普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

病んでいる、などというレベルではない。

2014-07-29 23:45:57 | まあまあ社会<的>な
49歳のおっさん、自称イラストレーターが、小学校5年生の少女を「かどわかし」、自宅を改造して造った監禁部屋で監禁していた、という事件。

「人を殺してみたい」と思い、同級生の少女を自宅に呼び込み頭を鈍器で殴り、首を絞め殺し、その死体の解体を試みたという、同級生少女が引き起こした、事件。

なにか、根っこがつながっている。

20年ほど前の、宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件と、酒鬼薔薇聖斗の神戸連続児童殺傷事件を思い出してしまった。

なにも得るものなどない記憶の果てに、まったく忘れることのできない残滓として残る二つの事件。

それと、ほとんど似たような事件が、あれほどのインパクトもなく受け止められているように感じてしまう今の世の中。

慣れなどというレベルの問題ではなく、病んでいるというレベルの問題でもなく、ただどうということもなく受け止めてしまう人々のいる恐怖。

日本という国は、どこか衰微している気がする。

物事にまともな反応もできなくなっているのでは? などと思ってしまう。

なんだか、ボクも「人並み」におかしくなりそうだ。


小保方さん VS NHK

2014-07-26 23:20:42 | まあまあ社会<的>な
まったくろくでもない人々。
誰かって?
NHKの記者。

小保方さんへの突撃取材のようなことを敢行して、小保方さんにケガをさせたという。

ケガの程度はどうやら軽かったようで、このさい問題視しないでおくとしても、それより問題なのは、どんな取材の仕方をしても良い、とりあえず悪いことをした人間らしいから、どんなやり方でも許されると思い込んでいる、NHKのバカ記者だ。

そのバカ記者が許されないのは、自分は許されると思い込んでいること。だって、天下のNHKの人だもの、てな感じの思い込み。

こういう輩は、まだ犯人かどうかはっきりと司法の結論が出ていないのに、犯人だと思い込む。そして、そういう取材の方向性、方法論しか思いつかない。

その取材を敢行した番組の番宣で「史上空前と言われる論文の捏造」とか「論文の不正の実態に迫る」などといった文言をちりばめているそうな。

下品な連中だ。

不本意ではあるだろうが、いま小保方さんは、しないでもいいSTAP細胞の検証実験の最中。まだなんの結論も出ていない。前にも書いたが、それこそ虚しい実験の真っ最中。それでも真摯に取り組んでいる。

それを! 論文の捏造と言い切る根拠を持っていたとしても、いまは静かに見守るのが、言論人のスタンスだろう。

それを抜け駆けするのが、スクープとでも勘違いしているのか、本当に! もう一度言うが下品な連中。

これが視聴者から強制的に受信料を取り立てる、親方日の丸半国営企業の実相なのだ。

腹が立つ。




夜の小学校 校庭

2014-07-24 22:59:01 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和35年頃まで、娯楽の王様は映画だった。

他の所でも書いたが、時代劇の東映、文芸路線の松竹、エンタメの東宝と大映、活劇の日活、そしてちょっとエッチな新東宝という布陣で、日本映画は破竹の進撃を続けていた。

そうした商業映画とは違ったチャンネルの映画も存在した。多くは教育というカテゴリーに収められた映画。その中で、忘れられない映画がある。

昭和30年代の前半、まだTVが一般家庭に普及していない時代、小学校巡回映画会というものがあった。

おそらく年に2~3本だろう、夜の校庭に巨大なシーツを縫い合わせたような白い幕を張ってスクリーン代わりにし、映写会が行われたのだ。夏休みのことだったような気もするし、秋口だったような気もするが、記憶は定かでない。

風の強い日の映写会は、映画を見る楽しさはあるのだが、また別のスリルと興奮と楽しみを与えてくれた。もちろん必要以上の強風下では映写会も中止になったと思うが、開催時の風に煽られバタバタと音を立てて翻るスクリーンに映し出される映画の歪みも、映画の内容以上にわくわくドキドキの大きなファクターだった。

おそらく何本もの映画を見ているはずなのだが、覚えているのは1本だけ。

なぜか「風の又三郎」。宮沢賢治の童話の映画化版だ。

確か、一般の映画館でも見た記憶があるのだが、微妙に違う映画だったような気もする。

どうやらそれもそのはずで、別作品がいくつかあった。昭和15年に日活が制作した『風の又三郎』(監督:島耕二)をボクは何かの折に映画館で見た(きっと島根で見たに違いない)が、見たという記憶だけが残っているに過ぎない。ところが巡回映画で見たのは、おそらく昭和32年に東映教育映画部(村山新治監督)が制作した作品ということのようだ。この映像を鮮明に覚えている。

そして前にも書いたが、元旦の初詣以外に明治神宮が唯一賑わいを見せた11月3日「文化の日」(表参道はたくさんの屋台が出て大賑わいだったさ!)の前夜祭のような11月2日の夜(この記憶も間違っていないとは思うが……)に、代々木側、北参道口の入り口近く、たくさんの見世物小屋の並ぶ一角で、この映画「風の又三郎」を観た、と思う。

夜の校庭で観たのと同じように、シーツを何枚か縫い合わせたような白いスクリーンだった。

こんな記憶も、すでにボクの記憶の中にしか存在せず、ほんのわずかな人としか共通の話題にもなり得なくなっている。

つらつら考えてみるに、これはいかにも悲しく、恐ろしいことではないか!? と思って、書きとめておく。

蚊帳

2014-07-23 23:10:08 | 東京「昔むかしの」百物語
夏。

クーラーなんぞは、使わなかった。というより、そいつはぜいたく品で、金持ちしか家に設置できなかっただけの話。

使わないというのは負け惜しみみたいなもんで、使えなかっただけ。

だから朝は、汗だくで目覚めるわけだ。扇風機はどこの家にも一台はあったが、扇風機をつけっぱなしにして風にあたりながら寝ると、心臓麻痺で死ぬと恐れられていたから、扇風機すらつけて寝なかった

扇風機のない昭和30年代までは、本当に蚊帳を吊って寝ていた。

まあ、見様によっちゃ、お姫様のベッドに掛かる天蓋みたいなものだ。

なぜか緑色で、部屋の四隅に打ち込んだフックに蚊帳の四隅の輪っかをひっかけてセッティング。蚊の侵入を防いだ。ほとんどの場合、セッティングしている間に蚊の野郎は蚊帳の内側に侵入していたけどね。

この蚊帳という奴、蚊取り線香(概ね豚の形をしていた)と大体セットだった。

この蚊取り線香、蚊帳の外にセッティングするのか、内側にセッティングするのか? 悩ましいところではあった。

子供のいる家庭では、寝苦しい夜にはおふくろさんが団扇で子供たちに風を送り、ほんの少しだけ風の恩恵に浴して子供たちは寝ることができた。

蚊帳というのは網状の天蓋なわけで、外気の移動、つまり風を感じる状態でないと、機能としてうまく使っているとはいえない。おふくろさんの団扇もありだけれど、本当のところ自然の風を感じる方が良いわけだ。

それが、何を意味するかと言えば、縁側の障子やガラス戸なんぞは閉めない、そういう環境で使うモノだということ。要はそれくらい不用心でも特段になにごとかがおこるような社会環境ではなかったということになるな。

横道にそれた。

朝、蚊取り線香はとうの昔に灰になっていて、うまくすれば渦巻の灰が出来上がっていた。

そして、男の子はランニングシャツ、女の子はシュミーズで、井戸端に出向く。固形の石鹸で顔を洗い、歯磨き粉(粉状なのだよ)で歯を磨く。そして、おふくさんの作る味噌汁と、ご飯(文化釜で炊くのだよ!)、贅沢な場合には焼き魚(目刺程度だけどね)、漬物、焼き海苔なんぞで朝ごはん。

飯を食った後は、夏休み中であれば、ラジオ体操をしに最寄りの小学校に出かけたもの。

………なんだか、涙が出てきたな。まだいくらでも書ける。続きは明日。

<続く>


信仰の根幹④

2014-07-21 20:43:53 | ちょっと宗教<的>な
世界三大宗教と呼ばれる、イスラム教、キリスト教、仏教にも、「呪縛」は存在する。

それも強力な「戒律=呪縛」、と同時に「脅迫」である。

一番わかりやすいのは、キリスト教の戒律「十戒」、「原罪」、そして「神」に対する「悪魔」の存在であり「二律背反」という教義、そして「地獄」という世界観。宗教なんだからあって当然と思われることなのだが、おかしな要素だ。

本当であれば、この「呪縛」、「脅迫」こそ、真実の現代宗教にはあり得ようもない要素だと、ボクは考えている。

なぜなら、宗教の現代的意味は「人々をいかに幸せに導くか」という一点にある。そういう意味では人々が幸せに暮らせる社会システム=「物」の整備と言った役割を担う政治的な要素と、目的は一応同じであると考える。

宗教の役割は当然、一方の「心」を担う。

だからこそ、「呪縛」や「脅迫」などのネガティブな要素は、入り込む余地もないのだ。

ただ、連綿と継承されてきた宗教の役割は、時代相と共に変化してきてはいるが、実のところ支配のための道具であったと言っても過言ではない。政治と不可分のモノとなったり、時として政治を遙に凌駕する支配機構として働いた時さえあった。

だから、巧妙に「呪縛」も「脅迫」も、すぐに其れとは分からぬよう教義としてカモフラージュされていた。

仏教にだって「五戒」があり「地獄」もあるが、キリスト教のようなあからさまな要素はない。

だが、程度の差こそあれ人々は宗教の「呪縛」と「脅迫」によって、支配され続けてきたのだ。

恐ろしい人間の歴史である。

いまでさえ、人々はこの「呪縛」と「脅迫」に服従するように、異なる宗教を奉じながら殺しあう。

殺しあわないまでも、罵り合うことくらいはする。

「~しなければいけない」という言葉のもつ負のファクターの面目躍如だ。

いい加減に、今どきの「マインドコントロール」という言葉と「呪縛」が同じ意味で、新興宗教も世界三大宗教も、身ぐるみはがせば同じだと気付いていいのではないか?

「呪縛」と「脅迫」を根幹に据える宗教は、世界三大宗教といえども、今では似非なのである。

断っておくが、ボクは無信論者ではない。仏教徒だ。だからこそ余計に、「呪縛」、「脅迫」への嫌悪が強い。それだけのことだ。

<完(一応)>

IP100000を超えました!!

2014-07-18 14:33:08 | 普通な生活<的>な
数日前にPVが200000を超えましたが、今日IPが100000を超えていました。

再びの感謝。

なんだか一度訪ねてくれた人が、二つくらいの記事を読んで退出していくという計算になるのでしょうか?

何はともあれ、また力をもらって、前に進める!!

それにしても……100000、200000という数は、すごいなぁ~。

感慨深いものがあります。

信仰の根幹③

2014-07-17 23:57:41 | ちょっと宗教<的>な
「~しなければならない」という言葉は、無条件の服従に繋がる。

無条件の服従とは、信ずることの強要を許すこと。信ずることを強要されることなど、誰も望まないし自分はそんな強要は跳ね返せると、ほとんどの人が思っている。

だが、たった一つ。自分が人生の勝者になるためには、そのことだけは「しなければいけない」と言われると、人はそうしてみようと思う。

そして一つ「しなければならない」ことをすれば、二つも三つも同じことになっていく。

例えば占いにしても、方位が、日時が、名前がと、様々な制約を受けるようになる。この制約を受け入れるのも「~しなければならない」ことをしているのと同じ。

そしてもう一つ。「~しなければいけない」ことをやって失敗したとしても、それは自分の努力が足りなかったからだと、ついでに思わされる。

なぜとなれば、そうすることでうまくいった人々がたくさんいるから、いやたくさんいるとということになっているから。次はもっと頑張ろう、と思わされる。

「~しなければならない」ことに端を発するスパイラルの完成、それも多くの場合は抜け出すことの困難な、負のスパイラルの完成だ。

これが似非宗教の「呪縛」だ。

そして似非とは言わないが、世界宗教にも同じように「呪縛」が存在する。

(続く)

信仰の根幹②

2014-07-17 00:08:40 | ちょっと宗教<的>な
一時、マインドコントロールという言葉を、宗教批判の鋭利な刃としてマスコミが多用していた。今でもそうかもしれない。

だが、マインドコントロールなしには、宗教どころか、政治も、経済だって本当は動かない。例えば「アベノミクス」だ。この言葉がなかったら、民主党政権から自民党主導の政治状況になって以降の経済のありようは、まったく別物になっていたろう。

どういうことかと言えば、善し悪しは別にするとして、「アベノミクス」という言葉のもつ、ぼんやりとしてはいるけれどある種の求心力に、国民は無批判にコントロールを委ねたところがある。なんとかなるんじゃないか? という思いを抱かされた。これはまさしくマインドコントロールだ。少し遡れば田中角栄の「日本列島改造論」も同じような力をもった言葉だった。

なぜ、言葉に「マインドコントロール」の力が備わるのか? 種々の意見はあろうが、ボクはその理由が「恐怖」にあるように思う。

このままいくと「ヤバい」んじゃないかという、潜在的な恐怖から逃れる方法論として、その言葉に付き従う。

「マインドコントロール」するための最高のモチーフは、「恐怖」なのだと思う。

恐怖から逃れる道筋、恐怖に立ち向かう勇気、恐怖をあるがままに受け入れる平常心……恐怖をどうとらえるかは、個人個人の資質によるところが大きいだろうが、恐怖をコントロールできれば、人々の生活の大半は結構楽しいものになるだろう。

だから、その恐怖心を克己、コントロールするための方法論として、「マインドコントロール」は機能する。

多くのシチュエーションで「マインドコントロール」的手法は多用されるが、それを最も効果的に使うのは、多くの似非宗教家だ。信者のコントロールのために使う。曰く「○○しないと悪いことが起こる」「毎日○○しなければならない」「○○への執着を捨てなければいけない」云々……悪しきマインドコントロールだ。

その最も効果的かつ強力な武器になる言葉が「~しなければならない」。まるで義務のように、人の生活の根幹からコントロールできる言葉。

(続く)

信仰の根幹①

2014-07-15 08:36:18 | ちょっと宗教<的>な
信ずることは、偉大なことである。

信ずることで生まれてくる、信じられないような力もある。

それを奇跡と呼んだりもする。

信ずることの可能性を、人は信仰というある意味「共同の幻想」として収斂してきた。

そして、幾多の宗教は生まれてきた。

宗教は幻想の産物である、と誰かが言ったと言う話は聞かないが、まさしく幻想の産物だ。

だが、幻想である限り、人々の信仰心は続かない。

人々に信仰心を継続的に持たせる、維持させるために必要なことはなにか?

仏教説話の中に「化城宝処」という物語がある。

簡単に言えば「辛い旅の行程の途中で、旅に付き従った大勢の人々が倦み疲れた時に、蜃気楼のような幻の城の姿を見せ、『あそこまで行けば休めるから』と、有体に言えば『嘘』で人々の意志と力を湧き立たせ、辛い旅を続けさせる」というようなこと。

本当は、ニュアンスとしてもっとポジティブなのだが、ボクにはポジティブな物語には感じられない。

むしろ信仰の、ある種マイナスの側面を端的に言い表しているような気さえする物語。

ではあるが、人々の信仰心を継続させる一つの方法論が、明確に提示されている。

だが、これなどまだ良い方法論だ。

(続く)




気付けばPV200000超え!!

2014-07-13 15:18:45 | 普通な生活<的>な
どうやら、昨日の段階でPV200000を超えていました。

本当に! 信じられない数字ですね。物事が長続きしない人間と思っていた自分の成し遂げた、ある意味、金字塔でしょうか。

みなさんから見れば「そんな大仰な」と言うことかもしれませんが、本人にとっては、まさに金字塔です。

これからも精進します。

なお一層よろしくお願いします。




多生の縁

2014-07-13 00:35:42 | 普通な生活<的>な
正直いま、ろくでもない原稿を書こうとしていた。

消去した。

事象への批判はあってしかるべきだが、人の心証への批判は慎むべき、と思った。

特に、知り合いに対しては。

意見のやり取りができる相手と言うのは、親しいのだろうか? それとも距離があるのだろうか?

遠慮することは、距離があることなのだろうか、近しいからこそなのだろうか?

よ~く考えてみたのだが、結論は出ない。

ただ、一つだけ。

親しき仲にも礼儀あり。

袖振り合うも多生の縁。

結局、こういうこと。

65回目の誕生日

2014-07-12 23:25:48 | 普通な生活<的>な
今日は、ボクの65回目の誕生日でした。

たくさんの方から、SNSなど通じて祝賀のメッセージをいただきました。

この場を借りて、御礼申し上げます。

ありがとうございました。

ますます頑張んべェー、と思いました。

今日は嬉しいことに、息子クンとお孫クンが夕べから来てくれていて、一緒にプレゼントを買いに行きました。

あッ、ボクのじゃありませんよ、お孫クンのですよ!

ボクは、晩御飯を作って、皆に振る舞いました。

少し前に洗い物が終わって、今です。

まったく、良い誕生日でした!!

チェロ発表会

2014-07-06 22:18:28 | 普通な人々<的>な
今日は、息子クンの伴侶の、チェロの発表会。

息子クンは奥さんのチェロ演奏にピアノ伴奏をつけた。演奏曲目は椎名林檎の「カーネーション」。

東京駅にほど近い、地下のこじんまりとした良いホール。

たくさんの、音楽教室の生徒さんたちが出演したが、なんとなく皆遠慮がちと言うか気後れしながら演奏しているような印象が残る。

結構たくさんの発表会の類は見聞きしてきているが、多くの場合、この気後れ気味の感じが多い。

教えておられる先生の、生徒との向き合い方や、一曲を仕上げるプロセスの捉え方などで様々に変わるもの。

ボクの奥さんもピアノの教室を続けているが、彼女の主催する発表会は非常に質が高いと、まるで贔屓の引き倒し、手前味噌的にそう思っていたが、今日の発表会での息子クンのピアノ伴奏を聞いて、明らかに質が高いと再認識した。

息子クンは、10年ほど前まで母親の主催するピアノ教室の生徒だった。その中で特段に秀でた生徒でもなかった。それ以降は、自分の好きな曲を家に帰ってきては時々弾くくらいだったのだが、今日の彼の伴奏を聞いて、こんなに違うものかと驚いた。

曲目は問題ではない。まず鍵盤のタッチが違う。ピアノを弾くという基礎的な素養がはっきりと外に向かって顕れている。曲の理解度、そして何のために自分がピアノを弾いているのかという点への思いもひっくるめて、ひとり抜きんでていた。

それがどうしたというところだが、別段どうもしない。

ただ、うちの奥さんはレベルの高いところで子供たちにピアノを教えているのだなと思っただけ。なにか、凄いなと再認識。

脳裏を掠めたこと

2014-07-03 19:55:10 | まあまあ社会<的>な
仕事をしながら、脳裏を掠めたことがある。

人が人をコントロールできるのかということ。

おそらくできるのではないかと、多くの人が思っている節がある。

それは政治家やマスメディアに携る人間に顕著だ。

メディアの力は、恐ろしいほどに強力だ。確かに。

一国の国民を、「莫迦」にだってできると、思っている節もある。

国民の意識の中に「莫迦」にされても良いという土壌を作れば、それはいとも簡単な作業だ。簡単に言えば、「莫迦」に対して不感症にすれば良い。

詰まる所、毎日毎日「莫迦」と言い続ければ良い。

毎日毎日、意味もなくお笑い番組ばかり見せられていれば、「莫迦」と言われなくとも、「莫迦」になっていく。

自覚はないが、気が付けばメディアがお笑いの次に「一番大事」だと言い続ける「金」以外の大事な問題には心が動かなくなっている。

そうなれば、例えば、家族などどうでも良くなるだろうし、親さえ隣近所のおじさんおばさんと変わりなくなるだろう。もっと言えば、通りすがりの赤の他人と、何ら変わりない存在にだってなるだろう。

子供はどうだ?

最近の日本の親子も含めた人間関係の崩壊の様を見ると、何者かにコントロールされているのではないか? てなことが、脳裏を掠めたのであった。

ちゃんちゃん。