普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

Twitterアカウントが乗っ取られた!

2015-01-28 09:09:15 | 極端な生活<的>な
皆さん、ご迷惑かけました。

このような局面は初の経験で。

なんで、フォロワーもほとんどいないのに、などと甘いことを、ちょっと考えてしまいました。

友人に指摘されて、気づきました。

イヤですね。ネット社会のリスキーな側面に付き合うのは。

でも、もう引き返せないわけで。

東京「昭和な」百物語<その3> 原宿界隈-1-

2015-01-25 20:42:16 | 東京「昔むかしの」百物語
代々木に住んでいた叔母一家が、原宿に引っ越し、代々木での思い出は原宿の思い出へとシフトした。

昭和30年代前半の原宿は、もろに明治神宮の表参道「然」とした、静かな町だった。今のような喧噪も、若者の姿もまったくなかった。

青山通りから原宿駅にかけての、道の広さや起伏は、まったく変わらない。

ただ、青山通りへ向かう左手には、古色蒼然といった感じの「同潤会アパート」が建ち、その斜め向かい辺りに、いまも当時の面影そのままの「オリエンタルバザール」があり、そこから明治通りまで下る中間あたりには「キディーランド」があった。

当時、とてもモダンな印象を受けたこの3つのランドマークは、どうしたわけか神宮の参道というおよそ似つかわしくない場所に建ちながら、だがとてもしっくりと街に溶け込んでいた。もっというと、ランドマークと言いはしたが、これしかなかったと言って良い。いまのラ・フォーレ原宿の場所は教会だった記憶があるくらいだ。

同潤会アパートは別にして、「オリエンタルバザール」と「キディーランド」は、原宿の参道沿いに建つ理由があった。それというのも、昭和20年8月15日の敗戦によって、進駐軍が日本中に基地を作り、駐留軍属の住居スペースを日本から接収していたが、原宿の明治神宮の裏手、いまの代々木公園、国立代々木競技場、国立オリンピック記念青少年総合センター、NHK放送センターなどを含みこむ広大な土地は、ワシントンハイツという在日アメリカ軍の中級軍属用住居施設があったところなのだ。それもわずか800数10戸の。

「オリエンタルバザール」は、その駐留軍属のためのスーベニーショップとして。「キディーランド」は軍属の子供たちのためにあったといって良いのだ。

ボクがまだ小学校の高学年か、中学1年頃にキディーランドで買ったオモチャが、まだ手元にある。

当時日本の子供たちの間でも(大人もだった!)一大ウエスタンブームが巻き起こっていた。それはテレビドラマの「ララミー牧場」や「ローハイド」、「拳銃無宿」などといった西部劇ドラマの影響もあったが、なによりアメリカという国への憧れがそうさせたのだと思う。

ということで、その手元にあるオモチャとは拳銃である。当時1,000円だったと思う。相当な金額だったが、お年玉をためてあったお金で買った。これである。



なにが凄いといって、弾である。もちろんオモチャなのだが、鉛でできている。

いまではメッキも剥げてしまっているが、本体はダイキャスト製で、そこそこの重量感がある。ウエスタン・ファンはリアルなコルト45などをアメ横の中田商店などの専門ショップで手に入れていたが、ボクはそれほどのファンでもなかったので、これで充分だった。(もし欲しい方がいればお譲りします!)

やがて、ワシントンハイツは1964年の東京オリンピック開催を機に日本に返還され、選手村となり、現在のような代々木公園、競技場などの点在するスペースになった。(ちなみに戦前は練兵場だった)

原宿はお召列車の発着場でもあった。現在もそうなのかは判然としないが、都内でもなにか特別な一帯だった。その特別感は、明治神宮に足を踏み入れれば、いまでもわずかに感じることはできる。

忘れていたが、いまの明治神宮の本殿の屋根瓦には、ボクの名前の刻まれた瓦がある。父親が、戦災で焼失した本殿の再建に寄付をしたことで、そういうことになったらしい。

そいつが本当かどうか、一枚一枚瓦の裏を確認するわけにもいかないので、わからない。



寒くない?

2015-01-22 13:12:34 | 普通な生活<的>な
去年末あたりに、「エルニーニョ現象」が発生していたから、今年の冬は「暖冬」などと、天気予報では言っていたな。

それにしても! 寒すぎるくらいに、寒い。

朝晩はひとしおだ。そして、今日のこの寒さ。雪になりそうな案配だ。

寒いのは冬なのだから当たり前だが、暖冬予測に対応していたから、着るもののセレクトが、いまだ間違ったまま。

だから余計、寒いわけで…。

労働の価値

2015-01-19 00:34:20 | 東京「昔むかしの」百物語
労働の価値は、こんなに低いものだったのかと、改めて認識した。

昭和という時代の労働は、いまの合理主義、効率主義の産み落とす労働価値と比較すると、ほとんどただ怠けていたというしかない。

一方で、その怠けていたという側面にも、本当のところ十分な価値はある。労働という範疇には入らないのだろうが、モノ=価値を作り出すという側面から見れば、充分な価値を持つ。

そこがないがしろにされている感は、否めない。

21世紀に入って、音を立てて価値の転換が起こった。そのことに、昭和を生きた人間は、意外にも気付かなかった。

気付いた人もいるのだろうが、多くは気付かなかった。

ボクも気付かなかった一人。

いま、そのことを知り、敢えてきついがその価値基準を学んでみようと思い始めている。

良いのか悪いのか、実際にやってみなければわからないというところだ。


東京「昭和な」百物語<その2> 代々木

2015-01-11 15:11:38 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和20年代後半から昭和40年代の後半まで、代々木駅とその周辺はほとんど変化もなかったと思う。

4歳だったボクが家族と共に、山陰の古都・松江から上京したのは、昭和28年の暮れか、29年の初めだったと思う。
確かめようにも、父も母もいない。二人の兄たちは当時すでに「大人」で、別行動だった。先に東京に出ていたのではなかったかと思う。姉はボクと4歳違いだったが、記憶は定かでないという。

上京したボクら家族には、住まうところがなかった。真っ先に転がり込んだのは母の姉の暮らす、代々木にあったとある有名企業の二階建ての社宅(というより社屋に生活スペースが隣接している、いかにも昭和な佇まいの建物)だった。住まいが決まるまでのつなぎで「居候」ということになったようだ。

その居候先は、今でもある。JR・山手線の代々木駅を渋谷方面に向かうと、建物としては新しく立派なビルになっているが当時と同じ社名の看板が線路脇左にすぐ見える。

明治神宮の北参道を降りてきたところで、半年ほどの居候中、遊び場はもっぱら明治神宮だった。

代々木駅も、現在は地下鉄なども乗り入れて、なかなか複雑な構造になっているが、昔は原宿寄りの改札口一つだけだった。ずっと長い間不思議だったのだが、4番線の総武線ホームと1番線の山手線ホームをつなぐアンダーパスは、当時から存在していた。なんのためにあったんだろう? 駅前の雰囲気も、駅を取り巻く建物は高層のビルディングになってはいるが、駅前の交差点の醸し出す雰囲気は、昔とあまり変わりない。

いまはないが、駅を降りて線路沿いに原宿方面に歩くと、「お城」(ボクの記憶では……)というお好み焼き屋があった。ボクらが居候していた頃にすでにあったか否かは判然としないが、造りがお城のような外観で、3階か4階建てだった。記憶にある店はそれだけ。少し大人になって2、3度行ったことがあるが、いつの間にかなくなっていた。

線路を挟んでやはり原宿方向に向かって歩くと、共産党の本部が当時からあった。

喧噪の新宿から一駅離れただけで、なにか鄙びた駅という印象が長く残った。

代々木がことさらににぎわいを見せ始めたのは、1959年以降「代々木ゼミナール」が開校してから。60年以降は、叔母の家族が原宿に転居していたので、代々木にはあまり行かなくなっていた。

当時のことを考えるだけで、鮮明に蘇る思い出がいくつかある。

別の機会に書くが、一つは明治神宮北参道周辺に現れたサーカス一座の話(以前にも何度か書いているが…)、一つは鳩小屋の話、そして5寸釘の話。

ここでは、5寸釘の話を書いておこう。

昭和30年前後の子供の遊びといえば、アクティブな女の子はゴムダンや縄跳び、おとなしめの子はママゴトや着せ替え人形遊び、お手玉、綾取りくらいのもの。男は鬼ごっこ(何種類かあった)、Sケン、水雷艦長、ビー玉にメンコ、ベーゴマ、おとなしめの子は軍人将棋なんてところだった。

その中に、的当てのような遊びがあった。ぺったんこにした5寸釘を手裏剣代わりに、砂山などで作った的に当てる。ただそれだけなのだが、5寸釘をぺったんこにするやり方が、いまでは考えられない方法だった。これは時効だと思うから書く。

実は、居候していた先の代々木の建物は本当に線路に隣接していて、子供のボクでも崖をよじ登って線路に立てた(当時5~6歳!!)。フェンスや壁など何もなかった。だから線路の上に、5寸釘を真っ直ぐ線路に寝かせて置きさえすれば、電車の行き過ぎた後に、ペッちゃんこになった5寸釘が光り輝いて残されていた。

悪くすれば、自分がペッちゃんこになっていただろうが、そんなことにはお構いなしで、何本もぺったんこ5寸釘を作った。

思えば恐ろしく危険なことなのだが、当時はまだ分刻みの運行スケジュールではなかったからできた芸当なのだろう。

後に、友達に聞いたところによれば、多くの男の子は都電の線路で作成していたらしい。

山手線での作成者は、ボクと従兄弟とおそらく数名だっただろう。

なにか胸の内が、もやっとする代々木の思い出。

謹賀新年!!

2015-01-04 03:46:10 | 普通な生活<的>な
遅まきながら。

皆様、新年明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。


神戸・三宮・センター街(2015.Ⅰ.Ⅰ撮影)

今年の正月は、神戸。またまた車での往復。

復路は、恐怖の雪中行軍。

神戸はネット環境(?) で、ご挨拶遅れました。

正月早々、皆に「新年あけましてお早うございます」と言ってみたけれど、完全スルーされました。

そんなこんなで、新年はすでに着々と残り少なくなっております。