩御飯を一緒に食べようということになったらしい。
 
 原稿を書く仕事の締め切りを抱えているのだが、今日のところは出かけよう。

 息子に会いたいしね。
 
 どうやら奥さんの家族が、孫と一緒に出かけているらしい。したがって仕事のある息子は一人で留守番的なことなのかな?

 マスオサンのようですね。良いことです。

 なにを食べようかなと考えながら、いまから駅に出ます。

あれはやっぱりUFO?

2011-10-13 20:40:59 | 超常現象<的>な
 ずっと気になっていることがある。

 9月の半ば頃、仕事の打合せで九段下へ出向いた。
 午後1時から一時間半ほどの打合せを終えて、靖国通りから一本共立寄りに入った裏通りを歩きながら、何気なくビルとビルとの間から覗ける空を見上げた。

 まだ暑さの残る午後で、ボクはうっすらとかいた汗をハンカチで拭っていたのだが、その手をハタと止め、歩みも止めてしまった。
 ボクが見上げたわずかなスペースの空を、銀色の茶筒、シリンダーのようなものが過ぎったのだ。
 翼、プロペラといった装飾などなにもなかった。
 風船のように、当て所ない飛行ではなく、ハッキリとした飛行速度と方向性を持ったもののようだった。

 慌てて、靖国通りに走り出たのだが、向かいのビルに遮られて、その姿形をそれ以上追うことはできなかった。

 ハッキリ言えることは、飛べるはずのない形状のものが、確かに飛んでいたこと。
 こう言うしかないのだが、あれはなんだったのだろう?

 去年の今頃も、UFOを見た。写真にも撮ってブログにも載せた。

 この感じでいくと、来年の夏頃にまた見ることになりそうな気配だ。

物の整理とは、自分の人生の整理と同じ。

2011-10-13 00:28:49 | 普通な人々<的>な
 若い勢いのある頃は、部屋の模様替え一つでも楽しかった。なんだか自分の人生をその瞬間だけでも、大きく変化させられる感じがしたから。

 この歳になって、自分の周囲に集積した「資料」と称するゴミの山を整理し始めると、まるで自分の人生を丸ごと整理、つまるところ死を迎えるための身辺整理のような気がしてくるから不思議だ。

 やっていることには若い頃と今とにそれほどの差があるわけでもない。だが、確実に意味が異なる。

 そして思うのだ。今の自分にとっては、自分の書いてきた原稿も含めすべての物の整理とは、自分の生きてきた人生そのものの整理と同じことなのだと。そうなると先に進むのも怖くなる。

 要は、整理し始めて、昔のものが出てくると手が止まって先に進まなくなることがある。判りやすく言えばアルバムだ。見始めたら止まらない。ある意味楽しい事どもではあるはずなのだが……。

 実は、それが人生の整理なのだと気付く。
 正直、自分の中で何とか整合性を保ちながら、自分自身に納得し、明日を迎えようとする。だが歳を取ると、いつまでも納得がゆかない。いつまでも眺めている。そしていつまでも整理がつかない。歳を取れば取るほど、整理整頓は下手になる。

 だからある日、整理整頓がさくさくと進むようなことがあれば、それは死期が間近だと言うことだろうと思っている。

 正直、まだ下手だ。

30年目の結婚記念日!

2011-10-11 23:08:48 | 普通な人々<的>な
 今年の10月12日で結婚30年目!
 ビックリだね。ボクが傍から見れば遊び人のようだった所為もあって、ボクらの結婚を祝福してくれた人でさえ、「もって3年」といっていた。

 今でも毎日のようにケンカしていて、当のボクでさえ、30年という時間は想像すらしていなかった。ひとえに奥さんが耐え、忍んでくれたお蔭だと思っている。

 披露宴は六本木のディスコでやった。2~300人ほどの人が祝福してくれたが、結婚式は挙げていない。カメラマンに写真を撮ってもらっただけ。新婚旅行にも行ってない。
 仮初の仲人は、後のアミューズ社長・山本久氏だった。奥さんの直属の上司だった。
 そういう人々が、こぞって「もって3年」といっていた。ボクは一体どんな人間だったのだろうと、改めて考えさせられる。

 当時付き合っていた人でいまもまだ付き合っている人は、カメラマンの生井氏を筆頭に、わずか数人だ。それはそれでいいような気がする。
 ただ、これから先も付き合っていける人が自分の周囲に何人いるかというのは、とても大事なことだ。あまり多くはないだろうが、かといってただの一人もいないというのは寂しい。

 30年連れ添った奥さんに、なにひとつ幸せを感じさせていないのではないかと、ずっと思い続けている。そんなことを本人に聞くわけにもいかないし、いつか捨てられるのではないかと、ずっと不安でしょうがない。

 まだボクの時間はありそうだ。だが、奥さんの時間があるとは限らない。早くなんとかしないとと焦りばかりがつのる、今日この頃。

45000PV突破!

2011-10-09 10:34:21 | 普通な人々<的>な
ブログ開設が昨年の10月10日。
ちょうど1年で45000PVという事になりました。
本当にありがとうございます。

引き続き、おじさんの独り言をお楽しみいただければ嬉しく思います。
 
なんだか、やる気が出てきましたね! これも皆さんのおかげです!!

時のオカリナ

2011-10-08 23:06:19 | 普通な人々<的>な
 まさに時のオカリナ。

 いま娘が、まさに「ゼルダ 時のオカリナ」のゲーム真っ最中。
 傍から見ているだけだが、このゲームは、名作の名に恥じない。かつてはボクもこのゲームに興じた一人だったが、とにかく良く出来ていて、音楽も、効果音やらのサウンドも、非常にクオリティの高いものだった。

 ボクや奥さんが、さんざん苦労して見つけ出した謎解きを、娘はいとも簡単に解き明かし、次々とダンジョンを攻略中。

 いまや「ゾーラの里」に着いて、どうもこうもない。着々と攻略しつつある。
 ひょっとして以前やった記憶があるのかもしれないが(記憶があってもせいぜい1、2歳のものだろうが…)、それにしてもすごい分析と展開脳力。

 家族がそろってテレビ画面に釘付けになりながら興じたテレビゲームが懐かしい。
 いまや一人が一台のゲーム端末をもち、ネットの通信回線を通じて赤の他人でも一緒にゲームに参加できる。
 どちらがいいかと言えば、昔のテレビゲームが圧倒的に良いと言いたい。

 娘はかつての「ゼルダ」を楽しめなかったろう。兄貴や、何しろ親が夢中だったから。だからいまここぞとばかりにやっている。

 それにしても。一人でしか楽しめないいまのゲームとは根本的に違うということは、肝心要ということで…。