代々木に住んでいた叔母一家が、原宿に引っ越し、代々木での思い出は原宿の思い出へとシフトした。
昭和30年代前半の原宿は、もろに明治神宮の表参道「然」とした、静かな町だった。今のような喧噪も、若者の姿もまったくなかった。
青山通りから原宿駅にかけての、道の広さや起伏は、まったく変わらない。
ただ、青山通りへ向かう左手には、古色蒼然といった感じの「同潤会アパート」が建ち、その斜め向かい辺りに、いまも当時の面影そのままの「オリエンタルバザール」があり、そこから明治通りまで下る中間あたりには「キディーランド」があった。
当時、とてもモダンな印象を受けたこの3つのランドマークは、どうしたわけか神宮の参道というおよそ似つかわしくない場所に建ちながら、だがとてもしっくりと街に溶け込んでいた。もっというと、ランドマークと言いはしたが、これしかなかったと言って良い。いまのラ・フォーレ原宿の場所は教会だった記憶があるくらいだ。
同潤会アパートは別にして、「オリエンタルバザール」と「キディーランド」は、原宿の参道沿いに建つ理由があった。それというのも、昭和20年8月15日の敗戦によって、進駐軍が日本中に基地を作り、駐留軍属の住居スペースを日本から接収していたが、原宿の明治神宮の裏手、いまの代々木公園、国立代々木競技場、国立オリンピック記念青少年総合センター、NHK放送センターなどを含みこむ広大な土地は、ワシントンハイツという在日アメリカ軍の中級軍属用住居施設があったところなのだ。それもわずか800数10戸の。
「オリエンタルバザール」は、その駐留軍属のためのスーベニーショップとして。「キディーランド」は軍属の子供たちのためにあったといって良いのだ。
ボクがまだ小学校の高学年か、中学1年頃にキディーランドで買ったオモチャが、まだ手元にある。
当時日本の子供たちの間でも(大人もだった!)一大ウエスタンブームが巻き起こっていた。それはテレビドラマの「ララミー牧場」や「ローハイド」、「拳銃無宿」などといった西部劇ドラマの影響もあったが、なによりアメリカという国への憧れがそうさせたのだと思う。
ということで、その手元にあるオモチャとは拳銃である。当時1,000円だったと思う。相当な金額だったが、お年玉をためてあったお金で買った。これである。
なにが凄いといって、弾である。もちろんオモチャなのだが、鉛でできている。
いまではメッキも剥げてしまっているが、本体はダイキャスト製で、そこそこの重量感がある。ウエスタン・ファンはリアルなコルト45などをアメ横の中田商店などの専門ショップで手に入れていたが、ボクはそれほどのファンでもなかったので、これで充分だった。(もし欲しい方がいればお譲りします!)
やがて、ワシントンハイツは1964年の東京オリンピック開催を機に日本に返還され、選手村となり、現在のような代々木公園、競技場などの点在するスペースになった。(ちなみに戦前は練兵場だった)
原宿はお召列車の発着場でもあった。現在もそうなのかは判然としないが、都内でもなにか特別な一帯だった。その特別感は、明治神宮に足を踏み入れれば、いまでもわずかに感じることはできる。
忘れていたが、いまの明治神宮の本殿の屋根瓦には、ボクの名前の刻まれた瓦がある。父親が、戦災で焼失した本殿の再建に寄付をしたことで、そういうことになったらしい。
そいつが本当かどうか、一枚一枚瓦の裏を確認するわけにもいかないので、わからない。