普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

ローファーズ! 中・高等学校時代のバンド!

2017-05-22 00:42:43 | 音楽にまつわる話<的>な
5月9日! もっと早く書こうと思っていたのに、時間がしっかりと過ぎてしまった。

およそ半世紀ぶりに、中・高等学校時代のバンド仲間と酒を飲んだ。

50年! 時はまさに「矢の如く」に飛び過ぎ去ったのだ! だが、会えば50年など昨日のことのようで、「じゃ、また明日練習な!」とでも言って別れた翌日に、会ったようで……。

柴山、内野、二人とも昔の儘で、まるで違和感がない。

楽しい酒だった。良い酒だった。

バンドの名前、忘れていた。ローファーズ。ROFER'S!

もう、当時としてはど真ん中の名前だ。キャンパス・フォークの雄、キングストン・トリオのコピー・バンドだったボクらは、縦ストライプのボタンダウンのシャツに、コッパン、それにローファーというアメリカの東部アイビーリーガーの学生のファッションまで、しっかりコピーしたもんだ。

このスタイルのバンドはたくさんいたが、中学生のバンドは、ボクらだけだった。

柴山が、その後も早稲田大学でバンド活動(二代目のザ・リガニーズ!)を続けていて、彼の仲間が作ったHPに、当時のボクらのステージ写真(Copyright 2003 RAMBLERS)があったので、ちょっと拝借。載せます。


ボクは右端。ネアンデルタール人のようだ。みんなイイ男だな。

どうやら、地元杉並公会堂で自主イベントをやったみたいだ。

高校時代の写真みたいだけれど、なんだか懐かしくて、不細工なのも許せるな。

それにしても! 50年は凄いな。


東京「昭和な」百物語<その26>唄

2017-05-15 00:55:41 | 東京「昔むかしの」百物語
子どもの頃、まだ松江で暮らしていた頃だから、4歳前の話。

その頃はまだ、ラジオを聞くこともままならなかった。戦後10年も経ておらず、米穀通帳などがまだ存在し、お米は配給だった頃だから。父親は島根新聞(いまの山陰中央新報)の編集局長というそこそこの仕事をしていたが、貧乏だった。母はモダンな人だったけれど、普段は着物を着ていたような、まだ西洋文化も日本の隅々には浸透し切っていない、そんな頃。

ボクはどうしたわけか、いまでも童謡や唱歌の類をほとんど覚えている(曲の一部は少なくとも歌える)のだが、どう考えてもこの時代に覚えている。

なぜならば、家族でボクが4歳の時に上京したのだが、上京後はラジオが常設され、耳に入ってくる音楽は少なくとも童謡でもなければ唱歌でもなかったから。

なぜ童謡、唱歌の類がボクの記憶に鮮明に残っているのか? 答えはいとも簡単で、母が歌って聞かせてくれたからだ。それ以外には思い至らない。

数十曲はあるだろう。ただし中には奇妙な言葉として記憶しているものもある。

例えば「赤い靴」。「良い爺さんに連れられて」と記憶していた。本当は「異人さんに連れられて」。こんな勘違いは山ほどある。

それと、戦後すぐの頃の日本は、まだまだ明治を引きずっていたという事実。

「一列ランパン破裂して 日露の戦争始まった さっさと逃げるは露西亜の兵 死んでも尽くすは日本の兵 五万の兵を引き連れて 六人残して皆殺し 七月八日の闘いに 哈爾濱までも攻め入って クロパトキンの首を取り 東郷大将万々歳」

こんな日露戦争を題材にした手毬歌(ちゃんと数え歌になっている)を覚えているから。

もっと遡る歌もあった。

「あんた方どこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 仙波さ 仙波山には 狸がおってさ それを猟師が 鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉で チョッとおっかぶせ」

手毬歌。これは幕末の薩長連合軍の兵隊と付近の子どもたちとのやり取り、と言われているそうだが、詳細はわからない。

同じ頃のじゃんけん数え唄に、こんなものもあった。

「一かけ 二かけ 三かけて 四かけて 五かけて 橋をかけ 橋の欄干手を腰に はるか向こうを眺むれば 十七八の姉さんが 片手に花持ち線香持ち 姉さん姉さんどこ行くの 私は九州・鹿児島の 西郷隆盛娘です 明治十年の戦役に 切腹なされた父上の お墓詣りに参ります お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます お墓の前には幽霊が ふうわりふわりと ジャンケンポン」

まだまだ多くの唄が、蘇ってくる。思い出したらその都度原稿にしてみようかな、と。

東京「昭和な」百物語<その25>芸能(続き)

2017-05-07 01:12:41 | 東京「昔むかしの」百物語
というわけで、また嘘つきハンスになった。ボクの「明日」はおよそ普通の人の「2週間後」に相当するわけで……。そんなことは、まぁいいか!

日本の音楽業界が、まだやくざに仕切られていたという典型的なシーンは、美空ひばりと小林旭の結婚記者会見に見て取れる。その時の映像はおそらくどこのテレビ局にも資料として残っているだろうが、二人の脇にまるで後見人然として映っているのは、山口組の三代目・田岡一雄組長だ。それまでの美空ひばりの所属事務所は「神戸芸能社」。早い話が田岡組長が設立した美空ひばりのための芸能プロだった。そしてこの時の田岡組長は、その後に設立した「ひばりプロダクション」副社長の肩書だった。なによりひばりの父親代わりだったのである。

この当時の芸能関係の8割方は、やくざの息がかかっていて、それは可笑しなことでも不思議なことでもなかった。映画界も音楽会も、相撲界も、もっと言えば政財界も、やくざと関わるのは当たり前のことだった。なんとなれば、昭和30~40年代はまだ、社会の表と裏が誰の目にも見える形で存在していたからだ。表を支えるためには裏が必要と、誰もが知っていた時代だったのだ。

歴史を紐解くと、芸能そのものがやくざと密接な関わりがあった。有体に言えば、同じ穴の狢だった。もっと言えば被差別民の生業の一つだった。歌や芝居は「」の生業であり、彼らの受け入れ側で庇護者であり搾取者であったのが、同じように無宿者、社会からのはみ出し者=やくざだったのだ。それは江戸期から続くwinwinの関係だった。

この図式も、昭和40年代後半に入ると変化し始める。やくざへの風当たりが強くなり、芸能にも「普通な人々」が参入し始める。その典型が中津川のフォークジャンボリーだった。おそらく世界で初めての大規模な野外コンサートである。あのウッドストックより1年も前に開催された。このコンサートは、労音(日共系音楽鑑賞団体)の制作メンバーが高石ともやなどと企画し始めたイベントだった。

芸能の興行が、徐々にノーマルな商業行為として成立してくる。その結果、やくざは表舞台から排除されることになった。いやいや、排除されるほどやわではない。表向きの顔、会社形態をきちん設えて、プロダクション経営などを引き続き行っていくようになった。

いまある芸能プロダクションがやくざの表向きの顔だなどと言っているわけではない。昭和という時代にそうしたプロセスを経て、いまの芸能界もあるのだというお話し。