普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

この寒さはなに?

2011-07-31 22:41:58 | 普通な人々<的>な
 今朝、ベランダのサッシを開けて寝ていたのだが、あまりの寒さに5時半に目覚めてしまった。
 つい先日までのあの暑さはなんだったのだろうか? すでに秋の気配だ。戻り梅雨とでもいえそうな鬱陶しい日々。まぁ、晴れたら晴れたでおそらくはクソ熱いのだろうが……。

 最近知ったのだが、あの3.11の地震を昨年から「世見(よげん)」していたブログがあった。拝見したのだが、非常に丁寧で真面目で思いのあるブログなのでびっくりした。
 ある女性がまるで日記のように書き記し、その中でどこからから漏れ聞こえる言葉を書き記しておられる。その部分が「世見」として書き記されているのだが6月末日の記述に「明日から、7月がスタートします。この夏は、例年より湿度が高くなるのが感じられて、嫌な夏になりそうです。それと、急に激しい雨が降り、雷様も私達人間に地球の自然界が病気だと云って鳴り続けると思います~(中略)~夕立、そんな感じじゃないのですよ。本当に凄い雨が降ります~(中略)~集中的な雨が降ると思われます~(中略)~東日本大震災で被害に遭われた地域と九州は、これからも大雨には気を付けて下さい」とあった。
 7月初頭の記述にも「大韓民国、日本、中国に大雨が降る」とあった。まったくその通りになっているので、またびっくりだ。
 決してこのブログに記された言葉が当たるとか当たらないとか言うのではないが、こうした「世見」のような能力をもっておられる方がいるのだなと、あらためて人の世の不思議を納得させられた。
 
 ということも含め、やはりこの不順な天候にはなんらかの意味があると思わざるを得ない。もっとも思いつくのはやはり、為政者の正邪。なにか大間違いを犯しているのではないかと思えてしかたがない。
 

30,000アクセス・オーヴァー!!

2011-07-29 00:08:17 | 普通な人々<的>な
 とうとう! 3万アクセスを越えました!! 本当にありがとうございます。
 これからも、あてどのない旅のような内容の原稿でしょうが、書き続けていきます。
 切に応援のほどよろしくお願いします。

 応援されると、意識はクリアーになり、書く内容も意味を持つものになったりもします。小難しいことを書く気はないけれど、まったく意味のないことを書こうとも思いません。やはり応援があればこその原稿が書ければ嬉しいのですね。

生かすための、自死。

2011-07-27 19:32:25 | まあまあ社会<的>な
 自死を考える。
 自殺ではない、自死。
 自殺は自分を殺すと書く。そこには自分自身への否定がある。
 特段に何かが違うわけではないのかもしれない。自分の意思で死のうと、他人に殺されようと、自分に殺されようと結局は死ぬ。

 どんな言い方をしたところで自死は自死なのだが、むしろ積極的な意志として、誰かの役に立つのであれば喜んで死ぬ、という人は少なくなかろう。
 ボクの奥さんの父親(義父です)は、既に病気で亡くなって10年が経つが、敗戦直前に入隊した特攻隊員だった。彼は死の直前まで特攻隊員として共に過ごした仲間と飲みに行くなど、同じ時を過ごすのを楽しみにしていた。死を共通のテーゼとして抱えていた、死を眼前にしたことのある者たちは、常人にははかり知ることのできない絆で結ばれていたに違いない。
 特攻隊員は、何のために積極的な自死へと赴いたのだろうと考える。
 「お国のため」といいながら実は「お母さ~ん!」と叫びながら死んでいったとも言われるが、残された者を守るために、彼等が自ら死んでいったという事実は否定できない。薬の力で無理矢理送り出されたなどという輩もいるが、それは、たとえ恐怖にさいなまれた状態だったとしても実際に散った特攻隊員への冒涜的発言と言ってもいい。
 彼等は等しく使命に散ったと考えるのが妥当だろう。でなければ彼等の死は「犬死」になってしまう。

 積極的な自死というものは、これからも積極的に考えていかざるを得ないテーマであり、最も身近な命題ということになろうか。
 死を、自分のエキゾティックな生の「刺身のツマ」扱いしてはならない。
 いまという時の中での、自死を考える。

中村とうようさん、ご冥福を祈ります。

2011-07-25 23:19:09 | 音楽にまつわる話<的>な
 60年代、70年代、そして80年代と、「ニューミュージック・マガジン」を舞台に、切れ味鋭い、それでいて決してアーティストへの愛情を忘れることのなかった独特の評論で、多くのミュージシャン、アーティスト、音楽評論家、音楽雑誌編集者に多大な影響を与えた、中村とうようさんが亡くなった。
 あまり書きたくはないが、自殺だった可能性が高い。

 昨年の夏頃に、今野雄二さんの訃報を聞いた記憶がある。テレビなどのメディアを舞台に、やはり評論家として一世を風靡した人。彼も自殺だった。今野雄二さんはボクが当初プロデュースしていた頃のP-MODELが「MOMO色トリック」の中で揶揄していたこともあって、亡くなった頃には『今野雄二 P-MODEL』の検索数が増大していた。ボクは別に今野雄二さんを嫌いでも好きでもなかったが…。

 それにしても、今野さんの場合は〈病気〉だったと聞いているが、中村さんはなにがあったのだろうかと、思う。音楽評論の端くれをいまも続ける者としては、どこか理解可能な「パーツ」があるから余計に、気になる。
 
 音楽評論というジャンルは、すでに20年も前に枯死している。音楽を評論するということの無意味さをリスナーが声高に言い始めた時があった。好き嫌いで良いじゃないかと。それはその通りで、ことに音楽と言う嗜好品に近い表現はそれ以外の存在意義もみいだせないほど。

 ただ、評論の対象になリうる音楽というものも存在するのは確か。

 中村とうようさんは、音楽評論という表現の場が失われたことに絶望したわけではないだろう。無理矢理にそうした場をこじ開けることだって、中村さんならできたはず。

 本当に何があったのだろう? 

 そして、中村さんが立川に住んでいたという事実も、ボクを驚かせた。
 
 ボクも立川在だから……。ご冥福を祈ります。

16000人!

2011-07-23 00:54:29 | 普通な人々<的>な
 本当に不注意というか、また訪問者数が1万5000人を越えて、1万6000人オーヴァーになっていました。本当にありがとう。
 ここのところ、50年位前の東京のことを書いている。ほとんど自分の肌感覚で記憶していることを書いている。昭和33年当時のことを描いた、映画「三丁目の夕陽」は、まさにボクの時代感覚とリンクする。
 あの映画で描かれなかった昭和33年を少し書けば、まず売春防止法の施行、長島茂雄のプロ野球デビュー(四連続三振で公式戦デビュー!)、東京タワー完成、インスタントラーメンの登場、食品添加物の使用が始まる、1万円札の発行……なにしろエポックメイキングな年だったのだよ。
 中でも特筆すべきは、ボクの奥さんが誕生したことかな。

 ……んま、いいか。

都電もあったが、トロリーバスでしょ、やっぱり!

2011-07-21 22:06:22 | 東京「昔むかしの」百物語
 昭和30年代(本当は漢数字で書く方がしっくりくるな)、東京の空はカオスだった。

 ボクが島根県松江市から家族で上京したのは、昭和28年。当時4歳だった。
 トレーラーバスという、運転席と客席がセパレートになっている大型バスで松江の駅まで出た覚えがある。当時、松江市内を走っていたバスの主力は、このトレーラーバスだった。カッコイイなと思っていた。
 松江から一度北陸路を辿り、新潟県の糸魚川近くの鬼舞に向かった。そこは母の母方の実家だった。半年ほどそこに滞在したような記憶がある。夏に着いて冬に東京へと向かったと思う。
 だから、東京に辿りついたのは昭和29年になっていたかもしれない。
 新潟からどう経巡ってきたのかわからないが、東京駅に着いた時に駅構内は黒山の人だかりだった。街頭テレビで、力道山のプロレス試合をやっていたのだ。それを見た記憶がある。
 電信柱のような柱の上に箱が載っていて、その中で映画のように人が動いていた。おそらくあまりの人だかりで父が肩車をしてくれたのだろう。子供のボクはおそらく大人達のケツの辺りしか見られなかっただろうから。
 住むところも決まっていなかったらしく、その時は代々木に住んでいた母の姉の元に転がり込んだ。昭和29年中は、そこで世話になっていた。

 昭和30年、富坂(小石川のお隣)のアパートに引っ越した。そこには1年足らずしか住まなかったが、その間に後楽園遊園地が完成し、地下鉄の丸の内線も一部完成していたと思う。できたばかりの後楽園まで坂を下って歩いて見物に行った。ジェットコースターがあったが、恐ろしげであった。
 後楽園から家に向かって富坂を上り、右手を見ると時計台が見えた。それが学校だと聞いて「アソコに入る」と言ったらしいが、残念ながらそこは東大で、勉強嫌いのボクが入学することはなかった。
 やがて上板橋のボロ長屋に転居する。ここには昭和33年までの3年間住んだ。たった3年間だったが、不思議と思い出が詰まっている。おいおい書こうと思う。

 そんな時代、省線と都電と、もう一つ東京に住む者にとって重要な脚だったのが「トロリーバス」だ。
 松江のあのトレーラーバスよりカッコ良いバスが、東京にはあったのだ。
 空に張り巡らした架線からトロリーボールという集電装置で得た電気を動力にして走るバス。クリーンな乗り物だった。
 池袋から新宿を経て渋谷まで、東京の3大歓楽地をこのトロリーバスはつないでいた。だから、都電の架線もあいまって、明治通りの空は、のべつまくなしくもの巣に覆われているような景色だった。なにか猥雑な感じさえした。だが、たわんだ架線の作り出す景色は間違いなく東京の風景だった。
 東武東上線・上板橋に住んでいたから土地勘もあり東上線の基点である池袋は庭のようなもので、西武デパートの大食堂にはよく行った。渋谷は叔母が代々木、原宿と移り住んでいて、年の近い従兄弟と遊ぶために毎週末出かけていたから、こちらも馴染みがあった。東急のプラネタリウムが懐かしい。そして新宿は昭和33年以降、荻窪が住処となり新宿がターミナルのようなもので、のべつ遊びに出ていた。
 だからトロリーバスは重宝だった。確かではないが昭和42~3年までは、確実に都内を走り回っていた。
 ところが。都電もそうだが、トロリーバスもある日パタッとなくなった。おそらく物流の時代が来て、大型のトラックが走るにはあの架線が邪魔になったのだろう。交通量も瞬く間に増加した。そうなればノタノタと走る都電もトロリーバスも、邪魔者扱いされるのは目に見えていた。
 そうはいっても、あの頃の光景は忘れがたい。
 冒頭に「昭和30年代、東京の空はカオスだった」と書いたが、本当に架線が縦横に張り巡らされた、あのワサワサとした感じは、まさにカオスで、たまらなく好きだった。

新宿大ガード付近

2011-07-20 18:01:02 | 東京「昔むかしの」百物語
 全然無関係なのだが、カテゴリー→ジャンルを探していたが、「歴史」というジャンルがない。びっくりだね。

 昭和33年の冬、それまで住んでいた上板橋のハモニカ長屋から、荻窪の公団住宅に引っ越した。これは画期的な出来事だった。

 当時僕は小学校三年生で、板橋から文京区立窪町小学校に越境入学していた。越境入学の理由は、今は筑波大学となっているが、当時の東京教育大学附属小学校の入学試験に落ち、しゃくにさわって隣にあった窪町小学校に通うことにした、ということになっていた。本当のところは不明。
 確か季節は冬。ニ学期の終業式当日だったような……。
 上板橋から窪町小学校に出向き、帰りは荻窪に帰った。よく考えれば、10歳の小学校3年生にはかなり無謀な行程だったような気がする。なにしろ荻窪なんぞは、行ったことも聞いたこともなかったから。
 当日の朝、帰りは荻窪まで来るようにと言われ、心細いなんてものではなくて、当時の学友に先生(中村先生!)に促されてサヨナラの挨拶をし帰路についたが、心此処にあらず的な浮き足立った感覚を覚えている。
 営団地下鉄丸の内線の茗荷谷が学校への下車駅だった。いまの感覚で行けば、それなら茗荷谷から荻窪まで一本じゃないか、と言いたいところだろうが、丸の内線、当時はまだ荻窪まで開通していなかった。池袋から霞が関までしか開業していなかったと思う。
 どんな行程で茗荷谷から荻窪まで行ったのか定かではないが、その夜にはきちんと荻窪で食事をした記憶があるから、ちゃんと行けているわけだ。
 いろいろな方法があった思うが、おそらく、茗荷谷から池袋(2駅)へ出て、省線(と昔は言ったのだよ)に乗って新宿へ出て、当時は高尾ではなく浅川行きといった中央線に乗って行ったのか、あるいは、新宿で降りて淀橋方面に向かって大ガードを抜けて歩き、都電に乗っていったか、いずれかだろうが、そこのところの記憶は曖昧だ。
 どちらかと言えば、都電で行った公算が大きい。というのも、4歳年上の姉が、当時まだあった淀橋浄水場近くの精華女学園中等部に通っていて、記憶にはないのだが、彼女と待ち合わせて帰ったと考えるのが最も妥当だ。そうなれば都電で帰るのが最も自然だ。

 当時、都電は東京を縦横に走り回っていた。ボクがやはり最も馴染んでいたのは杉並線で、新宿の大ガードを超えたすぐの所に、熊の胃の宣伝だったか何か(ジンギスカン料理屋!?)で大きな熊の絵だったか彫刻だったかがあって、その前辺りに停車場があった。それに乗れば、終点の荻窪駅近くまで連れていってくれた。
 都電荻窪駅は、新宿から向かえば荻窪陸橋を越えた北口側にあった。
 ただ、営団の丸の内線が荻窪まで乗り入れた昭和37年の翌38年には廃線になった。だからボクが乗ったのも、約4年間程度だったという計算になる。

 そういえば、当時の東京の交通事情を、次回は書き残そう。なんだかカオスだったのだよ。面白かったというべきか。





芋蔵

2011-07-19 15:38:29 | 普通な人々<的>な
 昨日の早朝からなでしこJAPAN「W杯優勝」の余韻で、頭の芯が覚醒したまま、夕方からは池袋にある「芋蔵」という飲み屋さんでしこたま飲んできた。

 お店が閉店するということになり、それなら店を一時借りきり、そこでクラシックのコンサートを開こうということで、そのイベントというか飲み会というか、いずれにしても楽しそうな会に参加してきたのだ。主催者はうちの奥さんの昔からの知人で、現在はSEの会社経営者。
 
 会には演者も含め総勢14~5名が参加、飲みながら2度のコンサートタイムを挟んで6時間ほどは楽しんだだろうか。演奏タイムでは「芋蔵」のスタッフも一緒になって、演奏に聴き入った。

 クラシックとはいえ、飾り気のない、アルコールは入っているものの聴きごたえのある優れた演奏を聴くことができ、非常に爽やかでありながら濃密な音楽と共にある時間を過ごすことができた。

 弦楽四重奏(Vn、Vn、Vla、Vc)での演奏。最初はモーツァルト、ハイドン、ジブリメドレー、2ステージ目は酒が入りとろんとしていて記憶にあるのはドヴォルザーク、ディズニーメドレーなどなど。どれも素晴らしい演奏だった。

 さすがに20年近くも、音楽のプロフェッショナル教育を受けてきた皆さんの演奏は、こんな間近で、こんな環境(お酒飲みながら!)で聞かせてもらっていいのか? という優れもの。

 一曲ごとに丁寧な解説入りで、よりクラシックを楽しめた。こんな聴き方もありだなと、サロン的な新しい音楽鑑賞の環境に思いをめぐらせてしまった。

 クラシックの新しい楽しみ方という意味では、ラ・フォル・ジュルネは先進的だが、それよりもさらに先に行った楽しみ方かもしれない。

 とにかく無条件に楽しかった。

なでしこ!!!!!!!!!!!

2011-07-19 14:41:01 | 普通な人々<的>な
 一日遅れで感動を伝えます!

 昨日の早朝、眠気に耐えて3時まで起きていたのに、気づいたら5時を過ぎていました。
 慌ててテレビを付けると、0-0のスコア。

 寝起きで、その映像がリアルタイムの映像なのか、試合後のリプレイ映像なのかも判断できない頭でボーッとしたまま見ていると、アメリカに点が入り、なでしこがすぐに取り返す展開。それでもまだ、頭の芯は働いていない。
 延長に入ると、またアメリカが点を取り、後半になでしこが追いつく。おお! すげぇ! とは思ったが、それ以上には心動かず。
 そしてPK戦。

 この時にやっと、PKのための準備時間も時の流れとして当然画面に流れているわけで、映し出されている試合がリアルタイムのものだと納得できた。
 すると俄然頭の芯が冴えてきて、後半同点となる宮間選手のゴール前での華麗で技ありのゴールと、延長戦後半試合終了間近の、澤選手の同点となる2点目ゴールがどれほど価値あるものかがグワーッと高波のようなイメージで思い出され、なにか抑えきれない感情が迸り出てきた。
 そして、最後の最後にレッドカードで退場となった岩清水選手のワンプレーが、試合を決定づけたと思えて、「岩清水、ありがとう!」と心の中で叫んでしまった! あのプレーがなければ、確実にモーガンに勝ち越しの決勝点を入れられていただろう。

 オンタイムで見ていたときは、ボーッとした頭でそれほどの感動もなく見ていたくせに、なにやら歳をとってからの筋肉痛、疲労感のように、多少のタイムラグを伴って後からジワジワと来た!

 熊谷選手の一蹴でPK戦を制し、なでしこがW杯優勝と決まった瞬間は、正座しながら見ていたが、15cmほど浮かんだんじゃなかろうかというほど、感極まった。

 感動をありがとう、とか、諦めない尊さを教えてくれてありがとう、とか、さまざま彼女たちを讃える言葉はあるだろう。時の廻りもある。ボクは一言こう伝えたい。

 「世界一の女性たち!」

 他の誰もマネの出来ない「世界一の女性たち」に、相応しい祝福を!!




絵画館前 「かっぱ天国」…だったかな?

2011-07-17 13:03:47 | 東京「昔むかしの」百物語
 おそらく、覚えている人もほとんどいないのじゃないかという、だれが企画し実行したのか、大東京のど真ん中であった真夏の子供たちへのプレゼント企画!

 と言っても、「なんのこっちゃ?」と言う方がほとんどだろう。
 確かボクが10歳ころ(50年以上前!)の、都合2~3年間だけ行われた、名称は「かっぱ天国」だったような記憶がある。

 いまは黄葉(イチョウ並木!)の名所になっていて、秋には若いカップルの散歩道になっている、青山、外苑前の絵画館周辺。
 絵画館前の広場は、昔はなにもない、人々の集合するスペースとして、皇居前広場のような役割をもっていたに違いなかったが、いまではほとんどのスペースが駐車場として使われている。

 その一角に、噴水施設などのある池があるのだが、その池がいまから50年程前に、子供たちの水遊び用に開放されていたのだ。記憶違いかもしれないが「かっぱ天国」と名称されていた記憶がある。そして、それはわずか2~3年で終了してしまった。

 なにをきっかけに始まり、なにを契機に終了したのかは子供のボクには知る由もないけれど、そのプールとも水たまりともつかない遊び場は、最高に夏を満喫出来る場だったのは確かだ。
 水深もそれなりにあった。当時のボクは多分身長130cm程度だったろうが、すっかりと水没する程度の深さだった。だから、雄叫びを上げながら飛び込んだりしたものだ。
 親子連れなどほとんどいない。皆子供同士で遊びにきていた。

 一度、たいして泳げもしないくせに、泳げるようなフリをして脚が攣り、溺れそうになったこともある。
 必死で、自力で壁までたどり着いたが、そこはプールでもなんでもない池だから、とりすがるものもなく、壁伝いに何ヶ所か設置してあった出入り用の階段までたどり着いて助かった、などということもあった。
 それでも楽しかった。一シーズンのうちに、5~6回は通っていたと思う。

 クソ暑い夏の盛りに、ふと思い出す思い出の一つ。こんな思い出を共有できる人って、まだどこかにいるんだろうか? そして、管理された環境の中で、はみ出すことに怯えながら入るプールしか知らないいまの子供たちには、こんな思い出はないのだろうなとも、思った。

 あの「かっぱ天国」を企画し主催したのは、誰なのだろう? 可能性としては、絵画館、東京都、渋谷区といったところか……。
 どこでもいいけれど、いい思い出をありがとうと、この場を借りてお礼しておきたい。

あの頃 原宿

2011-07-16 00:49:55 | 東京「昔むかしの」百物語
 本当なら写真で残せていたならなと思うのだが、文字で残すのも悪くはない。
 今回は、最近歩く機会のあった原宿を描いてみよう。

 昭和50年代になって、原宿は今の原宿と大差のない賑わいの街になったけれど、それ以前は、本当に静かな明治神宮の参道だった。
 昭和20年代後半~30年代前半当時、叔母が表参道から横丁に10mほど入った、ちょうどオリエンタルバザールの裏手にあたる辺に住んでいて、歳が2才しか離れていない従兄弟がいたこともあり、それこそ毎週のように遊びに行っていた。

 オシャレでモダンな印象の街・原宿の原点は、代々木公園にある。
 元々は「代々木練兵場」と呼ばれる軍の施設だったが、敗戦に伴い連合国軍に接収され「ワシントンハイツ」というアメリカ軍の宿舎敷地となった。その影響で、表参道にスーベニアショップが誕生した。その代表格が2店舗。
 いまでも残る「オリエンタルバザール」と「キディランド」だ。いまから50年も前に、「キディランド」にはおもちゃとは思えないアメリカ製(日本製かもしれない?)のウェスタン銃が並んでいて当時の子供たちはこぞって買いに走った。ウェスタンは大流行りで、誰も彼もがコルトやS&Wなんてな銃メーカーの名前を知っていて、おもちゃの銃を一丁は持っていた。
 かく言う我が手元にも、銀色で把手が赤の銃がいまでも一挺残っている。

 当時、その2軒の店舗があるだけでもハイカラな印象の街だったが、歩行者天国実施前には、それほどの賑わいはなかった。ただ一年に二度だけ、どこからこれほどの人が湧き出るのかという日があった。

 まずは、初詣。これは今も変わらないが、押しつぶされそうな賑わいだった。原宿駅が臨時の改札を作り、天皇陛下の御召列車の発着スペースに出入りできたような記憶がある。これは記憶違いかもしれない。
 もう一日は、11月3日=文化の日だが、前夜から表参道を夜店が埋め尽くした。いま思いつくあらゆる夜店が立ち並び、半端ない人の波で溢れた。
 前夜祭とでも言うべき11月2日の夜は、時間の経つのも忘れ走り回り、大人たちも大目に見てくれた。代々木側の北参道には、当時の祭りに欠かせないジンタと共にサーカスがテントを張って人々を呼び込んでいた。一番印象に残っているのは網目状の球形の中をオートバイが天地左右を厭わず疾駆するアトラクションだった。猫娘もいた。大イタチもあった。そこはかとなくイカガワシイような、ワクワクドキドキ胸の高鳴る一夜だった。野外映画の映写会もあったような記憶がある。

 昭和36年に、東京オリンピック開催もあって米軍による接収が解除され、オリンピック選手村を経て現在の代々木公園となった。
 原宿が、お洒落な街として賑わうようになったきっかけは、同潤会青山アパートメントにクリエイティブなアーティストが居を構えて「プライベートブランド」ショップを立ち上げたことがひとつある。また歩行者天国が実施され、新宿や渋谷ほど人がおらず、広々とした道(参道!)で自由な表現ができたこともあるだろう。その一つが竹の子族などだった。
 
 いまとなっては当時のことを知る人も少なくなっているのだろうが、目をつぶると当時の光景が鮮明に思い浮かぶ。
 なにか本当にいい時代だったな。
 人が人としてきちんと生きていられたような気がする。

 竹下通り側はまた別の機会に。
 
 次回は意外な場所、外苑の絵画館前。これがまた意外な歴史があったのだよ。


なでしこ!!!

2011-07-14 19:53:10 | 普通な人々<的>な
 凄い!! 言う言葉もない。なでしこJAPANはすごい!
 対アメリカ戦、決勝戦を残すだけとなったが、今大会の足跡は、本当に「ありがとう」の一言。最終戦は勝つに越したことはないが、もうどうでもいい。
 素晴らしいモチベーションを感じさせてくれただけで、感謝!

誕生!! 伊吹留香!!

2011-07-11 23:08:21 | 音楽にまつわる話<的>な
 昨日の晩、代官山のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」に行った。
 伊吹留香というアーティストの「バースデイ・ライブ」があったのだ。



 バースデイライブというぐらいだから、7月10日生まれの彼女のライブは、そりゃまあ! 素晴らしいものだった。

 伊吹留香のライブは、まだ二度しか見ていないけれど、ソロとバンドというような表現形態の
違いはあったにせよ、昨日のライブの方が遥かに素晴らしかった!! なにが素晴らしいといって、歌への思いの有り様が、前に見た時と全然違っていたのだ。
 前に見たのは、わずか1ヶ月程前だったのだが、その時はその時で素敵なライブだった。やはり思いの伝わるライブ。だが、夕べのパフォーマンスには、明らかな違いがあった。

 その違いはなにかと聞かれると結構答えに窮する類のことなのだが、言葉にすると「アマチュア的な匂い」がなくなっていたのだ。
 簡単に言うと、表現が表に出てきていた。これは、実にすごいことなのだ。

 おそらく伊吹留香本人も気付いているだろうと思うのだが、夕べのライブを終えたときに、彼女の中で不完全燃焼のような、心の澱のようなものがなかったのではないか? きっとその前のライブまで、彼女にとって致命的なものではないだろうが、どこかに不満があったのではないかと思うのだ。
 だが、昨日はなかったに違いない。なぜなら、歌うことの意味が、明らかに自分へのアプローチから、聴手へのアプローチに変わっていたのだ。伊吹留香の中で、歌うことの意味が変わっていたに違いないのだ。

 正直、勝手気ままに、伊吹留香を無視してこの原稿を書いている。「私はそんなこと思いも、感じもしていない」と彼女は言うかもしれない。
 それでいいのだ。こちとらバカボンだから。
 ボクの勝手な解釈だから、どこまで行っても勝手なのさ。

 それでも、伊吹留香というアーティストの「誕生の瞬間」を見たような気がしたのは、きっとボクだけではなく、ライブに集った人の多くが感じたに違いないと、これまた勝手に思うのだ。これまでと、変わらないようにも思えるのだが、なにかが違っていた。そんなふうに思っているファンも多いのではないかと、勝手に思うのだ。

 こうしたなにかが変わる瞬間に立ち会えるというのは、ある種の奇蹟だ。

 伊吹留香が、大きく羽ばたく瞬間に出会えたことに、感謝!!

 ちなみに昨晩のライブの写真を盟友・生井秀樹氏が撮ってくれているのだが、まだあがらない。あがったら、写真でライブを再現してみよう。それまでは、彼女のプロモ写真で………。

大事なのは、一歩踏み出す!!

2011-07-09 11:21:17 | 普通な人々<的>な
 一歩踏み出す。

 なぜそんなに単純で簡単なことが大事なんだろう? 
 ずっと前をむいて、それこそ「歴」が一還りする以上に生きてきたが、一歩踏み出すことの大事さなど、考えもしなかった。考えている余裕というかゆとりもなかったのかもしれない。

 そして気が付けば、自分を取り巻いている、仕事、人間関係といった環境が激変していた。変化をことさらに求めていたわけではないのだが、ただただ変わっていた。それは、自分が動いたから周囲の景色が変わっていたということなのだが、それに気づきもしなかった。

 自分が意識的に求めた形での変化でないこともボクを戸惑わせるのだが、その周囲の環境を感じると、外に打って出ることが困難になる。言ってみれば怖いのだ。

 かつては、自分の人生はある種の予定調和の中に収まるものだった。こうやって仕事を続けていけば、こんな人間関係ができて、社会のこのポジションにいられる……というような予測が付いた。
 それが、今の世の中ではおよそ調和しない。
 
 だからこそ! と思うのだ。一歩踏み出すことが大事だと。自分で意識して踏み出す。
 そうすると何が起きるのか?

 風景が変わる。環境が変わる。人間関係も変わる。
 ただ、それが恐ろしいのだ。特に年齢を重ねると。
 だが、活路はそこにあると思う。

 歳をとるということは硬化するということだ。動くことや変化を嫌う。それでは旧態のままだ。
 一歩踏み出して、変化した景色に感動してみたくなった。

冨田 晃 インタビュー

2011-07-07 22:47:12 | 音楽にまつわる話<的>な
*この原稿は、J-CAST「音盤見聞録」で4月に掲載したものです。

冨田さんは、弘前大学の准教授でもあるけれど、非常に多彩な音楽的土壌をベースに活動されているアーティストでもある。その多彩さは、驚くほど豊穣であり、コスモポリティックな広がりを持っている
。今回はその一つの反映に過ぎないのだが、これがまた壮大な音世界と、それを支える緻密な労作業
という冨田さんならではのプロセスと結果。できれば音源を用意して聴いてもらえれば、もっとよくわかると思うのだが……。


冨田 晃
『月の光 ドビュッシー作品集/冨田 晃』

OMCA-1141
2200円
4月27日発売
オーマガトキ/コロムビア


 冨田 晃という名前を聞いて「知っている」と思われた方は大勢いると思う。
 例えば弘前大学の准教授として、例えば津軽三味線研究家として、例えばグラスハープの啓蒙家として、例えばスティール・パンの伝道士として、例えばジャズ・サックス・プレイヤーとして、例えば第1回ナショナル・ジオグラフィック・ジャパン・フォトコンテスト大賞受賞者として……意外にもそれぞれが知っていると思っている「冨田 晃」は、微妙に「別人」のような気がするかもしれない。
 今回のインタビューは、もちろん4月27日に発売されるCD『月の光 ドビュッシー作品集』のプロモートが目的で行なわれたわけで、ミュージシャン・冨田 晃が主人公であるのは確かなのだが、これまでの冨田像とはまた、まったく別の顔を見せる。
 無遠慮に「なにが本業?」と聞くと、「それが一番嫌いな言葉」と冨田。



冨田「生業というのは社会的なものが発達し、都市という場所で役割分担されて成立するものですが、見方を変えると人間の原始の状態に一番反していると思うんです。だから専門という言葉も嫌いですね。中米のホンジュラスという国に長く暮らしていたんですが、そこではそもそも暮らしの分業化もなく、自分ですべてやるしかなかった。いまの僕も同じです。自分で録音して発信しなければいけない。新しい音楽を創り世に放つために、コンプセプトづくりから、演奏、録音、編集、ジャケ写、パッケージデザイン、そしてレコード会社への売り込みまで、すべて自分でやる。夢を語るより形にすることにしか興味はないんですが、あんなことができるこんなことができるかもと言ってる暇があったらとっととやってしまって、売り手を捜すのが僕のやりかた。たとえ、その『とっとと』が何年かかろうとも」

 今回はまた、まったく新しいコンセプトでの音楽創造がテーマと言って良い。これまでに誰かがやっていたようで実はやっていないという、音楽創造の新たな方法論を1枚のCDに結実させた。波形編集という聞きなれない言葉が主役。できあがった音を聴いても、我々一般人には波形編集という言葉の輪郭も見えないのだが、音そのものが、これまでに聴いたことのない音として迫ってくる。映像で言えば被写界深度のような、音像の深み、広がりを感じさせる。

冨田「僕のこだわりの部分でもあり、コンピュータ・ミュージックが低迷している理由でもあると思いますが、いまの電子音楽のMIDI音源は、ある音をサンプリングしその音をベースに他の音を作るわけで、まあクローンみたいに違いがほとんどないわけです。その上音量にしても音のタイミングにしても、結局楽譜にしたら譜割りどおりにどこかに入れ込むじゃないですか。僕が求めるのは、人間的というよりさらに風そのものだったりという自然的なもの。例えば風を音に変えていくのに適するものといえば風鈴ですね、水だったら鹿威し。ただ自然そのものを感じたいと思っているわりに、現代人の能力はそれほど高くない。その橋渡し役として風鈴や鹿威しはあるわけですね。その部分を僕なりのつなぎ方をしたいと思ったときに、楽器のくせも取り入れよう、生のものであるがゆえに電子化すると排除されるような、一つ一つの音のばらつきや音色の違いも入れてしまおうと思ったんです。ですからMIDIで作業するのではなく、あえて一音一音を録音して、それを貼り付けていく方法を選んだんです。で、その音を貼り付ける時に、音楽化する一番の方法は歌うことですから、自分で歌って、そのタイミングとか音量の波形を作って、それを別の楽器に置き換えていきました。考えてみれば非常に素朴なやり方だと思います……大工の仕事に似ているかもしれません。楽譜が設計図とするならば、まず設計図を見て素材を探してくる。どこを切り取ってどこをつなぎ合わせるかと考えながら音を組み立てていく、そういう作業です。設計図を見ながら、どの音を使うかを探して音の大きさ長さ、途中の減衰の仕方とかを自分で作り直していくわけです。大工さんです」

 コンピューター上で波形編集を施し、まるで“ゆらぎ”までも感じさせる音に仕上がっている。実際の波形編集という作業はどんなものだったのだろう? 

冨田「体力勝負。視力は落ちるし、肩はこるし……。自分の歌った波形を見て、その波形にあわせて別な音を張り合わせていくというやり方を採用しました。冨田勲氏は『大工道具を見てどんな家が建つかを考えるなどばかげた話だ。だからシンセサイザーを見てどんな音がするのかと問うのも意味がない』と言います。冨田勲氏と基本の考え方は一緒なのかなと思います、シンセサイザーは音を作る道具ですから。ただ今回、音はサンプリングした楽器そのものに託しました。音は作らない。録音するだけ。どんな音楽を創りたいかという目的に特化したんです。その場合に作曲からはじめるとやるべき要素が多すぎて、作曲をやりたいのか音楽を創りたいのかわからなくなる。それで、ドビュッシーを設計図として使うことにしたわけです。
 例えて言えば、ガウディの描いた設計図を外尾悦郎さんが形にしていかれているのと同じように、ドビュッシーの設計図を僕が形にしていく作業ですね。作品自体は7、8年前に取り掛かって、3、4年かけて制作し、完成は4年前」

 冨田は、冒頭でも書いたとおりマルチに才能を発揮する人。自分でテリトリーやカテゴリーを決めてかからない。あるがままにあるがままのものに対峙するとでも言えば良いのか。水琴竹を発明した高野昌昭を手伝っていたこともあるという。

冨田「水滴の音というのは、ヒトラーが拷問に使ったといわれるように、それだけ聞いていると人間は耐えられなくなるんです。ある意味人間の本質を突く規則性と揺らぎをもっている。しかし水滴の音をいくつか重ねてあげると、今度は入ってくる音に変化するんです。高野昌昭の水琴竹のような、あんな音を創りたいとずっと思っていました。僕にとって音楽も美術もなんの境界もない、芸術と自然の境界も作らない。文化的なもの、自然そのものにも境界を作りたくない」

 そして、その思いは見事に結実しているように思える。

冨田「『これが本物でしょ?』とリスナーはある完成形を求めてくるんですが、それを良い意味で裏切りながら……ただし裏切りすぎるとビジネスにもならない。ある程度は売れながらも、かといって期待にはあまり応える気はないという矛盾を抱えつつ、自分の仕事をこなしていくようですね」

 三味線。スティール・パン。ガムラン。サックス。グラスハープ。水琴竹。そして波形編集……冨田 晃のフィールドは広がり続けるようだ。冨田の次は?

冨田「今回はスティールパンとグラスハープを使ったのですが、今度は楽器を変えてみようかと考えてます。ガムラン系とか……」

 本当は、この何倍かの話をしている。ここでは今回のCDに特化した話を原稿化した。そうでなければ、誌面はどこまでもふくらみ続けるから。
 ちなみに、CDジャケットも冨田が「月の光」をテーマに撮りおろしした写真群が飾っている。
 最後に、一言。“すごい音”それだけはハッキリしている。


【月の光 ドビュッシー作品集  収録曲】
1. 月の光
2. 亜麻色の髪の乙女
3. パスピエ
4. 小さな黒人
5. レントより遅く
6. 月の光(ver.)
7. 夢
8. ゴリウォーグのケーク・ウォーク
9. 雪は踊っている
10. シランクス
11. 二つのアラベスク第1番