普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

1週間後のレポート

2015-06-27 18:04:19 | 極端な人々<的>な
47年前、ボクは高円寺に稽古場のあった「三期会」(後に東京演劇アンサンブルと名乗る日共系の劇団だった)に研修生のような者として入った。高校を卒業してすぐに入ったのだが、同時にW大学にも入学した。劇団に入ってしまったものだから、夜学ということになった。
劇団では最も若い部類だった。当時は学生運動(反米反権反戦、沖縄独立、三里塚闘争などなど、ボクは役者として労働運動の一環のつもりで参加した)の真っ只中で、お芝居そっちのけでいた時期もあったが、同期の何人かの仲間とは当時よりもひょっとすると今の方が忌憚なく話せるくらい親しいかもしれない。

という前振りをしておいて。

先週、劇団のあった(今はもうない)高円寺で、仲間二人がそれぞれにやっている店があるということで、46年振りに会う仲間も居つつの、プチ同期会をやった。当時同期が何人いたか記憶は定かではないが、店を経営する2人を入れて11人が集った。

一応皆覚えていた。あの頃のはち切れそうなパンパンの感じはさすがになかったが、決して年相応ではなく、皆ぴんとしていたのはさすがと思った。

今でも芝居を続けている仲間が3人いて、なにか羨ましい思いに駆られた。

はじめに行ったおでんが美味しい「間味」は、アンサンブルから前進座に行って、故藤田まことさん主演の人気テレビドラマシリーズ「はぐれ刑事純情派」のレギュラーだった、若林君の店。一度立川かどこかで会ったことがあったけれど、それから20年は経過しているだろう。やはり懐かしかった。あまりに良いお店なので、通うことにしようと密かに思っている。



ここでは今も前進座で活躍している志村さんが、当時の劇団の「内緒話」をいくつかしてくれて楽しかった。

次に行ったのは、高円寺の高架下にある「フライトハイト」というバー。こちらは福島さんのお店。当時はやせぎすでお兄さんのような存在だった福島さんが、品の良い紳士になっていた。ボクのことを覚えてくれていたのには、感激ひとしお。こちらも通いたいな。



なんだか、話をしている内に坂巻君も、ナベもフーちゃんも、ミミちゃんも、マチコさんも、ヨシコさんも、あれ、ご免、1人名前を急に思い出せない……。

だめだ……これが急性の認知症症状でなけりゃ良いんだが……。

いずれにしても、また会いたいなと思った。

いつか芝居に誘ってくれよ!


300000PV&125000IP OVER!

2015-06-24 13:13:22 | 普通な人々<的>な
200000PVを超えてから、皆さんの訪問数を報告することを止めていましたが、ちょっと感動で、報告します。

表題通りで、300000PV&125000IPを超えました。この数字の凄さを噛みしめています。

2010年にブログを始めてから、ここまで来れるとは正直思ってもみませんでした。偏に皆さんのおかげです。

300000を超えたから、なにか皆さんに記念品を配るとか、そういった企画はありませんし、それがどおした? と、ドラえもんに言われそうですが、なにかとても嬉しい。

きっとまだ先はあるのだろうから、その先を目指して書き続けます。

老い老い

2015-06-23 20:02:14 | 普通な人々<的>な
老いというのは、誰にでも平等にやってくるものの一つ。
それでも、そのやってくる速度は平等ではない。個体差がある。

老いの迫りくる最初の兆候は、目だ。俗にいう老眼だ。その次が反応速度の低下。そのことになんとなく気が付く頃に、膝が痛くなったりとパーツの衰えに気づくようになる。

そのうち、身体の全体に、例えば皮膚がかゆくなったり、髪の毛が細くなったり、耳が聞こえにくくなったり、食が細くなったり、酒に弱くなったりとさまざまに自覚できることどもが露わになってくる。

車の運転を続けると、身体の右半身に、違和感を覚えるようになる。左はほとんど使わないから、右半身の違和感は意外に顕著だ。

とはいえ、50代の頃はその体の違和感に、慣れる時間がある。別な言い方をすると老いはゆっくりとやってくる。

だが65歳を境に、その足を速める。慣れる暇がなくなるのだ。あそこにも違和感、ここにもそこにも違和感、という感じになってくる。

そしておそらく(まだボクはそこまで至っていないので想像の域を超えないのだが)、70歳を過ぎればそうした違和感さえ違和感でなくなるほどに老いは急ぎ足でやってくるのだろう。

仏陀は悟りに至るきっかけとなる四門遊観で、生老病死を目の当たりにするのだが、人間は平等にその一つ一つを“体感”するのだ。

老いは望むところではあるが、人に迷惑をかけるのが怖い。

東京「昭和な」百物語<その7> 上板橋2

2015-06-13 15:12:16 | 東京「昔むかしの」百物語
上板橋に住まっていたのは、およそ4年間だったろうか。以前にも書いたが、典型的なハモニカ長屋に住んでいた。6畳一間にキッチンのついた(水盤はあったが、水はトイレの横にあった井戸水だった)、風呂もトイレもない(トイレは共同のボッチャントイレ、風呂は近くの共同浴場に通っていた)部屋が片側にずらりとおよそ6部屋くらい並び、廊下を挟んで反対側には4畳半で同じ条件の部屋が、8部屋くらい並んでいて、加藤家は、6畳と4畳半を一部屋ずつ借りていた。
廊下は一直線に表から裏に筒抜け状態で、いま思えば本当になんとも言いようのない佇まいだった。
余談だが、ボクはこの廊下を端から端まで勢いをつけて走り、出入り口を抜けたとたんに空へ飛び立つという夢を、ほとんど週1ペースで見ていた記憶がある。あの浮遊感は今でも忘れない。さすがに30歳を過ぎてからは見ていない。

ここでの暮らしは、皆さんが想像するくらいには楽しかった。月に一度は停電したし、雨の季節には部屋の壁をナメクジが這い回り、夜になると彼らの歩いた軌跡がキラキラと輝いていた。台風の時はそりゃもうワクワクした。雨戸を閉めて上から父がバッテンに材木を打ち付けるのを、自分もやりたいと思いながら、みていた。

風呂は近所に共同浴場があって、一風呂浴びて外に出ると紙芝居屋のおじさんが一席打っていた。あの頃の紙芝居屋のおじさんは、まさに一席打つ、という表現が適切な、プロ、語りのプロだった。きっと役者になりたかったとか、弁士になりたかったというような過去がある人たちだったのかもしれないな。
その紙芝居の出し物の中で、いまだに忘れられない話がある。「笑い虫」という、今でいえばホラー物。良い家に入った女中さん(この言葉は差別的な用語だと言われてきたが、とうとう意味の分かる人もほとんどいなくなってしまったから、ニュアンスとして使う)が、夜な夜な廊下を笑いながら歩くという、なんと言うこともないのだが、そこはかとなく怖い話だった。家の主人に格別の恨みでもあったのだろう、その理由は覚えていないが、確か主人は恐れおののいていたように思う。紙芝居だから絵があるわけだが、その女中さんの絵はオカメ&ひょっとこのオカメさんのようだった。
そのせいか、ボクはオカメさんのお面をみると背筋に冷たいものが走る。それはいまでも。オカメさんが紙芝居で見せたあの笑顔の裏に潜む、誰にということもない怨念のありようが、いまでも怖いのだ。
ソースせんべいを5円で買って、手に力が入りせんべえが割れるほど、ちょっと怖い紙芝居を見ていた子供時代、というわけだ。
断っておくと、この時代、まだどの家庭にもTVはない。あるのはラジオ。NHKで夕方放送していた「新諸国物語」が楽しみだった時代。ボクが聞いていたのは「笛吹き童子」「紅クジャク」「オテナの塔」あたり。「紅孔雀」は中村錦之助主演で映画にもなったはずだ。ボクは観たもの。
「ヤン坊ニン坊トン坊」という番組もあった。黒柳徹子さんが末っ子のトン坊の声を担当していた。