黄泉路という言葉がある。あの世へと向かう死者の辿る道である。想像の域を一歩も超えることはできないが、この道はあれこれと面白いテーマとモチーフを与えてくれる。
だから文学というものが誕生してすぐに書かれた作品は、ほとんどがこの生と死を繋ぐ不可知領域をモチーフにしている。宗教の領域なのだ。そして現代の我々よりはるかに、過去の人々は不可思議なことに対して敏感だった。
だから、黄泉路=夜道を恐れた。今、現代人は夜道の恐ろしさひとつとっても、まったく別の、痴漢やら暴漢やら引ったくりなどという、肉体やものに対する恐怖として捉える傾向が強い。どちらかといえば心の奥底の恐怖とは無縁になり、霊的なものというより、都市伝説的なものへとシフトしている。
確かに心の奥の恐怖より、物理的な恐怖のほうが勝るかもしれない。なにしろ見えるのだから。
それでも、ボクは心の奥の恐怖に惹かれる。なぜなら、それは人が森羅万象への畏敬を忘れていないという証でもあるからだ。
というわけで、ボクは今日も「黄泉路のひとり歩き」に出かけるわけだ。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より>
だから文学というものが誕生してすぐに書かれた作品は、ほとんどがこの生と死を繋ぐ不可知領域をモチーフにしている。宗教の領域なのだ。そして現代の我々よりはるかに、過去の人々は不可思議なことに対して敏感だった。
だから、黄泉路=夜道を恐れた。今、現代人は夜道の恐ろしさひとつとっても、まったく別の、痴漢やら暴漢やら引ったくりなどという、肉体やものに対する恐怖として捉える傾向が強い。どちらかといえば心の奥底の恐怖とは無縁になり、霊的なものというより、都市伝説的なものへとシフトしている。
確かに心の奥の恐怖より、物理的な恐怖のほうが勝るかもしれない。なにしろ見えるのだから。
それでも、ボクは心の奥の恐怖に惹かれる。なぜなら、それは人が森羅万象への畏敬を忘れていないという証でもあるからだ。
というわけで、ボクは今日も「黄泉路のひとり歩き」に出かけるわけだ。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より>
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