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東京「昭和な」百物語<その25>芸能(続き)

2017-05-07 01:12:41 | 東京「昔むかしの」百物語
というわけで、また嘘つきハンスになった。ボクの「明日」はおよそ普通の人の「2週間後」に相当するわけで……。そんなことは、まぁいいか!

日本の音楽業界が、まだやくざに仕切られていたという典型的なシーンは、美空ひばりと小林旭の結婚記者会見に見て取れる。その時の映像はおそらくどこのテレビ局にも資料として残っているだろうが、二人の脇にまるで後見人然として映っているのは、山口組の三代目・田岡一雄組長だ。それまでの美空ひばりの所属事務所は「神戸芸能社」。早い話が田岡組長が設立した美空ひばりのための芸能プロだった。そしてこの時の田岡組長は、その後に設立した「ひばりプロダクション」副社長の肩書だった。なによりひばりの父親代わりだったのである。

この当時の芸能関係の8割方は、やくざの息がかかっていて、それは可笑しなことでも不思議なことでもなかった。映画界も音楽会も、相撲界も、もっと言えば政財界も、やくざと関わるのは当たり前のことだった。なんとなれば、昭和30~40年代はまだ、社会の表と裏が誰の目にも見える形で存在していたからだ。表を支えるためには裏が必要と、誰もが知っていた時代だったのだ。

歴史を紐解くと、芸能そのものがやくざと密接な関わりがあった。有体に言えば、同じ穴の狢だった。もっと言えば被差別民の生業の一つだった。歌や芝居は「」の生業であり、彼らの受け入れ側で庇護者であり搾取者であったのが、同じように無宿者、社会からのはみ出し者=やくざだったのだ。それは江戸期から続くwinwinの関係だった。

この図式も、昭和40年代後半に入ると変化し始める。やくざへの風当たりが強くなり、芸能にも「普通な人々」が参入し始める。その典型が中津川のフォークジャンボリーだった。おそらく世界で初めての大規模な野外コンサートである。あのウッドストックより1年も前に開催された。このコンサートは、労音(日共系音楽鑑賞団体)の制作メンバーが高石ともやなどと企画し始めたイベントだった。

芸能の興行が、徐々にノーマルな商業行為として成立してくる。その結果、やくざは表舞台から排除されることになった。いやいや、排除されるほどやわではない。表向きの顔、会社形態をきちん設えて、プロダクション経営などを引き続き行っていくようになった。

いまある芸能プロダクションがやくざの表向きの顔だなどと言っているわけではない。昭和という時代にそうしたプロセスを経て、いまの芸能界もあるのだというお話し。






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