最近、なにも思いつかないことが怖い。
その原因は、圧倒的な情報不足に由来する。
年齢を重ねることで、その情報不足は出来する。
耳が思った以上に聞こえ難い、目が見え難くなっている、匂いも感じ難い、食味も想像以上に単調になっている、そして肌と肌を触れ合うこともとんとなくなっている。
五感は、思った以上に劣化しているのだ。
五感から得る情報の不足は、意識の劣化も招く。
多くの場合、アルツハイマー以外の認知症が発症する遠因に、この五感から得る情報の不足があるのではないかと、思っている。
それは自分自身のこれまでの経緯を考えてみれば明らかだ。
生活が単調だとか、人間関係が希薄だとか、単にそれだけのことではなく、仕事が減ることで人と会って話すことが極端に減ったことに起因し、鬱的な精神状態に陥ったり、それまでポジティブだった家族との関りが、思いの外粗略だったりすることに気付いたり、年齢がいけばそれなりに自分の抱えていた社会との関わりが劣化していることに大いに気付かされたりと、気づきは大いにある。
そして、そのことに対する方法論として、時として人間はその関りをなかったものにする、知らなかったことにするという対応を取る。
それは結果として、ただでさえ感受性の落ちている五感を、より一層劣化させることにつながるのだ。
それは、思いもよらない情報不足という結果を招き、何かに反応するという感受性の劣化を招くのだ。
何も思いつかないというのは、恐ろしいほどの精神の劣化を招いていることの証なのだと思う。
そうありたくはない、という思いを込めて、このブログを書き続けることがボクの必然なのだ。
その原因は、圧倒的な情報不足に由来する。
年齢を重ねることで、その情報不足は出来する。
耳が思った以上に聞こえ難い、目が見え難くなっている、匂いも感じ難い、食味も想像以上に単調になっている、そして肌と肌を触れ合うこともとんとなくなっている。
五感は、思った以上に劣化しているのだ。
五感から得る情報の不足は、意識の劣化も招く。
多くの場合、アルツハイマー以外の認知症が発症する遠因に、この五感から得る情報の不足があるのではないかと、思っている。
それは自分自身のこれまでの経緯を考えてみれば明らかだ。
生活が単調だとか、人間関係が希薄だとか、単にそれだけのことではなく、仕事が減ることで人と会って話すことが極端に減ったことに起因し、鬱的な精神状態に陥ったり、それまでポジティブだった家族との関りが、思いの外粗略だったりすることに気付いたり、年齢がいけばそれなりに自分の抱えていた社会との関わりが劣化していることに大いに気付かされたりと、気づきは大いにある。
そして、そのことに対する方法論として、時として人間はその関りをなかったものにする、知らなかったことにするという対応を取る。
それは結果として、ただでさえ感受性の落ちている五感を、より一層劣化させることにつながるのだ。
それは、思いもよらない情報不足という結果を招き、何かに反応するという感受性の劣化を招くのだ。
何も思いつかないというのは、恐ろしいほどの精神の劣化を招いていることの証なのだと思う。
そうありたくはない、という思いを込めて、このブログを書き続けることがボクの必然なのだ。